3-3・村の子供
この、子供との一件は村人の間に波紋を広げた。ウルミスが危惧した通り、最初は、疚しいところがあるから子供相手に謝ったりするのだろうとか、本物のルーン公があんな真似をする筈がないとかいう声が上がっていた。しかし、垣根の際で直にアルフォンスの声を聞き、姿を垣間見た者たちは、どうにも嘘を言っているようには見えなかった、と言い出した。即ち、『自分は娘達を殺した犯人ではないが、自分を殺そうとした女の死に対し、領主として済まなく思う』というかれの言葉の内容である。
「それにあの堂々とした気品は、やっぱり本物の殿様にしかないもんじゃねぇか。第一、もしも替え玉なら、それこそわざわざダンに頭を下げたりする理由がねぇ」
「そんな事があるもんかねぇ。そりゃあ、ほんとの犯人が誰なのかなんて、あたしらに解る筈はないけどさ。御領主さまともあろうお方が、罪もないのにあんな事を……」
彼らにとって自分たちの暮らしに関わりある偉い人とは、せいぜい村長やこの郡を治める長の遣わす役人くらい。そんな者たちでさえ、彼ら村人は税をとる為の対象という意識で接し、横柄な態度が当然という感覚が行き渡っていた。村人達も長年の慣習から、そんなものだという意識が浸透し、その事に不満や疑問を感じる者はいなかった。ルーン家の統治領であるから、無理な税の取り立てやあからさまな収賄などの悪習はなかったが、田舎になればなる程、古めかしく不条理な差別意識が残っているのはある程度仕方のない事と言えた。
そんな彼らにとって、この地方一帯を統治する領主であり大貴族であるアルフォンスは、同じ人間とも思えぬ雲の上の人……それ故に、自分たちが知っている偉い人とはまた違う種類の変わった人間なのかも知れない、と思う村人が次第に出始めた。それに、ダンの一家が母子揃ってあれだけの事をしでかしたにも関わらず、子供も家族もお咎めなしだったという事実も大きい。ルーン公が本当に噂されていたような残虐な人物であれば、家族全員が極刑にされていた筈だ。元々王族貴族に都合が良いように出来ているのが法というものであり、それに忠実に則れば、刑は行われるべきだったのだ。その考えを、リサを始めとする、既に直にアルフォンスと接して心服し出した者たちが後押しするように広めた。
ダンは父親に折檻され、一晩納屋に閉じ込められた。劣化した壁板の隙間から差し込む僅かな月明かりの筋を見つめながら、子供は空腹と寒さに震えて泣き、死んだ母親を想った。
朗らかだった母親は、許婚の男の商隊に付いてささやかな婚礼の準備の品を買いに街へ出かけ、そのまま帰って来なかった娘の末路を知ってから、人が変わったようになってしまった。この付近の村ではただ一人の犠牲者である。村で一番の美人で優しかった自慢の娘を惨たらしく殺され、それからというもの、幽鬼のように窶れながらも犯人への呪詛を呟き続け、ルーン公がその犯人であるとの噂が広まると、この手で殺してやりたいと一晩中喚き続けた。家族は困惑したが、どうせそんな事は不可能であると思っていたので放っておくしかなかった。母親は娘の名を呼びながら山野を彷徨い続け、ダンが帰ろうと手を引いても耳にも入らぬ様子だった。
そうした中、街道沿いとは言っても鄙びて宿も一軒しかないようなこの村に護送の一行が一泊するとわかり、慌てて家族が探し回っていた時、彼女は騎士隊の列に飛び込むという騒ぎを起こした。
『あいつはあの時、殺されてしまえばよかったんだ!』
暗殺未遂事件を起こした母親が処刑されたその現場をダンは見ていない。ただ、立派な剣を帯びた二人の騎士に家族全員が一部屋に集められて見張られ始めた時に父親が言った事が忘れられない。父ちゃんと母ちゃんは仲がよかったのに、どうしてそんな事を言うのだろう? 泣きながら父親を罵ると逆に張り倒された。大人達は疲れ果て絶望していたのだ。ルーン公が毒のせいで死ねば、ここにいる家族全員が処刑される。伝え聞いたルーン公の容態から、必ずそうなるだろうと誰もが思っていた。祖母がダンを抱きしめて泣きながら言った。
『かわいそうに、こんなに小さいのにねぇ。大丈夫だよ、お仕置きは一瞬で終わるからね、ばあちゃんと一緒にかあちゃんやねえちゃんのところに行こうね』
『あいつはダルムの氷獄におとされてんだ。俺たちをこんな目に遭わせやがって! ニーナや俺たちに会わせる顔なんかねぇだろが!』
吐き捨てるように言う父親に、祖母は、
『そんな事を言ったらダンがかわいそうじゃないか。みんなでルルアの国で暮らせると思った方が幸せだ』
そんな事を言いながら泣いていた。
ダンにはよくわからなかった。かあちゃんは悪い奴をやっつけようとしただけなのに、なぜ殺されたんだろう? かあちゃんもねえちゃんもどこに行ったんだろう? ルルアの国って、どこにあるんだろう? わかるのは、もうすぐとうちゃんやばあちゃん達と一緒に自分も殺されるらしい、という事だけ。殺されるってどんな感じだろう? とうちゃんにぶたれるのより痛いんだろうな。ばあちゃんの昔話の中では、殺されるのは悪いやつばかりだ。自分は悪いことなんかしていないのに、なぜ『お仕置き』されないといけないんだろう? かあちゃんが悪いことをするわけはないけれど、かあちゃんのせいでなぜ、とうちゃんやばあちゃんまで死ななければならないんだろう? どうして『きぞく』を殺すと、殺した人の家族まで殺されないといけないのだろう?
それから何日か経って、『かあちゃんが殺そうとした悪いやつが死ななかった』とわかって、皆は許された。
『団長閣下とルーン公殿下の御慈悲により……』
と金ぴかの騎士は言い、ばあちゃんもとうちゃんもみんな、涙を流して喜んだ。本当なら、『ルーン公』を殺そうとしたというだけでも、家族は殺されても仕方のない決まりだったらしい。
あんなに騎士や貴族の悪口を言っていたのに、家族はみんな、『御慈悲だ』と言ってありがたがっていた。ダンにはまったく訳がわからなかった。かあちゃんやねえちゃんを殺したかたきなのに、なんで泣きながらお礼を言うのだろう?
ばあちゃんは言った。
『かあちゃんが間違っていたんだよ。こんな慈悲深い方がねえちゃんを殺す筈がないよ。わしらの命なんて、領主様にとっては虫けらみたいなもんだろうに、かあちゃんのせいで死ぬ目に遭いなすったのに、どうかわしらを法の通りに裁くのは勘弁してやってくれって騎士団長に頼んで下さったって、リサが言ってたよ』
……自分たちは虫けらじゃないし、かあちゃんは間違ってない。そう言い張ると、ばあちゃんまでが怒った。それでもダンは、せっかく『お仕置き』されずに済んだんだから、自分がかあちゃんの代わりに悪い奴をやっつけなければいけない、そうしたらきっと悪い奴も本性を見せるにちがいない、と思った。
なのに、『悪い奴』は、本性を見せるどころか、大人のくせに、偉いやつのくせに、謝って、そして、自分よりかあちゃんを信じていいんだ、と言った。
悪くないんなら謝ったりしない筈だ。自分なら、やってない悪戯でいくら叱られても、絶対に謝らない。だからやっぱり、あいつは悪い奴なんだろうと思う。でも、じゃあどうして、あいつはあんな悲しそうな顔をしていたんだろう。とうちゃんと同じくらいの歳の大人の男なのに、街で一度だけ見た神殿の壁画の天使様より綺麗な黄金色の髪と目をしてた。
「おれ、わからないよ……かあちゃん、おしえてよ……」
亡き母を想う気持ちと自分の目で見たものの矛盾に戸惑い、幼い少年の頬を涙がつたう。星明かりがそれを拭うように頬の上を過ぎていった。
翌朝、祖母がそっと覗いてみると、子供は泣き腫らした顔で、藁の中でぐっすりと眠っていた。
こんな事が起きたからと言って、アルフォンスは身体を動かす事に慣れる為の運動を止める訳にはいかなかった。一日も早く王都へ……思いはアルフォンスもウルミスも同じである。到着が遅れれば遅れる程、宰相の巡らす網は完璧なものになっていくだろうから。子供の侵入を許してしまった配下をこっぴどく叱ったウルミスは、翌日も、アルフォンスの腕を引いてかれが宿の狭い庭を散歩するのを手伝った。勿論、前日より更に周囲の警戒を厳しくし、垣根にも誰も近づけないようにした。
昨日は、ただの無力な子供だったからよかった。だがいつまた脅威的な暗殺者が現れないとも言えないのだ。近辺は隈無く捜索し、前回の事件以降怪しい者が村に接触した形跡はまったくなかった為、庭に出るくらいいいだろうと思ったが、昨日の事でまたウルミスは神経をすり減らし、過敏になっていた。
「気苦労をかけて済まない。王都へ着いてしまえば、きみも気が楽になるだろう」
アルフォンスが申し訳なさそうに言った。いわば外回り的な任務が主である金獅子騎士団とは別に、王都には他の騎士団も存在する。王都へ到着すれば、アルフォンスの身柄は王宮の警護を常の任務とする王宮騎士団に渡され、ウルミスはアルフォンスの安全に対する責任を負うことはなくなる。だがウルミスはその言葉を聞くと顔を顰めた。
「王宮騎士団には宰相の息がかかった者が多い。だがわたしには手出しをする事は出来ない。それを思うと、まだ今の状況の方がましという気がする」
「今回の件は宰相は無関係じゃないかと思うがね。やり方が杜撰すぎる。村女を手先にするとは、あまりに宰相らしくない」
数歩下がって付く護衛の騎士にも聞こえぬような小声で二人は話し合う。
「それはわたしも同感だ。しかし、それはつまり宰相以外にも思わぬ敵がいつどこから現れてきみに害をなそうとするか判らぬ、という事を意味する。そう思うと、王都に着いてからの方が余程気になって眠れぬ事になりそうだ」
「苦労性だな」
アルフォンスは低く笑う。
「笑い事でもあるまいに」
「わたしは一度ルルアの門に足を踏み入れかけた身だ。暗殺など恐れていても仕方がないと肚をくくっている。わたしが気にしているのは、冤罪が晴れるのかという一点だけだ」
一歩一歩を確かめるように土を踏みながらアルフォンスは呟くように言った。