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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第三部・七公裁判篇
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3-9・宿暮らしのティラール

 シャサールはこれまでずっと末の弟を、とんでもない愚か者でバロック家の恥さらし、と思い続けてきた。何年か前までは幾度も、生活を正し宮廷にも出仕するよう、時には殴ってでも説教をしていた。弟の為ではない、自分の為である。将来バロック公となる自分に対し、弟たちは役に立つ存在であらねばならない。しかしティラールは、どれだけ罵られようと、その場では謝るものの、決して努力しようとする様子はなかった。シャサールの娘、ティラールにとっては歳の近い姪であるリーリアにまで馬鹿にされた態度をとられても、ただ不愉快そうな顔をしてみるだけで、言い返す事もなく……。

『自らを磨く努力をせぬ者は目下の者から蔑視されても仕方もないのだ。あのような奴は居る価値もない』

 高慢な娘を戒めるどころか、逆にシャサールはまだ少女だった娘にそんな風に話しさえもしていた。そして今やリーリアは王妃となり、爵位もなく騎士ですらないティラールなど、直に会う事すら叶わぬ存在となった。シャサールは自分の教育が間違っていなかったと感じている。

「父上、あの愚か者が、父上の為に自分で考えて何かを探りに行った、などとは私には思えません。あやつの事ですから、アルフォンスの娘にねだられでもして、具合を知る為の行動ではないでしょうか」

「む……そこまで愚かと思うか」

「あの娘にねだられて、『お取りなしを』などと文を寄越すような愚か者ですよ? 何を仕出かしても不思議ではありません。これ以上あやつがバロックの名に泥を塗る前に勘当して頂きたいと思うくらいです」

「うむ……まずはザハドの報告を聞き、そなたの言うような事であれば……そうせざるを得ぬだろうな。その話がまことなら、だいぶ日が経っておるのにザハドの奴め、目付役のくせに急ぎの報告も寄越さず何をしておるのか」

 アロールはそう言って軽く溜息をついた。恐らくシャサールの言う通りなのだろう、と思うと気が滅入るのだった。


 さて、遠く離れた王都で父と長兄が自分の事をこのように話している事など露知らず、ティラールはアルマヴィラで宿暮らしを続けていた。宿のあるじは今では彼が宰相の息子であると知っている。ティラール自身が吹聴した訳ではないが、彼の顔を知る者は多い。ルーン公捕縛の直後に比べればだいぶ普段の落ち着きを取り戻しつつあるアルマヴィラ都だが、裁判の結果如何ではまたどのように緊迫した状況になるか解らない。商売その他でどうしても必要で滞在する者以外、参拝客などの余所者の姿は非常に少なくなっていた。焦茶の髪に緑のひとみを持ったこの若者は、何か仕事をしている様子もなく悠然と過ごしていたので、あれはいったい何者なのかとすぐに宿周辺の者たちから詮索され、時も要さず身元が知られて噂になってしまっていたのだ。

 だが何と噂されようとティラールはあまり気にしない。噂にならなくとも、どうせザハドはもう自分の所在くらい掴んでいるだろうと思っていたし、今のところは、バロック家の息子という肩書きは無効になっていないようなので、それが使える間はつけで滞在し続ける事が出来る、と目論んでいた。宰相の息子ともあろう者が、ルーン家の客館を出て供もなく一人で宿に滞在している事について様々な憶測が飛び交っていたがティラールはそれも無視していた。

 ティラールがしている事は、毎日ユーリンダの元を訪れて慰めに話をする事と、ローゼッタと定期的に会って新しい情報がないかを確認する事が主だった。友人としてティラールに心を開いたユーリンダは、最早嫌な顔をする事もなく彼の訪問を喜んでくれる。それだけでも、ティラールは生家を捨てた寂しさや不安など吹き飛ぶ心持ちになる。様々な土地を旅してきたティラールの話はユーリンダには珍しく面白く、見知らぬ地方の有様はどのようであろうかと想像を広げている間、彼女は様々な憂いごとから解放されるのだった。

 他にティラールが心にかけているのは、万一の時に具体的にどう動くか、ローゼッタとよく話をつけておく事である。ローゼッタは、小貴族の中に既に協力者を確保していると言う。アトラウスが色々と手を回しているらしい。そこで取りあえずティラールはその作戦に一役買う事にした。本当は、アトラウスに力を貸すなど真っ平御免で、自分だけの力でユーリンダを救いたいと思うのだが、彼女を救う目的が一致しているのに別の考えで動いていては、かえって互いに足を引っ張り合う結果を生みかねない。そこでユーリンダの安全を第一に考え、アトラウスへの不信感には暫し蓋をしておこうと無理に自分を納得させたのである。

 そして、ティラールがもう一つ気にしているのは、ファルシスに頼まれた行方不明の侍女の事である。ユーリンダと話していると、彼女はアトラウスが侍女を保護していると信じて心配はしていないようだが、早く会いたいと何度も言っていた。本当はアトラウスも侍女の行方は掴んでいないとローゼッタに聞いていたので、ここで侍女を先に見つけ出せれば、ユーリンダを喜ばせる事ができる、と彼は意気込んでいる。しかし実際問題としては、どこをどう探せばいいのか、まるでわかりはしない。ザハドを見張っていれば何か判るかも知れないとは思うが、ティラールは彼が怪しげな魔道まで身につけていると思い込んでいるので、単身で近づく自信はなかった。『今度会った時には容赦はしない』という言葉は本気であると、長年の付き合いで身に沁みて判るのだ。

 余った時間を、彼は街中を散策したり店で食事を摂ったりしながら人々の様子を観察する事に費やした。宿からだいぶ離れて下町にも足を踏み入れ、今まで立ち寄った事もないような安居酒屋にも入って色々な者と話をした。最初は、いかにも貴族風なティラールを警戒する空気ばかりだったが、ティラールが隔てない態度で周囲に酒を振る舞ったりすると、段々と下層の町民たちも彼を受け入れる心持ちになってくるようだった。

 装飾もないひびの入った壁、掃除の行き届いていない湿った床、そして安酒と庶民の口に慣れた固いパンや肉の少ないスープ……そんな場所に近づいたのは、いずれ路銀が尽きる時の為の準備という意識からではない。バロック家をいう枷を外されて、知らなかった世界を自由に歩き回ってみたいと思っただけだったのである。

「なあ、あんた、貴族様の坊ちゃんだろ? お忍びで旅行中かい? しかしまたなんでこんな時期に来たんだい?」

 酒場の喧噪の隙間をぬうように、程よく酒が入った中年の男が近づいて話しかけてきた。以前に酒を奢ってやった男で、顔見知りになってはいたが、これまで男は警戒心を見せて自分から話しかけてくる事はなかった。だが今日は何か良い事でもあったらしく、男はやたらと愛想良く馴れ馴れしい。赤ら顔で細目で笑い方に品のない小男だった。ティラールは少し意外に感じたものの、一人で退屈気味でもあったので、愛想良く返答した。

「まあそんなところだ。こんな時期と言うが、別に治安が乱れている様子はないようだが?」

「取り締まりが厳しくなってるから、皆おとなしくしてるだけさ」

 そう言うと男はもの欲しそうな目でティラールの麦酒の壺を見た。ティラールは苦笑して男のカップに麦酒を注いでやる。男はにやりとして礼を言い、ぐびりと美味そうに喉に流した。

「貴族様はいいよなぁ、金があってよ。しかしなんでまた、こんなしけた酒場で一人で飲んでるんだい?」

「こういう場所はこういう場所で面白味があるもんだ。夜会なんか、もう飽き飽きしたのさ」

 下町の人間とも気安く会話が出来るようなくだけた物言いを既にティラールは学んでいた。 

「そうかい。好きなように出来ていいご身分だねぇ。おれたちなんか、こっから出て行きたくても出て行けやしねぇ。死ぬまでこの、しみったれた通りで這いつくばって生きるしかねえのさ」

 男は酒杯をあおって吐き捨てるように言う。ティラールは僅かに眉を顰めた。

「しかしこのアルマヴィラは、聖都というだけあって他の地域よりかなり治安もよいし、身分の低い者にも住みよいところの筈だ。しかも、今のルーン公殿下は、庶民向けの学問所に更に奨学金制度を設けて身分の如何を問わず取り立てるようになさっているとか。能力さえあれば官吏にもなれるというじゃないか? 何が不満なんだ?」

「能力だって? そんなもん、『あれば』の話だろ。学問所だって? 笑わせてくれるねぇ。やっぱりお貴族さまなんて何にも解っちゃいねぇ。おれらは生まれて死ぬまでこの暮らしだと、ルルアが定めちまっているんだ。こんな日陰の場所で育ったおれたちが、どうやって学問なんか身につけるっていうんだ。お笑いぐさだぜ」

「……」

 尊敬するアルフォンスを貶められた気がしてティラールは湧き上がる不快感を抑えようと懸命に堪えねばならなかった。ティラールには、男の言葉は、機会を与えられたにも関わらず努力を怠った者の言い訳にしか思えない。そんなティラールを、酔って充血した目でじっと見据えていた男は、ふと思い直したように明るい声をあげた。

「ま、んな事今更言ったって仕方ねぇ。それより、坊ちゃんはどっから来たんだね? なんか旅の話でも聞かせてくれや」

「おれの旅の話なんて、大して面白くもない。どこへ行ったって、おべっかを使う連中に囲まれていただけさ。それより、あんたの話を聞きたいな。あんたがたは、ご領主様の事をどう思っているのかね?」

 これは今までにも何度か、下町で会話を交わした者たちに振ってみた話題だった。しかし殆どの者はその話題になると急に表情を硬くして口をつぐんでしまう。男もやはり、最初は警戒するように周囲を見回したが、別に誰もこちらに注意を向けている様子もないと確認すると、酒のコップを持ったまま、ティラールに椅子を寄せてきた。

「噂も口を滑らせすぎて警護隊に目ぇつけられて厄介な事になったらこまるからな」

「たかが噂話くらいで警護隊に拘束されたりするのか?」

「『ルーン公は有罪だ、呪われた結婚で聖炎の神子も汚された。私邸に押し入り、偽りの神子と娘に死の制裁を与えよう』そう叫んだ奴が逮捕されて以来、ちっと過敏になってるのさ」

 男はそう言って、ぐいと酒杯をあおった。


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