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炎獄の娘(旧版)  作者: 青峰輝楽
第二部・陰謀篇
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2-54・惑乱

 泣き疲れて眠ってしまっていたローゼッタは夕刻近くなって目覚めた。いけない、早くアトラウスの所へ報告に行かなくては。悪夢にうなされた気がするが、もう内容は思い出せない。外出着のまま寝てしまった為に身体が湿った感じがして服も乱れている。気に入りの、スカートに美しい刺繍が散りばめられた黄色のドレスから、比較的大人しい緑のウールのドレスに着替えた。初めてアトラウスに抱かれた時に身につけていた衣装だ。特別な思惑があって選んだ訳ではなかったが、纏ってみるとあの日の事が思い出され、そして僅かでも彼もその事を気づいてくれれば良いが、と願った。

「お嬢様、昼食は……」

 また外出しようとしている彼女に侍女がおずおずと声をかけたが、全く食欲はなく、要らないわ、と応えた。兄の気配はない。兄も外出したのだろうか? どこへ? 考えるのも億劫だった。

 考えなければならないのは、何をどこまでアトラウスに話すか、だった。今朝方の事……ティラールが本当にルーン公を見舞って伝言を受け取って来た事は言わない訳にはいくまい。アトラウス宛ての伝言を頼まれたのだから。ティラールについては、彼女の印象はなるべく交えずに彼の語った内容だけをそのまま話そうと思った。しかしアトラウスとの関係を金獅子騎士からファルシスとティラールに暴露された事はあまり詳細には告げたくない。

 だが、どういう企みで兄を誑かしたのかは問いたださねばならない。自分自身はアトラウスのしもべとして命を落としても構わないと思い詰めてはいるが、それにドース家を巻き込む訳にはいかないのだ。しかし、アトラウスから真の気持ちを引き出す事は非常に困難な事に思えた。


 いつものように本営に出向くと、今日はアトラウスは早めに自邸に戻ったという事だった。しかし、もし彼女が来たら、『良かったら自邸の方まで来て欲しい』という伝言が残されていた。伝言をつたえる金獅子騎士は無表情だったが、内心ではどう思っているのだろう。

『う、噂とは言っても我が騎士団の間では周知の事です! その令嬢が警護団本営におられるアトラウス卿の元へ日参し、奥の宿直の間にお二人で入られては、じょ、女性の嬌声が聞こえてくると……』

 ウルブの言葉が耳に蘇ると、その耳まで赤くなってしまう。声は理性ある限り抑えているつもりだったのに、表まで聞こえていたなんて。騎士の顔をまともに見る事も出来ずに、ローゼッタは早々にその場をあとにした。


 初めて訪れるアトラウスの私邸。初老の執事が出迎えてくれた。まあまあの値打ちものらしい装飾品が秩序なく飾られた玄関ホールや続く廊下。あるじのカルシスの趣味なのだろう。広くてそれなりに立派だが、ティラールの宿だったルーン公客館の方がずっと洗練された内装だった。

 邸内は薄暗く、ひとけが少ない。カルシスも不在、夫人とその娘も実家へ帰っているので、使用人の半数は休みをとらせているのだと執事は案内しながらぼそぼそと説明した。

 執事がアトラウスの私室の扉を叩き、ローゼッタの来訪を告げる。愛しい人の私室に初めて入る事に、様々な心の煩い事はおいて胸が高鳴るのを抑えきれない。

「ようこそ、レディ」

 執事の前である事を慮ってか、優雅な礼をとりながらアトラウスはローゼッタを招き入れる。唇には微笑を浮かべ、優しげで誠実で落ち着いた眼差し。皆が知る貴公子の姿。かつて形にならない憧れを抱いていた頃の彼が思い出されてローゼッタはぼうっとなってしまう。

 だが、執事が下がると同時に、アトラウスはさっと笑みを消した。

「今日は遅かったじゃないか。いったい何をしていたんだ? ユーリンダの所へも行かずに」

 事務的な口調が浮ついた心を刺した。ローゼッタは俯き加減に

「ごめんなさい……少し体調が悪くて、館で一旦、少しだけ休もうと思ったらそのまま眠ってしまって……」

 と言い訳をした。体調が悪いと言えば、少しくらいは心配してくれるかしら? と淡い期待をしながら。だがアトラウスは無表情のまま、

「体調管理はしっかりしてくれないと、いざという時に役に立たないんじゃ困る」

 と冷たく言い放ったので、ローゼッタはひどく落ち込んだ気分になった。するとそんな彼女を横目で見ながら、今度は少し優しい声でアトラウスは尋ね、額に触れた。

「それで、もう体調は良くなったのかい?」

まさに飴と鞭の巧みな使い分けだが、ローゼッタは一喜一憂してしまう。ぽうっと赤くなった彼女に、

「少し熱があるんじゃないか? 今夜はゆっくり休みなさい。なんなら、泊まっていってもいい」

 と囁いた。

「そ、そんな……」

 ローゼッタの心臓が跳ね上がる。

「そんな事をしては、どこから世間の噂になってしまうか判らないわ。貴男のユーリンダの耳に入ってしまうかも知れなくてよ。それに家の者もどう思うか……」

「きみの兄上は喜ぶと思うよ」

 あっさりとアトラウスは言った。

「それにうちの者は皆、口が固いから何かを洩らす事はない……絶対にね。ぼくがそう躾けているのだから。万一、きみと同じくややお口の軽そうな兄上が誰かに何か言ったとしても、きみは急に具合を悪くして客間に泊まった事にすれば何の問題もないだろう。少なくともユーリンダはぼくがそう言えば簡単に信じる筈だ。きみの事を親友だと思っているんだから」

 最後の言葉に善良なローゼッタの胸はずきりと痛む。ユーリンダの顔が浮かぶと、泊まっていけばと言われて舞い上がった自分の罪が恥ずかしく苦しい。だが、もう今更引き返せないし、それよりもアトラウスに聞かねばならない事があった。

「あなたは……わたくしの兄上に何を言ったの? 兄上に何をさせるつもりなの? わたくし自身はあなたのもの……あなたの為に死ぬ事も厭わなくても、わたくしの家族まで巻き込む訳にはいかないわ!」

 真摯なローゼッタの言葉に、アトラウスはやれやれといった表情で肩をすくめる。

「ほらやっぱり口が軽いんだな、きみの兄上は……まったく、兄妹そろって……」

 愚かな、という言葉は辛うじて飲み込み、アトラウスは微笑を浮かべた。

「そんなに顔色を変える程の事じゃないだろう。別にきみの兄上や家族を危険な事に巻き込むつもりなどないよ。ただ、ああ言っておいた方がきみが動きやすいだろうと思っただけだ。いったいぼくを何だと思ってるんだ? 協力者のきみには、本当に感謝しているというのに……」

「あなたは、底の知れないひとだわ。ユーリンダの為ならどんなに冷酷にだってなれる……何を考えているのか想像もつかないもの……!」

「そんな男を愛してしまったのは自分だろう?」

 からかうように言うとアトラウスはいきなりローゼッタを抱き上げて自分の寝台に放り投げ、彼女が何を言う間も与えずに覆い被さった。

「なっ……」

 真っ赤になったローゼッタの口元に指をあて、

「ご褒美は後だよ。まず報告しなさい」

「あ……」

 こうなってはもう、ただアトラウスの指示に従うしかない。嘘をつく事も出来ない。二人に口止めはしたものの結局ローゼッタはファルシスとティラールにこの関係を知られてしまった事を話し、ティラールが本当にアルフォンスの見舞いに行って帰って来たのだと聞いた事を話した。

「ティラール卿がね……」

 アトラウスは少し考え込む表情を見せた。

「嘘じゃないと思うの。バロック公の手先はあの従者の方だったのよ。ファルシスも信じていたわ」

「そうか……しかし出来ればファルにはぼくたちの事は知られたくなかったんだが。ファルの情報源は限られているから知られずに済むと思ったのだがね」

「わ……わたくしのせいじゃないわ」

「まあ、知られてしまったものは仕方がない。何とか取り繕うよう考えよう。どうせ暫くは会わない予定なんだし。しかし、ティラール卿はなぜユーリンダより先にファルに会いに行ったんだろうか? 何か他に言っていなかった?」

「ああ、なぜかは聞かなかったけど、そう言えば、ルーン公殿下からあなたへの伝言を言付かったのよ。お命が助かられて、本当に良かったわ……ユーリンダも今頃どんなに喜んでいるでしょうか」

 そう言いながらローゼッタは密かにアトラウスの表情を観察した。まさかとは思うが、以前頭によぎった事……ティラールが口にした疑問、誰が村の女に毒を与えたのか、という疑いを思い出したのだ。だが、アトラウスはいつもの微笑を浮かべて、そうだね、と答えただけで、内心何を考えているのか、まったく窺えなかった。

「伯父上からぼくに伝言とは?」

「ええ、それが不思議なお話なの。ルーン公殿下は生死の境を彷徨われて、ルルアの国の門まで行かれたそうよ。そうして、そこで、あなたの亡くなった母上に逢われたのですって」

 ローゼッタは部屋に入ってすぐから目にとめて気になっていた壁の肖像画を見やった。黄金色の髪とひとみ。アトラウスが、ユーリンダではないルーン家の女性の肖像を自室に飾るとしたら、それはきっと……。

「あの方ね? あなたのお母さま……シルヴィアさま」

「それで? それでその話の続きは?」

 ローゼッタの問いなど聞こえなかったかのようにアトラウスは促した。その声には、今までローゼッタが聞いた事もないような奇妙な響きが混じっている。ローゼッタは不審に思ったが、先を続けた。

「シルヴィアさまは、ルルアの国へ呼ばれようとしていたルーン公殿下を、生の世界へ帰るようにとお助けなされたのですって。だから、あなたもお母さまと同じように……」

「嘘だっっ!!」


 ローゼッタは驚き、身を強ばらせた。アトラウスが大きな声を、感情的な声を出すところなど見た事もなかったし想像した事もなかった。だが今、彼女のかりそめの恋人は初めてその生の感情を剥き出しにしている。深い夜の色のひとみはまるで燃え立つ闇の炎を噴き上がらせるよう。

「嘘だっ! 嘘を言うな、この売女め!! は、母上が、そんなことが……」

「わ、わたくしはただティラール卿から……」

 あまりに強い怒りの波動にローゼッタは恐怖に震え、売女と罵られた事すら意識に入らなかった。

「うるさい!」

 ローゼッタの身体に馬乗りになった姿勢のまま、アトラウスは激しくローゼッタを殴打した。口の中が切れて血が流れ出す。ローゼッタは訳がわからないまま泣きながら必死に逃れようと身をよじった。

「や、やめて! わたくしはただ……」

「うるさい、うるさい! 母上の事など何も知らない癖に、母上の名を口にするな! ルルアの国だと! 母上が現れただと! そんなものは幻覚だ! よくも……」

 半狂乱になったアトラウスは両手でローゼッタの口を塞ぎ、喚き続けた。

「よくもそんな事が言えたものだ!!」

 そのままの姿勢でいれば、ローゼッタは窒息死していただろう。それ程にアトラウスの力は強かった。それを救ったのは、叫び声を聞いて駆けつけた執事だった。

「アトラウスさま! 若様! お止め下さい! お気を確かに!」

 駆け寄った執事のロータスは、背後からアトラウスを羽交い締めにして必死に止めようとする。初老の執事と若いアトラウスでは、無論そのまま取っ組み合っても執事に勝ち目はない。だが、執事が何度も諫める声がようやく耳に届くと、アトラウスは不意に力を抜いた。そのひとみに、ゆっくりと理性のいろが戻ってくる。

「ロータス……ぼくは……」

「若様……随分長い間、発作は起こされなかったのに……」

 荒い息をつきながらも、ほっとして執事は言い、ぐったりしているローゼッタを助け起こした。

「レディ……申し訳ございません」

 ローゼッタが息をしているのを確かめた上で、ロータスは彼女をそっと寝台に横たえた。

「な……なに……?」

 ざらついた声でローゼッタは尋ねようとして激しく咳き込んだ。そして弱々しく痛む頬に手を当てた。

「すぐに冷やすものを持って参ります。若様、もう大丈夫ですね?」

「ああ……済まなかった、ありがとう、ロータス」

 少し項垂れてアトラウスは言う。幼い頃から見守ってくれたこの執事の忠誠心は、流石にアトラウスも疑った事はない。


 執事が出て行くと、アトラウスはローゼッタの頬に手を伸ばした。ローゼッタはびくりと震えて逃れようとする。

「ごめんよ……きみが悪い訳じゃないのに、取り乱したところを見せてしまった」

「……こんなに、あなたが怖いと思ったのは初めてだわ」

 怯えを隠さずにローゼッタは応える。ただ伝言を伝えただけなのに殺されかけたのだから、当然の反応だ。

 だが、アトラウスはもういつもの冷静さを取り戻し、彼女の恋情と忠誠を失わずに済むよう頭の中で算段し始めた。

「ぼくはね、幼い頃に父親から虐待を受けて、母上だけが味方だったんだ。暗い地下の部屋にずっと閉じ込められて、ただ時々母上が会いに来て下さる時だけが喜びの時だった。だから……予期せずに母上の事を言われると、我を忘れてしまうんだ。母上をも虐待していた父への怒りが湧いて……本当に済まない。もう二度とこんな事はしないと誓う。こんな弱さを持っていたぼくを軽蔑するかい?」

「……いいえ」

 ローゼッタはアトラウスの言葉に耳を傾け、ゆっくりと首を振った。

「わたくし……軽率だったのね。あなたの生い立ちは噂には聞いていたんだから、もっと気を遣うべきだったのね」

「ぼくが弱さを捨てきれないでいるだけだ。あんな姿はユーリンダにも見せた事はない。あの執事ときみだけだ」

 その言葉に、ローゼッタは愚かしい優越感さえ感じてしまい、弱々しく微笑んだ。

「いいわ……あなたにも、人間らしさがあるのね。そして、それを知るのはユーリンダでなくわたくし……」

「そうだよ」

 アトラウスはローゼッタの腫れた頬を撫で、口づけた。そして胸元を優しく開いていく。

「これは、あの時のドレスだね。きみによく似合う」

「覚えていてくれたの」

 口づけの雨を降らせるアトラウスに、ローゼッタはよろこびを感じ、いたみを忘れた。


 冷たい当て物を持って来た執事は、二人が何事もなかったかのように寝台で睦み合う様子を垣間見て、慌てて扉を閉めた。

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