3-7・宰相と大神官
危篤状態と伝えられたルーン公が奇跡的に快復に向かい出したという報は、先の報よりまた七日遅れて王都へ伝えられた。
この事について人々の意見は様々であった。以前からルーン公に好意的な見方をしていた者は「やはりあの方にはルルアのご加護があるのだ」と言い、ルーン公に罪ありと見なしている者は「やはり大罪に手を染めた者は苦しみを与えられるのだ」と囁き合った。
宰相アロール・バロックは、この報を聞き、むしろ良かったと思った。灰色の結末は好むところではない。公の舞台でアルフォンスの有罪を確定させなければ、かれの嫡男を処分することも面倒になってくる。かれの妻、聖炎の神子の身柄はノイリオン・ヴィーンが欲しているという話で、一応それについては了承している。ノイリオンに与えて聖炎の神子の座から降ろしてしまえばただの女に過ぎなくなる。娘の方は、嫡男と同じく、後に禍根を残さぬ為にやはり処分した方がいいと思っている。息子ティラールを袖にした、身の程知らずで愚かな娘という気持ちも勿論ある。しかし、彼の協力者の中には彼女の処刑を止める声もあり、最終的な判断は保留、という気持ちでいる。
このように考えを進めているのは無論、国王にアルフォンスを有罪と判決させて処刑台に上がらせる事に自信を持っているからである。アルフォンスとて自身の冤罪を晴らす為の弁明を色々と考えているだろうし、それによっては恐らく、目障りなラングレイ老公などはかれの味方をするだろう。だがそれでも……。
このような事を思いながら彼は王宮の回廊を歩いていた。宰相の執務室から私邸へ戻る所である。白の回廊と呼ばれるここは、広大で様々な花々に彩られた宮中庭園に面し、壁面と床、柱も全て純白に近い大理石のみで造られている。天井は高く、天井画の代わりに王家の紋章である金獅子のレリーフが等間隔に並んでいる。白いものの少し混じった焦げ茶色の頭をぴしりと立てて、夕日に朱を添えられた見慣れた庭園を無意識に眺めながら歩を進めていると、向こうから誰かが磨き上げられた廊下に靴音を響かせながら歩いてくるのが目に入った。
「これは猊下。お久しゅうございますな。今から陛下とご面談ですかな?」
アロールは丁寧に礼をとって言った。大神官ダルシオン・ヴィーンは普段はアルマヴィラのルルア大神殿にあって、年に数度、王都のルルア神殿で祭事が行われる時やその他の用がある時のみ王都を訪れる。しかしこのヴェルサリアでは宗教面での最高指導者であり、政治面で口出しする権限はないものの、立場的には王とも並ぶ権威を持つ。
ダルシオンは裁判に立ち合う為に王都に滞在していた。アルフォンスの身柄が拘束される僅か前に、ごく普通に用があって出かける態でひっそりと出立していたのだ。
宰相と大神官。齢は宰相の方が二十ばかりも上である。しかしアロールは大神官に対しては、他の公爵以上に慇懃に接していた。ルルアの敬虔な信者である事を先頭立って示そうというのは表向き、心中は、この大神官は若いながらも油断のならない人間だと感じているからだ。アロール・バロックにそう思わせる人間は数少ない。
「宰相閣下。お久しぶりです。はい、ちょっと陛下に申し上げたき儀がございまして」
ダルシオンもまた宰相に対し、丁重な態度をとる。王国で一の実力者と認めているからだ。ダルシオンの言葉にアロールの眉が僅かに上がる。
「それは何事か……とお尋ねしてもよろしいですかな?」
ダルシオンは少し考える素振りを見せたが、はい、と答えた。
「他ならぬ宰相閣下のご質問ですからお答え致します。どうぞ他言なさらぬよう」
「ふむ、余程のことなのでしょうな。勿論他言など致しません」
そう言うとアロールは、後ろに付いていた騎士に回廊の向こうに離れるよう指示した。表面上は和やかな立ち話に見えるが、これは互いに腹の探り合いである。アロールとダルシオンは、アルフォンスを失脚させるという目的の上ではこころが一致しているが、特に手を組んでいる訳ではない。アロールが反アルフォンスの立場で物事を進めているのは宮廷内外にあって少し目の利く者には明らかなところであるが、これが冤罪であるのか、もしもそうであれば誰が仕組んだのか、という事になると、誰にもはっきりした事は判らない。だがダルシオンは、カルシスやノイリオンの様子から、裏で宰相が糸を引いて彼らを操って仕組んでいることと読み取っていた。
冤罪となれば、逆に疑われる立場に真っ先に立たされるのは当然、告発者のカルシスである。王都から遠く離れたアルマヴィラ地方に領地を持つ伯爵であるカルシスは、兄のルーン公爵とは違い、年に何度も宮廷に伺候する事はない。無論伺候する権利がない訳ではないので、ただの伯爵とは違いルーン公の弟でありバロック公の娘婿でもあるのだから、本人にその気と能力さえあれば、何かの官職を得て王の取り巻きのようなものになるのも充分可能ではあった。が、本人が何の取り柄も自信もなく、社交も苦手な男であるので、兄も舅も特に推挙する事もなくそのまま一介の地方領主として過ごしてきた。だが、全く宮廷に現れない訳でもなく、大きな祭事などの人が多く集まる時には、兄と共に伺候し王に拝謁を許される事もあった。そうした折には、普段顔を出さない分、余計に人目をひいた。カルシス・ルーンといえば、十三年前に自らの頑なさが招いた愛妻の悲劇が当時はスキャンダラスに宮廷から民草の間にまで噂として語られた。だが流石に十三年もの月日が流れた事でその話を知らない者も多くなり、今では、ルーン公の弟で宰相の娘婿という立場、そして妻である宰相の娘が心を病んで閉じこもっているらしいとの噂から好奇の目で見られる事が殆どだった。
もっと若い頃には、美男子と言われる兄によく似た容貌だった彼だが、昨今では昔の面影が薄れる程に肥え太り、顔付きにも締まりがなく、兄よりもずっと老けて見えた。そして大抵は仏頂面で愛想などまったくないのに、王族や舅である宰相の前でだけはへらへらと媚び諂うような調子で世辞を言いまくるので、誰からも呆れられていた。宰相閣下はルーン公の弟君だというだけで優秀な若者と見込んで娘婿となされたのだろうが、珍しくも見込み違いをなされたものだ、と人々の間ではよく囁かれていたのである。
アルフォンスは無論そうした風評に気づいており、幾度となく弟をたしなめたものの、本人は自分より偉い者にだけ諂うのが当然の礼儀であると思い、宰相以外の公爵は兄と同じようなものとあまり敬わず、それ以下の身分の貴族には偉ぶるのが自分の価値を高めることと思い込んでいるので、何も変わりはしなかった。このような弟を宮廷に伴う際には当然アルフォンスは内心恥ずかしく思うし、カルシスの方も皆に敬われる兄を妬み疎ましく思う心持ちは昔と変わらなかったので、兄弟の不仲は見る者の目にはあからさまに映った。だからこそ、大神官ダルシオンのお墨付きがなければ、カルシスの告発は宮廷雀たちには賢しいルーン公の愚かな弟が心得違いで仕出かした恐ろしい蛮行、と捉えられたことだったろう。それが、国王の一声と大神官の鑑定のせいで、誰もが疑いを捨てきれなくなっているのだから、ことに大神官が世評に与えた影響は甚大と言えた。
「人払いを願う程の事でもないのですが」
とダルシオンは言った。勿体をつけおって、と宰相は内心思ったが、表面上は真剣な顔で頷いて見せた。
「ルーン公のことです」
「やはり」
「ルーン公が快復に向かっているという知らせは勿論もうご存じでしょうな。既に噂に上っているくらいですから」
「それは勿論聞き及んでいます」
「それで、どうにも一部の輩が、瀕死の状態から奇跡的に快復したのは、かれにルルアのご加護があるからだ、などと言いふらしていると聞き及びましたもので」
「ふむ、そういう話もあるようですな」
「まさか聡明なる陛下がそのような話に耳を傾けられる筈もないとは思いますが、ルルアの神寵の気配など全くなく、根も葉もない話でしかないと神殿の方から一応陛下にお伝えした方がよろしいかと思いまして、こうして伺っているという訳です。しかし、そのような流言の為に私がわざわざ足を運んだと言われると、それはそれでまた勘ぐりを致す輩も居りかねぬと思いまして、なるべく他言はなさらぬようと加えたまでのことです」
「なるほど、さすがは猊下、まだお若き陛下が万が一にもそのような流言にお心を悩ませられぬようにというご配慮ですな」
アロールは深く頷いて相手を褒めた。だがダルシオンはその冷厳な表情を少しも綻ばす事もなく、
「陛下の御為でもありますし、ルルアの神意などという下らぬ流言を放置するのも神殿の名誉に関わる事と思ったまでです」
と受け流した。
こうして二人で話をする機会など滅多に訪れない。アロールはもう少し、この男の胸の内を探っておきたいと思った。カルシスらは、大神官をうまく騙して証拠品を鑑定させた、と有頂天に報告してきたが、アロールはこの聡い男がカルシスなどに騙される筈がないと確信している。だからもし先にカルシスらが証拠品の鑑定にまで大神官を巻き込むつもりである事を知っていたら絶対に反対していた筈だ。大神官の鑑定がなくとも証拠品はあるのだし色々手を打ってあるから、呪殺という事のみを証言して貰えば、後は国王をうまく操りさえすれば充分に目論見は達成できると思っていた。だがカルシスは功名心にはやり勝手に大神官に鑑定を依頼し、そして結果的にはそれが大きな功績となった。アロールは、ダルシオンにもまたアルフォンスを排斥したい意図があると感じた。だが、大神官がアルフォンスを陥れようとする目的は何であるのか測りかねている。
大神官の鑑定、と言えどもさすがにそれだけで裁判の結果が決まってしまう訳ではない。ダルシオンは証拠品に対して、『ルーン家の血を非常に濃く引く者、恐らくはルーン公自身の手により使われた痕跡がある』と言っているので、これはカルシスにも当てはまらないとは言えない。そういう意味では、カルシスは非常に危ない橋を渡っているとも言える。『恐らくはルーン公自身の手により』……このくだりはアロールには、大神官が意図的に付け加えたとしか思えなかった。
「猊下……猊下は、ルーン公に罪ありとお思いですかな?」
まるで何でもない世間話のような口調でずばりとアロールは尋ねた。ダルシオンは僅かに眉を顰め、
「私はそのような事を申す立場ではありません。ただ、呪の気配を読み、感じ取れた事を申したのみ」
と、アロールが予測した通りの返答をした。アロールはダルシオンの黄金色の目をじっと見つめた。しかしダルシオンも視線を揺るがす事もなく宰相の底深い緑の目を正面から見返した。ダルシオンもまた、宰相が何の目的でこんな大がかりな罠を仕掛けたのかはっきりと掴んでいる訳ではない。ただ息子の求婚を断られた腹いせであるとかルーン家乗っ取りの為だけにこんな事をするとはあまり思えなかったが、他に動機は思い当たらない。実際に裁判を取り仕切るのは事実上宰相となるであろうし、その魂胆が少しでも見えるのならば見ておきたい、とダルシオンも思った。
「宰相閣下こそ、どうお考えなのですか? 私とは違い、七公の筆頭として陛下のご判断にご意見なさる重要なお立場。無論、最終的な判断は裁判が進まぬ事には成せぬ事ではありましょうが、私にそのような事をお尋ねになるからには、何かお考えがおありなのでしょう」
「……いや。わたしはあらゆる証拠や証言を吟味してからでなければ何も申せません。愚な質問を致して貴重なお時間を頂いてしまいましたな」
「それはこちらも同じこと」
二人の間の緊張の糸が緩んだ。互いに体面上ごく当然の事を言い合ったまでに過ぎないが、その僅かな表情の動きや言葉尻を読み合い、両者とも相手に対しての認識にいくばくかの追加が出来たと感じていた。
「では、私は陛下の御許へ参るので失礼します」
「ではまた……」
一礼して回廊を歩き去って行くダルシオンの後ろ姿を眺めながら、アロールは、全く喰えぬ男よ、と心中で呟いた。