3-8・バロック家の長男
アロール・バロックは大神官と別れ帰路についた。バロック家の薔薇の紋章が刻まれた豪奢な三頭立ての馬車に一人乗り込む。王族のものにもひけをとらぬ堂々たる馬車を仕立てる時にアロールは息子達に、無駄な出費とそうでない出費について教えた。アロール自身はさほど贅沢好みではないが、権威を示す為にはそういう投資も必要であるという事を、である。
彼の嫡男シャサールは、父親とは違い心から華美なものを好む傾向にある。アロールとしては、そうした心持ちを諫めようという気持ちもあったのだが、余り通じたようではなかった。
シャサールは37歳、その長女が王妃リーリアである。決して凡庸ではないが、やや高慢で大事な場面で冷静さを欠くところがあり、その点をアロールは自分の後継としてやや物足りなく思う時がある。だが、次男三男も似たような性質であり、アロールとしてはこのシャサールが齢を重ねてもう少し思慮深くなるように願うしかなかった。四男のティラールに至っては、自分の息子としては全くの落第点である。ただ、この出来の悪い末っ子は、子どもたちの中で唯一人、亡き正妃の性質をかなり受け継いでおり、それ故にアロールはなかなか彼を見捨てる気持ちにはならなかった。側女も置いたが、何人もの子を産んでくれた正妃には、女性としても長年のパートナーとしても愛情を持ち続けていたのだ。正妃が待っていてくれた頃の領内の私邸は、束の間心を休められる場所だった。しかし彼女が病で亡くなってからは、がらんとした館に癒しを感じる事はもうない。所領へ帰っても、あまり私邸には戻らず、公邸で自分の裁量が必要である案件を片付けてまた王都へ戻る……そんな生活がここ何年も続いていた。
規模は小さいものの豪華さでは領地内の本館にも見劣りせぬ、王都上町の中心部にあって最も目を引く貴族の館である自邸に帰ってきたアロールは、外套を執事に預けながらシャサールはどこかと尋ねた。私室におられます、との答えだったので、書斎に来るように伝えろ、と言いつけた。
普段はアロールが王都に滞在している間は嫡男シャサールに所領を任せている。今回もそうさせようと思っていたのを、シャサールはどうしても自分も同行して裁判に立ち合いたいと願い出た。
シャサールはアルフォンスより一歳年長で、子どもの頃から、王都に赴く父に伴われる際に、同じように父親の前ルーン公に連れられたかれと会う機会が何度もあった。当時は両家の関係も良く、公爵の嫡男同士、歳も近いのであるから、気が合えば、王都に滞在中に共に学び遊び、親しくなれた筈の関係である。アルフォンスはスザナ・ローズナー現女公爵とはそうやって友情を深めた。しかしシャサールはどうにもアルフォンスを好かなかった。いつもにこにことして礼儀正しい黄金色の髪の少年を、女みたいでいけ好かない奴と陰で罵り、自分の方が歳上で偉いんだという事を態度で示し続けた。宮廷内の女性からの評判がやけにいいのも、子どもながらに気に入らなかった。
「そなた、ルーン家のアルフォンスともっと親しくしなさい。そなたもあの子も将来は共に、協力して王家を支えていかねばならぬのだから」
あの頃のアロール・バロックは息子にそんな事を言ってもいたのだ。しかしシャサールは、表面上は従順であったものの、心中はあんな奴と仲良くなんかできるものか、と思っていた。そんな息子の考えをアロールはすぐに見抜いたものの、競争心が勝るのは悪くもないこと、とも思い鷹揚に構えていた。
そんなシャサールにとってアルフォンスが「いけ好かない奴」から憎悪の的になったのは、12歳の時である。王都に滞在中、シャサールもアルフォンスもほぼ毎日、貴族の子弟が使う剣の稽古場に出ていた。が、シャサールは直にアルフォンスの腕前を見た事はなかった。『ルーン公殿下のご子息はあの年齢で既に大人にも負けぬ優れた腕前、素晴らしい資質をお持ちでいらっしゃる』との噂は耳にしていたが、自分だっていつもそう言われるし、あんな女みたいな奴がそんなに使える筈もない、ただの追従だろうとばかにし、かれが褒められるのを見るのも不愉快なのでいつも時間をずらしていたのだ。実際は、自分が言われている事の方が追従であるとは思いつかない。
そんな折に訪れた国王の御前の練習試合の機会。シャサールはアルフォンスをこてんぱんにして恥をかかせてやろうと目論んだ。少年たちの練習試合は騎士たちの試合の前座のようなものに過ぎなかったが、国王陛下直々にお褒めのお言葉を頂けるかも知れないという期待に、少年たちの士気と高揚は大人に劣らず大きい。決勝戦に進んだのはシャサールとアルフォンス。この大舞台でアルフォンスを打ちのめすべく、シャサールは、アルフォンスの予選の相手で自分の意のままになる貴族の息子たちに、わざと手を抜いて負けてやるよう言い含めていた。
「シャサールさま。手など抜かずとも、自分はアルフォンスさまに到底敵いません。どうぞ侮らず、お気をつけ下さい」
手下の少年の一人がそう忠告してくれたが、シャサールはその少年を軟弱な臆病者と罵倒した。そして、衆目の前で相手を惨めに地に這いつくばらせるつもりでいたのが、実際に打ちのめされたのは自分だったという訳だ。練習用の刃を潰した剣を一撃で叩き落とし、自らの剣を相手の喉元に突きつけたのは、年下のアルフォンスの方だったのである。試合が終わった後、アルフォンスは彼に手を差し伸べたが、屈辱に真っ赤に染まった顔でシャサールはその手を撥ねのけた。
シャサールがその後もアルフォンスを厭わしく思う理由はまだある。アルフォンスが、父の前ルーン公が病に倒れ弱冠17歳で公爵位を継いだのに対し、年長である自分は父がまだまだ健在である為に、未だに伯爵位しか持たぬという事である。まさか子どもの頃のように偉ぶる訳にもいかず、立場上否応なしに下に立たされ、シャサールは益々アルフォンスに対する憎しみを燃え上がらせた。アルフォンスは常に対等の立場として彼を立ててくれたが、その態度が一層苛立ちを募らせた。
そしてそんな年月を積み重ねた後、シャサールにもたらされたのは、父の名代として弟ティラールとアルフォンスの娘との婚姻を求める、という役目である。アルフォンスは感謝し、頭を下げるに違いない、そう思うと溜飲の下がる思いだった。なのに、驚いた事にアルフォンスはこのまたとない話をきっぱりと断ってきたのだ。侮辱された……その思いでシャサールは怒り狂いながらアルマヴィラをあとにした。
このような経緯で、シャサールはアルフォンスが惨めに被告席に立たされ、断罪される様を見たいと切に願った。この騒動が父の思惑内である事は聞かされていたが、その真の目的は知らない。ただ、父の仕組んだ事であるからには、アルフォンスが敗けて処刑されるのは確実であろうと思い、その場に立ち合いたかったのだ。
このように嫡男が私怨に突き動かされるところに、アロールは決して良い気持ちを持ってはいない。しかし、バロック家に逆らった者の末路がどうなるか、どのように処断すべきなのか、学ばせる良い機会であるとは思った。そういう訳で、シャサールは父と共にこのバロック私邸に滞在しているのである。無論、アロールはただ嫡男を遊ばせてはいない。アルフォンスに毒を盛ったのは平民の女という話だが、その背後には黒幕がいるかも知れない。それを手の者を使って探るよう、シャサールに命じていた。
「父上、お呼びでございますか」
書斎にやって来た息子にアロールは、
「毒の件はどうなった。調べはついたか」
と、淡々と尋ねた。シャサールは表情を強張らせて答える。
「いえ……色々と探らせておりますが、女が誰かと接触する所を見た者もおらぬし、不審な者を見た者もいないと……小さな村ですから、余所者がいれば誰かしら目にしている筈と思うのですが」
「ふん……通り一遍の調べで分かるような事なら、金獅子どもが既に掴んでいる筈だ。魔道士はどうした、何も言ってこないのか」
おおやけには、魔道を使ってよい者は神殿に仕える神官だけである。魔道士と呼ばれる者は陰の存在……神殿から何かの理由で破門され、その上で修行で身につけた能力を勝手に行使するような者が多い。だが、天性の才を持つものの神殿には入らずに、直に魔道士に教えを請うて力を伸ばした者も中にはいる。こうした者のうち、大した力を持たないような者は、例えばアルマヴィラの裏小路のような、権力者でもなかなか手を出せない治安の悪い地区に集まり、ひっそりと、まじないなどを生業として生きていくしかなかった。だが、それなりの力があれば、他にも働き口がある。貴族に裏で雇われ、主に諜報などの任務を請け負うのである。宮廷にあって成り上がろうとする者は皆、情報の大切さが身に沁みている。力さえあれば、雇い主を探すのは困難ではなかった。王家や公爵家といえどもそれは例外ではない。バロック家を始めとする貴族の筆頭である公爵家でもそれぞれ、代々の当主は裏で魔道士を召し抱えてきた。但し、ルーン家のみは別である。他家と違い、ルルア神殿と極めて深い関係を持つルーン家では、『堕ちた存在』である魔道士を近づける事は禁忌とされてきたのである。勿論、アルフォンスの代になってもその家訓は守られている。魔道士などいなくとも、必要とあれば高位の神官の手を借りる事も可能だったので、他家に遅れをとる事はこれまではそうある事でもなかった。だが現在の当主アルフォンスと大神官ダルシオンの仲は冷え込んでいる。婦女子殺害の件でアルフォンスが神殿に調査の協力を依頼しても表向きいっこうに動こうとせず、そして裏では、アルフォンスが情報を掴めずにいる間にダルシオンは着々と己の信念を通す為の下準備をしていた、という訳である。
「魔道士はまだ調査中のようです。しかし、新しい情報はあります。ティラールの事です」
シャサールは僅かに嫌悪感を面に浮かべながら言った。ティラール・バロックを名乗る男がルーン公と面談した、という情報は既にもたらされていたが、それが真のティラールであるのか、流石のバロック公にもシャサールにも、すぐには判断出来なかった。アルマヴィラにいる筈のティラール。ザハドに命じた裏の任務の為、アルマヴィラに滞在し続ける口実とするべくティラールに帰還するようには言っていなかった。何も知らずに呑気に過ごしている筈のティラールが自分の意志でルーン公に近づくなど、かれの父にも兄にも想像外に過ぎたのだ。
「なんだったのだ?」
「かの者はやはりティラール本人に間違いなかった、という事です」
「……」
アロールは少し考え込み、嫡男に、そなた、どう思う? と尋ねた。