2-58・背信
ルーン公私邸を辞したアトラウスは、苛立ちの表情を隠す事もなく、愛馬を駆って自邸に戻った。ユーリンダを襲った者がどういう者であるのか、彼女の話からある程度の予測はついた。おまけに連絡の妨害……彼はかなり立腹していた。
毎日ユーリンダを見舞って連絡を寄越すよう言いつけているローゼッタも訪れていなかったようだし、いったいどうなっているのだ。
「ロータス! ロータス!」
玄関ホールに入るなり、せかせかと執事を呼びつける。執事はすぐに姿を現した。
「お帰りなさいませ、若様」
「今朝方、ルーン公私邸から使者が来なかったか」
「え、いいえ、存じません。そんな事があれば若様にお伝えしない訳がございません」
執事の応えは予想通りだ。
「あちらの執事の話では、使者は確かにおまえに伝えたと言っていたそうだが?」
ロータスは普段は殆ど無表情な顔に僅かに狼狽を浮かべた。
「そ、そんな馬鹿な。何かの間違いでございます。わたしは承っておりません」
アトラウスは微苦笑した。
「おまえが隠し立ても伝え忘れもしない事など解っている。ただ確かめただけだ、もういい、忘れてくれ」
「は……」
不思議そうなロータスを残してアトラウスは自室へ戻った。頭痛がする。マントをとって剣を外すと、彼はそのまま寝台に倒れ込んだ。疲れてはいるが頭は冴えている。ユーリンダから聞いた話を改めて吟味する。
(聖炎で賊を焼いたなどと……)
そんな事を彼女が出来るとは思っていなかった。能力の問題ではなく、精神的なことだ。虫一匹殺せないと思っていたのに、意図的であろうとなかろうと、人一人を傷つけた。彼女が言っていた『力』は既に彼女のうちにある。
(そんな力は必要ない。僕だけを頼りにしていればいいんだ)
彼女に似合うのは強さではなく、優しさや美しさや、か弱さなのだ、と強く思う。力は闇に繋がる。光の化身のようなユーリンダにそれは不似合いだと思う。
(くそっ、誰だ、余計な手出しをしたのは)
苛々と寝返りを打った時、執事がローゼッタの来訪を告げた。愛しいひとの私室に招かれた喜びをローゼッタが感じていた時、アトラウスは非常に不機嫌だったのである。
夜半になった。
アトラウスの暴力に頬を腫らしたローゼッタが、その後彼が与えた優しい愛撫に酔い痴れて時が過ぎ、疲れ果て、深い寝息を立てているのを確認してからアトラウスは寝台から下りた。ローゼッタに対して素の自分を見せてしまった事が腹立たしい。そして何よりも、伯父からの伝言の内容に憤りを消す事が出来ない。
(母上がルルアの国で助けてくれた、だと……そんな出鱈目を!!)
アトラウスが我を失ったのは、急に亡き母シルヴィアの話をされたからではない。それくらいの事では、たとえ心がざわついたとしてもそれを面に出さずにいる事くらいは出来る。壁にかけたシルヴィアの肖像画を暫く眺めてから、アトラウスは裸のままバルコニーに出た。冬の近づいたアルマヴィラは元々温暖な地方ではあるがやはり夜風は刺すように冷たい。
「母上……」
アトラウスはほどけた黒髪を風に嬲らせながらぐっと拳を握り締める。冷たく硬くなった母の骸と血塗れた部屋。氷のような大神官の視線。普通なら朧にしか記憶に残らぬ筈の年齢だったが、それは今もまざまざと昨日の事のように瞼の裏に焼き付いたまま。
「風邪をひきますぞ」
不意に、誰もいない筈のバルコニーの隅から声がかかった。普通の者なら飛び上がらんばかりに驚くところだが、アトラウスはむしろ予期していたと言いたげにゆっくりと振り返った。月明かりも届かぬ暗い陰に、不吉な予言者のように陰鬱な気を放ちながら立っているのは、黒衣を纏った者。
「……尊師」
その男がそこにいる事に、疑問はなかった。その呼び名も、最早口にし慣れたもの。
「何か羽織られた方がよろしいのでは」
「余計な事です。僕は……僕は未熟者だった。つい、かっとなって……だから頭を冷やしているのです。それよりも、僕に何か仰りたい事があって来られたのでしょう?」
尊師、と呼びながらも、それ程男に対して大きな敬意を払っている態度ではない。むしろ、怒りを抑えているかのような顔付きだ。
「使者を惑わして昨夜の事を報告させなかった事ですかな」
あっさりと男は言う。
「それは……やはり、あなたの仕業だったのですか。いったい何故」
「それこそ、頭を冷やして頂こうと思ったのですよ」
尊師と呼ばれた男は低く笑い声を立てた。
「若君は、かの姫のこととなると少々冷静でおられなくなる事がおありだ。まだお若いのだから仕方のない事ではあるが、カレリンダ妃の時の事と言い、何かある度に夜中に駆けつけるなど軽々しい。だからご忠告代わりに戯れを交えてした事。悪く思わないで下され」
「僕とユーリンダは許婚の仲だ! すぐに駆け付けたって誰も不審になど思わない! 余計な口出しはやめて頂きたい!」
室内のローゼッタを気にしながらも、アトラウスは語気を強めて責めた。
「寝台の女性なら、眠り粉をかけておきましたから、少々お声を出されても目を覚まされる事はありませんよ」
「そうですか、ならば好都合。一体、誰がユーリンダを襲ったのです?! もう何もかもご存じなのでしょう?!」
「その者は、若君のお為にと思い詰めてやったのです。かの姫を洗脳し利用できるのではないかと考えて、力を測ろうと思ったそうです。早まった事をしたと散々叱りつけておきました。生涯消えぬ傷も負っています。だから命まではとらないでやって下さらぬか」
「愚かな事を! だから誰なのです、そいつは?!」
「……お許し下さい」
第三の声がした。尊師が僅かに身を引くと、その後ろには平伏した蛇の姿があった。完全に気配を絶ち、尊師の後ろに控えていたのだ。
「おまえか!!」
つかつかとアトラウスは歩み寄り、迷いもなくその顔面を踵で思い切り蹴り上げた。蛇の前歯が折れて飛ぶ。身を庇う事もせずに蹴りを受けた蛇は後ろ向きに頭をしたたかにバルコニーの壁に打ち付け、鼻血と口からの出血で血まみれになったが、それでもよろよろと身を起こし、再び這いつくばった。だが身を起こした時に見えた顔の火傷の跡が、更にアトラウスの怒りを増幅させた。
「この痴れ者め!! ただの小者が浅知恵で何という事を仕出かしたのだ!! 死ね、死をもって、僕の意志に背き僕のユーリンダに手出しをした罪を償え!」
「……元より、お怒りも死も覚悟の上でございます」
蛇は硬直したように身動きもせずに淡々と述べる。アトラウスの怒りようは、普段見せている温厚な姿しか知らぬ者が見れば殆ど信じがたい程に激しかった。だが、尊師も蛇もそれを予期していた。
「若君、どうか。蛇は卑しき者なれどその能力はまだまだ使えます。もう二度と背かぬと誓っておりますゆえ、此度だけは命までは許してやって下され」
尊師が静かに言う。数少ない優秀な人手を失う事になっては困るのだ。苛々と蛇を暫く睨み据えていたが、さすがにそこまで尊師に言われてそれでも命で購わせる事に利はない、と段々アトラウスも頭が冷えてきて、
「もういい、わかった、去ね! 当分顔を見せるな。次に何かを命ずる時はそれが死に場所と思ってあたれ!」
と吐き捨てるように言った。
「……有り難き幸せでございます。若君の御為にこの命を使う機会を今一度与えて頂けるなど」
「いいから行けっ! 目障りだ!!」
夜の闇に溶けるように蛇の姿は消えた。
「ありがとうございます」
尊師の言葉にアトラウスはまだ怒りの収まらない目で、
「尊師の顔を立てたのです。本当は今でも奴を絞め殺したい。ユーリンダが味わった苦痛を十倍にも百倍にもして」
と言う。
「若君……本当に困った事ですな。そんなにあの姫に執着しておいでとは。あれは次の聖炎の神子、いずれは心の臓を裂いてその血を我が神への贄とせねばならぬと、再々申しておりますのに」
「それも、この僕の手で、だろう?」
アトラウスは自嘲気味に笑った。ユーリンダがどこまでも信じている、優しく愛情深いアトラの正体がこれなのだ。闇に堕ち、邪教徒を従え……そして、絶対に護ると誓った彼女を、無惨に殺して贄として差し出す事を求められている。
「そうです……我が闇の神子。それがあなたさまに課せられた使命とお忘れなきよう」
「断る! それだけは断る」
アトラウスは尊師を視線で射殺そうとせんばかりに睨んだ。
「何度も言った筈だ。僕自身は闇に堕ちようと、彼女は闇のしもべの好きにはさせないと。それが条件の筈だ。聖炎の神子の力など、元々彼女自身が望んで得たものではないし、彼女の血などなくともいずれ来るべき時に我らが神はルルアを凌駕する存在になる!」
「……いまはまだ、いくら申し上げても無駄なようですな。だがいずれにせよ、世の中は動いてゆき、ルーン公とその一家は皆、死を免れませぬ」
そう言い残すと、尊師の姿もまた闇の中へ吸い込まれていった。
「ユーリンダ……きみを決して、誰の手にも渡さない」
アトラウスは呟き、夜空を見上げた。白く冴え冴えとした月が雲間から姿を現し、その光が冷たい夜気に染みわたってゆくようだ。何も知らない無邪気な許嫁は今頃どんな夢を見ているのだろう、と思った。
いかがでしたでしょうか。
これで第二部『陰謀篇』終了となります。感想等頂けましたら幸いです。活報にでも、気軽にお書き込み頂ければ嬉しいです。数日中に第三部『七公裁判篇』に入ります。