2-56・自覚と疑念
室内の様子を窺っていた人々は中を覗き見る事は出来ないが、室内の空気が変わったのを感じ取り、はっと息を呑んだ。だが一番危険の淵に立たされている筈のティラール本人はオリアンの様子を見ても怯む事はなかった。
「痛いところを突かれると構えていない相手に剣を抜くのか。随分安い剣なのだな」
「宰相閣下の息子だからといい気になるな! わたしがどうせ卿を斬れないとたかをくくっているのなら大間違いだ。卿のような軟弱者に侮辱を受けてそのままに済ませる程わたしの金獅子騎士としての誇りは低くないぞ!」
オリアンが逆上していくのと対照的にティラールは次第に冷静さを取り戻しつつあった。そこでかれが考えた事は、場を収める方法ではなく別なことであった。ティラールとて命は惜しいしここで殺されるつもりもない。だがかれは剣は全く得意ではないが、身の軽さには自信がある。第一撃さえかわせば騎士達が駆けつけてオリアンを取り押さえてくれるであろうし、そうなれば、宰相の息子でかつ無抵抗の相手に剣を振るったとしてこの男は更迭されるに違いない。ユーリンダを『罪人の娘』と罵ったオリアンをティラールは絶対に許す事が出来ないし、後任にはもう少しましな者が就くかも知れないと思った。そこでティラールは今度は意図的に相手を挑発し始めた。
「本当の事だと自覚があるからそのように怒るのであろう。そんな臆病者にこのわたしを、バロック家の息子を斬る事などできるものか。脅しでわたしに謝罪させようと卑怯な算段をしているだけだろう」
「くっ……脅しかどうか、その身をもって知るがいい!! 陛下の金獅子を侮辱した罪、万死に値する!!」
オリアンの柄にかけた手に力が籠もる。
「卿も細剣を抜くがいい。そのちゃちな剣ごと叩き斬ってくれるわ!!」
「嫌だね。こんな所で剣を振り回して大事なルーン家の調度品に傷をつけるに忍びない」
「そんな事を言って、その実、恐れをなしたのだろう。しかし最早謝罪するくらいでは済まされぬぞ!」
「謝罪など毛頭する気はない。本当は謝罪させて済ませようという魂胆なんだろう。臆病者が」
「騎士にもならぬ臆病者は卿であろうが!」
遂にオリアンは剣を抜いた。
「オリアンさまっ……! どうかお止め下さい! その方を傷つければ、ただでは済みませんぞ!」
ようやく騎士の一人が意を決して扉を開け、制そうとした。だがオリアンは振り向きもせずに、
「うるさいっっ! 邪魔立てする者は皆無事では済まぬぞ!」
と怒鳴った。その気迫に押されて騎士はそれ以上近づけない。
扉の外でざわめきが起こった。だが頭に血が上ったオリアンには全く耳にも入らない。ティラールも額に汗を滲ませながら、どう攻撃をかわすか間合いを取りながら考えた。
「お、お止め下さい! 危険でございます!」
執事の叫びが聞こえた。自分に言っているのかと思ったティラールは、
「今更止められる筈もない」
と応えた。だが、そうではなかった。
「やめて、やめて下さい!」
屈強な騎士さえも近づく事を躊躇している場に小柄な影が飛び込んできた。
「ひ、姫っ!!」
ティラールは腰を抜かさんばかりに驚いた。オリアンの剣の前にティラールを庇うように飛び込んできたのは、ユーリンダだったのだ。
振り上げた剣をすんでの所で止めたオリアンも流石に信じられないという表情で、
「何をしているのだ、あなたは!」
と怒鳴りつけた。オリアンが優れた剣士であるからこそ寸止め出来たのであって、そうでなければ今頃ユーリンダは確実に致命傷を負っていた。危険を顧みず……というより、危険を考えなかったからこそ取れた行動であったとも言える。騎士が剣を止められずに自分を斬るなどとは想像もしなかったのだ。
「お願いです、危ない事は止めて下さい!」
たった今、最も危ない事をしたのは自分であるという自覚もなくユーリンダはオリアンに向かって懇願した。
「そこをどいて下さい。わたしはわたしの名誉を侮辱した者を許す事は出来ない」
オリアンは言ったが、やや気勢を削がれた風だった。
「昨夜の事で言い争われていると聞きました。お二人がそんな事で争われる理由などない筈です。ティラールさまはわたくしを心配して下さるあまりに言い過ぎてしまわれたのでしょう。訳もなく他人を侮辱などなさる方ではありません」
「訳があろうがあるまいが、わたしを侮辱した事に変わりはない。これは騎士としての誇りの問題なのです。姫君はお下がりなさい」
「いいえ、下がりません。ここはわたくしの館ですわ。ここでわたくしを訪ねて下さったお客人を傷つけさせる訳には参りません」
「どうしてもと?」
「どうしてもです。その剣を振るわずに済ます事が出来ないと仰るなら、ティラールさまではなくわたくしをお斬りなさい」
ユーリンダの声は震えていたが、黄金色のひとみは凛と輝いていた。『離れていても心はいつも共にある』……ティラールのもたらした父の伝言が胸に溶け込み、今、自分は父に護られていると感じていた。そしてその感情が、父の娘として相応しく振る舞うべきであるという自覚を初めて真の意味で彼女に芽生えさせていたのだ。それに、昨夜の経験が彼女を成長に導いたとも言える。
「いけません、姫。なんという事を仰るのです!」
呆然としていたティラールが我に返り、ユーリンダを押しのけた。
「ルイス殿、言葉が過ぎた事は謝る。かような騒ぎを起こして姫にこんな事をさせてしまったのはまことにわたしの過ちとしか言いようがない。どうしても謝罪を受け入れられぬと言われるならば仕方ない、その剣を我が身に受けるしかあるまい」
「だめです、ティラールさま!」
「……もう結構」
オリアンはむっつり顔で剣を収めた。さすがに冷静さを取り戻し、ここが騒ぎの落としどころと考えたのだ。
「謝罪を受け入れよう。まさか姫君を斬る訳にもいきませんからな。今は」
『今は』という言葉が不吉な響きを伴ってティラールやウォルダースの胸に刺さったが、当のユーリンダはその意味に気づかぬまま、ほっと胸を撫で下ろした。
「良かったわ。ありがとう、オリアン殿」
「姫にこのような勇気がおありとは夢にも思いませんでしたぞ」
オリアンは奇妙な目でユーリンダを見た。オリアンは昨夜の事を思い返していた。騎士達が乱入した時、賊は火傷を負い苦しんでいるように見えた。そもそも賊の力が弱まったからこそ結界が破れて部屋に入る事が出来たのだ。執事の『姫さまに邪な魔道士が直に触れた故に、母君の聖炎が姫さまを護ったのでしょう』という説明に一応納得していたが、ふと疑念が生まれた。もしやこの姫の愚かさや弱さはそう装っているだけで、本当は優れた魔道の使い手なのでは? と。そうでもなければ、恋人でもないティラールを護る為に自ら刃の下に飛び込んでくるなど考えられない。オリアンはあの時本気でティラールを斬るつもりだった。
(もう少し見張りを強化せねばなるまい)
ウルミスの指示のようにユーリンダを護る為というより、逃さぬ為に……。オリアンは踵を返し、集まっている騎士達に八つ当たり気味に持ち場へ戻るよう怒鳴りつけながら部屋を出て行った。
「姫……わたしなどの為になんという無茶を」
室に残されたティラールは、目の前のユーリンダを見つめ、表情を歪ませた。もしも自分の愚かな作戦の為にユーリンダの身が危うくなっていたら、と想像すると身震いがした。それと共に、ユーリンダが自分を命懸けで庇ってくれた事に抑えがたい喜びを感じ、そんな自分を嫌悪する気持ちも同時にわき起こっていた。
「当たり前の事をしただけですわ。私、散々失礼な事をしてきたのに……ティラールさまは本当に急いで父の元へ……私の不安を消そうと。ティラールさまのおかげでどれ程元気づけられたか、言葉にしようもない程です。本当にありがとうございました」
ユーリンダは涙ぐみながら礼を述べた。
「父はどんな様子でしたの?」
「まだお身体はお辛そうではありましたが、しっかりとお考えを話しておられましたよ。大丈夫、危機を脱して回復に向かわれています。わたしは直にお話を伺い、益々殿下の無実を確信しました。ルルアはきっと真実を陛下に示されるでしょう」
「ああ、ティラールさま、ありがとうございます」
ユーリンダの黄金の瞳からぽとりと涙が落ちた。彼女の首には包帯が巻かれている。ティラールは怖々とそっとその包帯に触れた。ユーリンダは嫌な顔をしなかった。
「昨夜は怖い思いをなさいましたね。こんな傷を……」
「ルルアがお守り下さったから大丈夫です」
そう言ってユーリンダは微笑んだ。
「私、もっと強くならなくちゃ……と思います」
「姫は充分にお強い」
そう言って、ティラールはユーリンダの手をとって手の甲に軽く口づけた。
「姫に命を救われるとは思ってもいませんでした。このご恩は一生かけてもこのティラール、お返しすると誓います」
「大袈裟ですわ」
ユーリンダは微苦笑した。今では、嫌っていたこの芝居がかった仕草や台詞もそれ程嫌悪感を感じなかった。