3-6・公爵と林檎
翌朝、朝餉をとりおえた頃に、リサに伴われてダンの祖母がやって来た。長椅子に楽な姿勢でかけているアルフォンスの両脇にウルミスとノーシュが控えている。
アンナという名の50代のその女は、白いものが多く混じった黒髪を束ね、青い質素な木綿のチュニック姿で、部屋に入るなり、戸口の所で膝をつき頭を垂れた。
「ル、ル、ルーン公爵さま……」
そこまでは言ったものの、穏やかな微笑を浮かべているアルフォンスよりもその脇の大剣を下げたいかつい騎士二人の姿に圧倒されたらしく、緊張のあまり額に汗が滲み出て声も出なくなってしまった。
「そんなに緊張しなくていい。そなたには何も咎はないのだし、何も悪いことなど起きないから」
アルフォンスは優しく話しかけたが、アンナはアルフォンスの顔を見るとまた石像のように固まったまま動けなくなってしまう。アルフォンスは苦笑して、アンナの傍にいるリサに視線を送る。
「アンナ、そんなに黙っていちゃあ、何をしに来たかわからないじゃないの。恐れ多くも殿下や団長閣下さまがたが時間をとって会って下さってるというのに。大丈夫よ、とてもお優しいお方だから」
リサは困った表情でアンナの横に膝をついて言い聞かせる。アンナは呆けたようにリサの顔を見たが、既にあまりの緊張に何を言えば良いのか解らなくなってしまった様子だった。そこでアルフォンスはまた優しく、
「そなたはそんなに大人しいのに孫の為には随分大声を出していたね。よほどあの子……ダンがかわいいのだろうね」
と言った。孫の名を聞いてアンナはようやく呪縛が解けたかのように、半開きだった口を動かして、
「は、はい……」
と、か細い声で答えた。そしてようやく自分が何の為に来たかを思い出し、手を組み合わせて床につかんばかりに頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……嫁と孫が、とんでもねえ事を……特に嫁が、とんでもねえ事をして、大層お苦しみになったそうですのに、まさかわしらをお許し下さるとは……本当に申し訳ねえ事で、どうしても、その、詫びを、礼を申したくて……でもその、こんなわしの為に大事なお時間を頂いてしまって、また本当に申し訳ございませんで」
混乱しながらも何とかそう言うと、アンナは後ろに置いていた籠を引き寄せた。
「あの……あの……これ、うちの畑で一番いい林檎でございます。こんなものしかなくて……」
「アンナ!! 駄目って言ったじゃない!!」
リサが大声を上げた。何しろアンナの息子の妻はアルフォンスの食事に毒を入れた者である。その家族からよりによって食べ物など、受け取れる筈もない。だがアンナにとってはこれが最も表しやすい謝意の形なのだ。
「お嫌ならお捨て下さっても構いませんので……」
「ルーン公殿下がそんなものを喜ばれる筈がないでしょう! あんなに言ったのに!」
「いや、構わないよ」
静かにアルフォンスが言ったのでリサは驚いた表情に、アンナは嬉しそうな表情になる。
「アルフォンス!」
眉間に皺を寄せてウルミスが小声で咎めた。昨日も毒使いの件でノーシュと色々と話し合ったばかりで、食べ物に関しては警戒せずにはいられない。ノーシュはリサと同じように驚いた表情でアルフォンスを見つめている。
「林檎は林檎だろう……だがしかし、それを受け取る前に少し話をしたいんだ。いいかな、アンナ?」
「は、はい……」
アンナは戸惑いの表情を浮かべた。彼女としてはこれで気が済んだのだが、公爵様が自分のような者に話とは何だろうかと急に不安になる。
「そなたにとっては、ダンと同じく、ニーナといったかな、殺された娘も同じように可愛い孫だったのだろう?」
「はい、それはもう、見目もよくて働き者で、ほんに可愛い孫でございました」
孫の話になるとアンナの口はだいぶ回りやすくなる。ニーナの事を思いだしてアンナは思わず少し涙ぐんだ。
「わたしは、ニーナや他の娘たちを殺したという罪に問われている。それを、そなたの義理の娘のように恨みには思わぬのか?」
「そ、そんな、とんでもないことで……公爵さまはニーナを殺した犯人なんかじゃあり得ねえことで……こんな慈悲深い方が……」
「わたしは慈悲深いふりをしているだけかも知れない。そなたたちは許されるまではわたしが犯人だと思っていたのだろう?」
「そ、それは間違いだったと今ははっきりわかります! 申し訳なかった事で、でも、今はわかっているんでございます! そのお優しい目を見れば誰にでもわかります! だって壁画のエルマ・ヴィーンにそっくりでいらっしゃる。公爵さまは伝説のアルマ・ルーンの生まれ変わりだとわしは思うんでございます! アルマ・ルーンだって誤解を受けてひどい目に遭ったいう話なんだから、公爵さまだってきっと……」
「ちょっと、アンナ……!」
リサは、今にもアンナが不敬に問われるのではと、はらはらしながら彼女の言葉を聞いていたが、堪りかねて口を出す。アルフォンスは黙ってアンナの言葉に耳を傾けていた。最初は、ただ許された事を喜び、許してくれたから犯人じゃないと思い込むという単純な思考に軽い失望感も持った。だが今、アンナは最初はあれ程固くなっていたというのに、真摯な目でアルフォンスを直視している。目を見ればわかる、と言った。それも結局は単なる彼女の思い込みかも知れない。でもやはり、彼女なりに考えてそう言ってくれた事がアルフォンスには嬉しく感じられた。民と直に話すのはやはり無駄ではないのだ、という思いを持った。
「ありがとう、アンナ。その林檎を頂こう」
「アルフォンス!」
またウルミスが今度は叱るように声を上げた。
「毒なんかついていない……そうだろう、アンナ?」
「そ、それは勿論でございます! わしが今朝一番上等のをもいで、川できれいに洗って籠に入れて持ってきたんでございます。わし以外に誰も触ってはいないです! ルルアに誓って毒なんぞついてないでございます!」
「じゃあ問題ない。リサ、その籠をこっちに持ってきておくれ」
「アルフォンス、駄目だ駄目だ、わたしは許可しないぞ!」
ウルミスが厳しく言ったので、リサは困った顔で動けなくなってしまった。
「ウルミス……彼女の誠意をわたしは無駄にしたくない。どうしても駄目かね?」
「駄目だ」
にべもなくウルミスが突っぱねたので、アルフォンスは苦笑してノーシュを見た。
「副団長どのも駄目だと言うんだろうね?」
「ルーン公殿下……」
ノーシュはおもむろに口を開いた。
「民を信じ、その誠意に応えてやりたいという殿下のご意志は大変ご立派なものと感服致しました。しかし、某も駄目だと言わせて頂きます。団長閣下はただ殿下の御身を案じて仰っておられる事ですし、無論某も案じております。ですが、敢えてもう一つ、言いにくい事ではありますが言わせて頂きます。もしもまた殿下の御身に何かあれば、責任を問われるのは団長閣下なのです。そこをどうかお心にお留め頂き、無用に危険な真似をなさるのは謹んで頂きたく存じます」
「そう言うだろうと思っていたよ。本当に忠義なことだ」
アルフォンスは小さく笑った。なぜそこで笑うのか解らず、ノーシュもウルミスも怪訝そうな顔になる。
「それくらい解っている……本当に、わたしのせいでウルミスに大変な負担をかけてしまっている事は言葉にしようもないくらい心苦しい。これからも暗殺の危険は常にある。わたし自身に恐れはないが、副団長どのの言う通り、ウルミスが責任を取らされるのはあまりに申し訳がない。なんとかならないものか……わたしは昨夜ある事を考えついた。リサ、そこの机から昨夜書いた書状をとって副団長どのに見せてくれないか」
リサもまた全く話の成り行きを理解できていなかったが、指示通りに机の上にある紙をとってノーシュに渡す。不審そうに目を通していくうちにノーシュの顔色が変わってゆく。
「で、殿下! こ、これは……!!」
「なんなんだ、それは?」
ウルミスの問いにアルフォンスはあっさりと答えた。
「遺書だよ」
「遺書?!」
意外な言葉に驚き、ウルミスはノーシュから書状を奪って読んだ。
「アルフォンス! これは一体どういうつもりなんだ!」
ウルミスの真剣な怒りの声にもアルフォンスは悪戯っ子のような笑みを崩さない。
「まあそう怒らないでくれ。勿論、こんなものは不要である事をわたし自身が切に願っている。だが、これは万一の時には役に立つだろう」
「……どういう意味だ?」
「まさかそこに書いた事をわたしが実行する気だなんて思わないでくれよ。だが、もしもわたしの身にまた何かがあって死んでしまうような事があれば、その時に役に立つ。ウルミスや金獅子騎士団の面目が保たれる為に」
「……!!」
ウルミスとノーシュは衝撃を受けた。アルフォンスはこう書いていたのだ。自分の陛下への忠誠は生涯変わりなく、勿論大逆の罪など全く身に覚えなきこと。だが、ルーン公の身でありながら罪人として囚われ裁判で更に好奇の目に晒される事は耐えがたき屈辱である為、自死を選ぶ……と。
「確かに、これがあれば、警護に隙があったなどとの責任を問われる事はありますまい。殿下ご自身が毒を隠し持たれていたとなれば、殿下のような高貴なお方の一挙手一投足を見張っておく訳にもいかぬこと、ご自害をお止め出来なかったとしても仕方がないと……しかし、これではあまりに……」
「あまりにひどい、これではきみは、何という臆病者かとの誹りを死んだ後にも免れまい!」
「……ウルミス。わたしだって、不名誉な死に方をしたなどと思われたくはない。でも、きみや副団長どのが解っていてくれて、わたしの家族に真実を伝えてくれるなら、わたしはそれでいい。死んだ後の事よりも、わたしは生きている自分の誇りを貫きたいんだ。きみがこんな役目を負わされる羽目になったのも、元はと言えばわたしの迂闊さが招いた事、その為にきみを窮するような目に遭わせるのはわたしの誇りに反する」
「アルフォンス……」
呆然とした態のウルミスを尻目にアルフォンスはリサに再度、林檎の籠を持ってくるように促した。ウルミスもノーシュも何も言えなかった。リサは恐る恐る籠をアルフォンスに渡した。
「ああ、良い色だ」
林檎を手に取ってアルフォンスは、さっきから偉い人たちが何を言い争っているのかも解らずに戸惑っていたアンナに声をかける。アンナはほっとして、
「はい、村で一番の林檎でございますよ! とても甘いんでございます!」
と応えた。
「いいだろう、ウルミス?」
ウルミスは何も答えられなかった。それを無言の了承と見なした風で、アルフォンスは、
「子どもの頃はこうやって食べていたものだ」
と笑って林檎をそのまま囓った。甘い香りがふわりと漂い、ウルミスとノーシュの鼻腔をつく。
「うむ、とても美味しい。ありがとう、アンナ」
「喜んで頂けてようございました!」
無邪気にアンナは、日焼けして深く皺の刻まれた顔を綻ばせた。
その数日後、アルフォンスはようやく旅を再開する事ができるようになった。このアンナの林檎の話もまた村中に広まり、もうアルフォンスを疑う者は村には誰もいなくなった。
村を発つ前日には、アルフォンスは宿の敷地を出て、ウルミスや騎士たちに護られながら村の様子を見て回った。村人は敬意を込めて膝をついた。そんな村人達に今の暮らしはきつくはないかとアルフォンスは尋ね、珍しげに寄ってくる子どもたちには優しく笑いかけ、川べりで休憩をとった時にはその子どもたちを傍に呼び集めて、アルマヴィラ都や王都の様子など、村の子どもが知りようもない珍しく楽しい話を披露してやりもした。ダンは、その輪の中にはいなかったが、少し離れた草むらに隠れて話に耳をそばだてている事にアルフォンスは気づいていた。
「きっと……ご無事でお戻りを……お帰りの際にはどうかまたこの村にお立ち寄り下さいませ」
涙ぐみながらのリサの言葉に、アルフォンスは力強く頷いた。
「ネイベルもリサも宿の皆も、本当に世話になった。無事に戻ったら、きっと礼をしよう!」
「礼など今までに賜ったお言葉だけで充分です。それよりもどうかご無事で……!」
誠実な医師は心からそう言って頭を下げた。この立派な公爵の命を救い得た事で、ネイベル医師は生涯自身を誇らしく思い続ける事が出来ると感じていた。
アルフォンスの馬車には街道に沿って集まった村人から次々に声がかかった。
「御領主さま! 行ってらっしゃいませ!」
「公爵さま! ご無事なお帰りを信じとります!」
こんな声に、アルフォンスの胸の暗い澱はひととき晴れて、そして小さな光となっていつまでも胸に残るものになった。
この地方にはこの話が伝説的に語り継がれ、老婆が公爵に林檎を差し出しているモチーフの柄のタペストリーが後世まで特産品として受け継がれて、地方を潤すことにもなった。