3-4・領主と民
幸い今日は何事も起こらずに終えた散歩の後で、部屋に戻り、少し疲れた身体を寝台に預けたアルフォンスにリサが近づいた。医師の指示により手足をマッサージする為だ。いつものように、直視するのは恐れ多いとばかりに伏し目がちに揉みほぐしている部分だけを見つめているリサだが、無言のうちにも何か様子が違うのにアルフォンスは気づいた。
「どうしたんだね、何か言いたい事でもあるのかい?」
ルーン公の声かけに、半分物思いに耽っていたリサは飛び上がらんばかりに驚き、
「い、いいえ、何でもございません!」
と大声で返事をしたが、その様子のおかしさがかえってアルフォンスの問いかけが当たっていると示してしまう事になった。
「遠慮せずに何でも言ってくれて構わないのだよ。ここはアルマヴィラ都でも宮廷でもない。多少の不敬を咎めるような者はこの部屋にはいないから、あまり堅苦しくしなくていい。と言っても、甲斐甲斐しく世話をしてくれているというのに、その礼として与えられるものは今のわたしには殆どないのだが」
「いえ、そんな、お礼は充分に……分不相応なくらいにお褒めの言葉を頂きました。お側にお仕えしてこうしてお世話をさせて頂く以上にわたくしの望む事などございません」
小さく緊張した声でリサは答える。リサは辺鄙な村の女だが、少女の頃に数年、街の大きな商店に奉公に出された経験があるので、口のきき方を他の者よりわきまえている。
「では、何を隠しているのかね? 誰かに何か頼みごとでもされたとか?」
アルフォンスの鋭さに驚きながらもリサは、窓辺の椅子にかけて休んでいるウルミスをちらりと見やった。
「いいえ、何でもないのです。……確かに頼み事をされたのですが、とんでもないと既に断りましたから」
「頼み事など、これ以上厄介ごとを持ち込むのは勘弁してくれ」
と、ウルミス。
「ウルミス、きみは知っているのか?」
「いや、知るものか。しかし、どうせろくな事じゃないんだろう。そんなに遠慮してるんだから」
ぶっきらぼうに応えたウルミスの腰の剣に怯えた視線を送り、リサはまた俯いた。彼女はウルミスがダンの母親を処刑するところを見てしまった。だから、ルーン公と親しげに朗らかな様子で会話を交わすのを一瞬微笑んで見てしまっても、すぐにあの血塗れの剣を、地に伏して動かなくなった亡骸を思い出し、ウルミスに対する恐怖心を拭う事が出来ないでいた。そしてそんな彼女の恐怖心にウルミスも気づいていた。彼にとってはもう慣れ切ってしまった事ではあるが、そんな目で見られて愉快な気分になれないのも当然の事である。争いの中で何人の命を奪ってきたか既に記憶にもないが、女を斬った経験は少ない。彼自身の中にもまだ嫌な感触が残ったままなのだ。
「これ以上ウルミスに厄介をかけるのは本意ではないが、せめて話くらいは聞かせてくれないかい」
穏やかにアルフォンスが問いかけると、リサは困ったようにアルフォンスとウルミスを見比べたが、ウルミスが不承不承頷いてみせたので、話を切り出す。
「申し訳ありません。実は、あの、ダンの……昨日の子供の祖母が、ルーン公殿下にお会いできないものかと言いますもので。わたし、とんでもない、そんな気軽にお会いできる方じゃないのだし、そもそも自分がどんな立場がわかっているの、と言い聞かせたんですけど……すみません、ご不快なお話を……」
「なんだ、今度はばあさんが命を狙いにくると言うのか。いい加減にしてくれ」
半分冗談、半分本気でウルミスは言ったが、リサはぶんぶんと首を振った。
「と、とんでもございません! そんな話なら縛り付けてでも止めます!」
「では、なぜわたしに会いたいと? わたしは彼女にとって娘と孫の仇、だろう?」
アルフォンスが静かな口調で先を促すと、リサはまた強く首を横に振って、
「御慈悲深いルーン公殿下にお礼をお詫びを申したいと言うのです。あの一家は……ダンはともかく大人達は、もう殿下の事を殺人者だなどと思ってはいません。生きた心地のしなかった数日の後、御慈悲によってお許し頂いて、皆、殿下や団長閣下を命の恩人とばかりに崇めているのです。ただ、ダンだけは、幼すぎてそれが理解できなかったと……」
アルフォンスとウルミスは無言で顔を見合わせた。アルフォンスはどう答えるか暫し考えを巡らせる。それから口を開いた。
「リサ。わたしは彼らに感謝されるような事は何もしていない。わたしは元々連座制に対しては反対派だし、わたしの領内ではわたしの代になってからは連座で死罪という例はない筈だ。何も彼らだけを特別扱いした訳ではないんだ。……国の法を変えるというのはとても困難な事だけれどね、今の国王陛下ならいつか成し遂げて下さるかも知れないとおぼろに期待していたが、その問題がまさかこんな早々に自分の身に降りかかるとは思いもしなかった」
後半は自分の家族の行く末に対する常からの不安を思わず口にしてしまった言葉だったが、その本意を理解したのはウルミスだけで、リサは、『自分の身に降りかかる』とは、今回の暗殺騒動一連を指しての言葉かと受け止めた。
「法を変えるだのというような難しいお話は、何の学もない私どもにはわかりませんが、私たちにとっては、お偉い貴族様や騎士様に歯向かうという事は、殺されても仕方がないくらい重い罪だということは、それこそ子供の頃から叩き込まれてきた事です。ましてや御領主様の御身を害そうとするなど、一族もろとも咎を負うのが当然……けれどダンの母親は、娘の無念を思う余りにそんな当たり前の事も忘れ果てていたようです。だから、そんな女を家族に持ってしまった自分たちが処刑されるのは避けられない運命だと、彼らは諦めていたんです。それをお救い下さって、おまけに子供があんな無礼な事をしたのにそれもまたお許し下さって、あんな……勿体ないようなお言葉までかけて下さって。彼らは……特にダンの祖母は、こんなに御慈悲深いルーン公殿下は、伝説のアルマ・ルーンの生まれ変わりに違いないと言っています。この地方を救う為にルルアが遣わした神の化身の生まれ変わりだと」
「殺戮者から神の化身にまで格上げとは余りに大袈裟な」
アルフォンスは黙って耳を傾けていたが、遂に苦笑を禁じ得なかった。だがウルミスはむっつりと押し黙ったままだ。
「しかしとにかく、わたしに関わったせいであの子の母親が死んだのは紛れもない事実だ。彼女が罪を犯して処刑されたのは彼女自身の咎ではあるが、何しろわたしは殺戮者として訴えられている身なのだし、彼らは元々被害に遭った娘の家族でもあるのだから、、それで簡単に割り切れるものでもなかろう。その事を家族は恨みに思っていないのか?」
「恨みになど……罪を犯したのですから、裁かれるのは仕方のない事ですわ。当初は彼女を罵っていた夫も、今はただ、ダルムの氷獄であまり苦しんでいなければいいが、などと呟いたりしているくらいで、恨むなどという気持ちはないと思います」
「そういうものだろうかね……」
アルフォンスには未だ自分の隙が今の事態を招いたという自責の念がある為、そう簡単に家族が殺された恨みを捨てられるものという事に納得がいかなかった。あの竹槍を持った子供の真っ直ぐで単純な怒りの感情の方がよほど理解し易い気がしたのだ。だがその時、沈黙を保っていたウルミスが口を開いた。
「これで判ったろう、アルフォンス。民というものは我々とは考え方の根底が違うのだ。権力に逆らって生きる事など想像も出来ないし、権力者がこうだと言えばこうだと思い込む。法のあり方がどうとか、何が正義であるとか、そういう事は彼らの生活に何の関わりもない。目先の事が全てなんだ。良い悪いではなく、これがルルアの与えた彼らの人生なんだ。きみが大量殺人を犯したと聞かされれば、今まで飢えもなく穏やかな暮らしに甘んじさせてもらった事も忘れてそう思い込むし、命を救われればまたそこで掌を返して追従する。だから、きみが子供に頭を下げたりする必要はないんだ」
ウルミスは早口にまくし立てた。アルフォンスの理想や誇りは素晴らしいが、やはり現実にそぐっていない……現実の方がそれに追いつく事は無理なのだ、それを判って欲しいと思った。
「……そう言えば、わたしが倒れる前に丁度そんな話をしていたんだったか」
アルフォンスは気分を害する様子もなく微苦笑した。
「そうだね、きみの言いたい事も解る……あの時よりは。何より、身を以て、噂を信じ込んだ者に死ぬ目に遭わされる経験をしたんだから。言い分も聞かずに伝聞だけで断罪するなど、わたしには出来ない事だ。だからわたしの視野が狭かった事は認めよう。しかし、民が根底から我々と違うから話しても無駄だ、という考えにはやはり賛同できない。このリサだって、最初は疑っていただろうに、今ではこんなに尽くしてくれるじゃないか。直に接すれば貴族も民も解り合える……わたしはこの経験からその事も学んだよ。……リサ、あの子の家族に言ってやっておくれ。皆の命を救ったのは、わたしではなく、この慈悲深い団長閣下だとね。何しろわたしは全ての権限を剥奪された被告の身、いくらわたしが頼んだとて、団長閣下がうんと言わなければ処刑は法の通りに行われていた筈なんだから。そしてそれでもあの子の祖母がわたしに会いたいと言うなら、団長閣下の許可さえあればわたしは会ってみたいと思う」
「アルフォンス!」
思わぬ反撃にウルミスは何と言い返すか咄嗟に浮かばなかった。
「危険な事はないさ……きみが同席してくれれば。わたしは、もっと自分の民をよく知っておくべきだった。表面だけを見て、まずまず安定している、とかりそめの満足を感じていたに過ぎなかったのは、きみの言葉からもよく理解できた。だから……遅すぎるかも知れないが、今からでも、わたしは民の事を知りたいんだ。心からの声が聞きたい……昨日のあの子のような」