2-53・ドース家の兄妹
ティラールと別れたローゼッタは、心を落ち着ける為に自分で言った通りに一旦館へ帰る事にした。本当はそのままファルシスと話した事を報告しに直接アトラウスの所へ行く予定だったが、今は普段の貌でアトラウスに逢える気がしない。アトラウスは易々と彼女の表情や振る舞いから、今起こった出来事を読み取るだろう。彼は、ティラールはきっと二人の関係を知っているだろうと言っていたが、その読みは外れていた。バロックの手先として動いていたのは従者のザハドであり、ティラールは何も知らないお飾りであったのだと、今は確信できる。そしてかれの誠意も。しかしその話は恐らくアトラウスには気に入らないだろう。
まだ昼間だというのに疲れ切った気分でローゼッタが自邸の玄関ホールへ入ると、待ち構えたように兄のターランドが二階から下りてきた。最近いつも、彼女がこうした状況で平時のように出歩いているのを口うるさく咎めたり脅したりする兄である。実直で勤勉な兄に対し、これまで尊敬と情愛をもって接してきた彼女であるが、最近の変貌ぶりには辟易し、また訝しくも思っていた。出来れば外出中であれば良いのにと思っていた彼女は、階段を足早に下りてくる足音を聞いただけで、また小言をくらうのかと溜息をついた。
だが、今日の兄は最近の様子とは異なり、機嫌の良い表情だった。
「ローゼッタ! 何処へ行っていたんだ?」
お決まりの台詞だが、それは強く詰問する口調ではない。
「友人の所ですわ」
ローゼッタも毎回の返事を口にする。常ならば、その友人とは誰だ、ユーリンダさまか、あの御一家には近づくな、目立つ事をするな、といった説教が続くのだが、今日は違った。
「友人とはアトラウスさまか?」
ローゼッタは頭痛がしてきた。今一番他人から聞きたくない名前を、休む為に戻った自邸でこの兄の口からなぜ聞かなければならないのだろう?
だが何故兄がそんな事を言い出したのか、不思議に思った。
「……どうしてそう思われますの?」
「ある所から聞いた。おまえ、アトラウスさまのお目に止まったのか」
「お目に止まったとはどういう意味ですの」
「だからつまり、アトラウスさまの恋人なのか、と聞いているんだ」
「……」
アトラウスとファルシスの二人に媚びを売る女の振りをしながら連絡役を務める事を思いついたのは確かに自分の責任だが、あくまで金獅子騎士を欺く為であり、大っぴらにしたいともなるとも思っていなかった。特に家族には知られたくなかった。金獅子騎士とは何の接点もない筈であるし、王家直属の騎士たちが内輪で話すのならともかく、男女の痴話などを噂として流すとはあまり考えていなかった。ある所、とはどこなのだろう? 痛む頭を押さえそうになりながらもローゼッタは何とかしらを切ろうとした。
「何を仰るかと思えば。アトラウスさまには、ユーリンダさまという許婚がおられるではないですか」
「そんな婚約は最早なくなったも同然だろう。しらばくれるな。アトラウスさまはおまえを大層お気に入りで、毎日呼び寄せておられると聞いたぞ。もしおまえがアトラウスさまの妃になれば、おまえはいずれルーン公妃になる訳だ!」
ローゼッタはようやく兄の機嫌の良い理由を知って、呆れてものも言えなかった。アルフォンスが失脚すると決まった訳でもないし、仮にそうなったとしてもルーン公を継ぐのはバロック公の息のかかったカルシスである。そうなればバロック公は今からでも、カルシスと彼の妻であり自分の娘であるアサーナに嫡男をもうけさせるか、それが叶わねば自分に近しい血縁の男子を養子にさせて、アトラウスは廃嫡に追い込む目算だろう、とそのアトラウス自身から何度も聞かされている。そうでなくても、アトラウスはあくまでユーリンダだけを愛しているのだ。自分がルーン公妃になるなど、ローゼッタは考える事も恐ろしい気がした。
しかし兄のターランドは、かつてないような朗らかさで妹の肩を軽く叩いた。
「嫁にもいかずに厄介ごとばかり起こしていたおまえが、ドース家の花形になるんじゃないか?」
「ばかばかしいにも程がありますわ。わたくしはただのお使い役です。仮にアトラウスさまがユーリンダさまと結ばれないままルーン公嫡子のお立場に立たれるような事態になれば、その時はルーン分家のしかるべき姫君と婚姻なさるでしょう。我が家のような小貴族の娘がルーン公妃になどなれる筈もありません」
兄の妄想を覚まそうとローゼッタは正論を説いた。だが、ターランドは何故か……常ならば用心深く保守的な性格の彼が何故か、妹の正論を笑い飛ばした。
「アトラウスさまはそんな押しつけられた婚姻に頷くお方ではないさ」
「まあ、どうしてそんな事が兄様に判りますの? アトラウスさまはお父君の決められた事に従順に従われる方ですわ」
一般的なアトラウスの印象、自己主張が強くなく穏やかで控えめな性格だという事を思い出させようとしたが、ターランドは、
「それは見かけの姿だ。アトラウスさまは聡明なお方。おまえだって判っているだろう」
と聞き流す。次第にローゼッタは不気味な気がしてきた。
「兄様……いったいいつの間に、アトラウスさまに、見かけの姿と違う姿があるとお考えになるくらいに親しくなられましたの?」
目的の為なら自分に忠実な者さえ虐げる事を厭わないアトラウス。そんな彼の真の姿を知るのは、彼の道具である自分くらいだと思っていたのに、なぜ、この無関係で単純な兄がそれを仄めかすのか。
だがターランドは、ローゼッタが絶望する程に無邪気に笑った。
「俺はアトラウスさまに信頼して頂いている。類い希なる頭脳をお持ちのあの方こそ、将来のルーン公に相応しい器。俺はそのアトラウスさまから直に聞いたのだ……っと、これはおまえには伏せておく話だった。まあとにかく、おまえにとっても最高の話なんだからいいじゃないか」
「いつアトラウスさまにお会いになりましたの!」
「アトラウスさまは面会を希望する小貴族には全てお会いになるし、時には自ら、話をする為にお呼び寄せになることもある。俺は最初、正直に言って、ブラック・ルーンが何を、と思った。だがお話を伺い、あの方の魅力に心酔した。……ユーリンダさまは、幼なじみの従妹として大切な存在だが、この状況ではお逃がしする事が精一杯だから、時が来たら助力してくれと頼まれた。そして、全てが落ち着いたら、おまえを貰いに来たいと」
「……」
アトラウスの本性を知る前、ほのかに恋していた頃ならば、この話に天にも昇る心地がしたかも知れない。しかし今のローゼッタはこんなアトラウスの甘言を鵜呑みにするには色々知りすぎていた。兄をも掌で弄ぶアトラウスに怒りを感じたが、ひとつひとつ兄に説明する訳にもいかない。それに、兄が自分の外出をアトラウスとの逢瀬と思い込んで文句を言わないのなら、今までより動きやすいのには違いない。
ローゼッタはすうと息を吸い込んだ。先日兄は、彼女がドース家に災いをもたらすなら斬り捨てる、とまで言った。それがこういう理由で急にこんなに態度を変えられても嬉しくもないし、むしろ失望の方が大きい。幼い頃から大好きで後をついて歩いた正義感の強い兄は、大人になり家庭を築くうちに小さな視野の男になってしまい、今はもう思い出の中にしかいないのかも知れない。それでも、きちんと聞いておきたかった。
「兄様。ドース家は今のルーン公殿下……アルフォンスさまに様々な恩があり、忠誠を誓われていた筈ですわ。それを今は、どうお考えですの?」
「ああ……確かにアルフォンスさまは気高く公平な方だ。俺だって、アルフォンスさまがあの罪を犯されたとは思っていない。だがな、ローゼッタ、真実がどうであろうと、国王陛下や宰相閣下の意に背けば生き残れないのが今の世の中だ。それをアルフォンスさまはお解りでなかったんだ。力より正義……それは聞こえはいいが、どんな正義も、それより大きな力の前には消し去られるしかない。アルフォンスさまに受けたご恩は忘れないが、もろともに滅びる気はない。それだけだ。何も責められるような事ではない。我らのような弱小貴族は、そうやって強い者に寄るしか長らえる道はないのだから」
これもきっと、アトラウスの受け売りなのだろう、とローゼッタは思った。アトラウスのちらつかせた餌に目が眩み、兄は誇りよりも欲を選んだのだ。しかし、この兄をそうやって堕とさせてしまったのも、元はといえば自分の愚かな恋が原因なのかも知れない。自分の恋心を弄び、それを餌に兄をも操ろうとするアトラウス……それも全てユーリンダの為、自分たちは彼のボード上の駒でしかないかと思うと、彼が憎らしくて恨めしくて……そしてそれでも想いを振り払えない自分の惨めさと馬鹿さ加減が、彼以上に恨めしいと思う。
「どうした、ローゼッタ? 具合でも悪いのか?」
思わず泣きそうになるのを必死で堪えて俯いた妹を、心から案ずるようにターランドは肩に触れた。厄介者だった妹は今や彼の大切な出世の道具なのだ、とローゼッタは感じた。それでも、自分の愚かな恋に、兄を、ドース家を巻き込む訳にはいかない。アトラウスが兄に何をさせるつもりでそんな事を言ったのか探らなければ……でも、あの深い闇色のひとみをいくら覗き込んでも、自分はただ呑まれるばかりで何ひとつ見いだす事など出来はしないと、彼女には判っているのだけれど。
「いいえ……わかりましたわ、兄様。わたくしもアトラウスさまをお慕いしています。嬉しいお話ですけれど、何だか夢のようで。ルーン公妃になど、考えた事もなかったのです。でも父様にも誰にも、どうかお伏せ下さいませね。いつ何がどうなるか判らない状況ですから」
そっと後ずさり、悟られぬように兄の手から離れながらローゼッタは言った。自由に動く為には、全否定する訳にもいかない。ならば暫くはこの愚かな兄に夢を見せておくのもいいかも知れないと思ったのだ。
「判っている、軽々しく言える話ではない。父上は相変わらず、アルフォンスさまが無罪になると信じておられるしな」
「わたくしがあちこちに出歩くのは、アトラウスさまに頼まれての事ですの。ですから……」
「ああ、もう口出しはしないさ」
にやりとしてターランドは言った。ローゼッタは作り笑いを返して自室へ早足で向かった。
寝台に身体を投げ伏すと、彼女は涙が尽きるまで泣きに泣いた。