2-52・暴露
聖炎騎士団の宿舎の一室の寝台でティラールが目覚めた時、時刻は昼を過ぎていた。泥のように眠ったおかげで疲労はかなり回復した。
寝台に休ませてもらった礼を言おうとティラールは再度ファルシスの室を訪れた。すると来客中であるという。客はローゼッタだった。
「それは丁度良かった。わたしはローゼッタ嬢にも用があったのです。お話が終わったらお会いしたい」
あの客館を出た事を彼女に伝えなければいけない、と思っていたところだった。戸口でさりげなく中の様子を窺っている金獅子騎士のウルブは怪訝そうに、
「宰相殿下のご子息が、あの令嬢と懇意にされているのですか」
と言い、それから、余計な事を言ったかな、という表情になる。
「どういう意味ですか? わたしはレディ・ローゼッタとは友人です。何か不都合でも?」
「ご友人……ですか。なるほど」
「意味ありげな言い方は止めてもらえませんか。レディ・ローゼッタはわたしの崇拝するユーリンダ姫のご友人であり、共にご心痛の姫をお慰めする為に交流しているだけです。彼女がファルシス卿の元恋人だという噂は存じていますし、こうして逢われているのならお二人の仲が復活されたのかも知れませんが、それはわたしには関わりない事」
ティラールは、ローゼッタとの仲を妙に勘ぐられたと感じて不快さを露わにする。宰相の息子の不興をかったかとウルブは慌てて、
「べ、別におかしな事を言ったつもりはありませんが、ご不快に感じられましたなら謝罪いたします」
と繕ったが、すぐに、この際ティラールに取り入っておこうと小賢しい計算をした。
「そういう理由でご友人と仰るのならよく解りました。かの令嬢にはあまり芳しくない噂がありますもので、つい余計な心配をしてしまいまして」
「芳しくない噂とは、レディが恋多き女性だという話ですか。それくらい知っています」
ティラールは益々不機嫌な顔になったが、ウルブはいかにも誠実そうな表情を作って続けた。
「それだけではありません。あくまで噂ですから、ご友人を貶めるつもりは毛頭ございませんが、一応お耳に入っているかどうかと思いまして。ローゼッタ嬢は仲違いされているアトラウス卿とファルシス卿の双方に媚びて、状況がどちらに転んでも後々得をするように振る舞っている計算高い女性だと言われているので、もしやティラール卿も同じように騙されていてはいけないと……」
「黙らっしゃい! わたしの友人をそれ以上侮辱する事は許さない! 彼女は誠実な女性です! アトラウス卿に逢われているのはユーリンダ姫の為でしょう!」
ティラールは我慢できずにウルブを怒鳴りつけた。こういう風に、いかにも自分の為を思って助言するようなふりをして取り入ってくる輩はうんざりする程見てきたし、一番嫌いな人種だった。そしてそれ以上に、信頼できる勇気ある同志と思っているローゼッタの品位を汚すような事を言われたのが許せなかった。
「いったい何事ですか?」
ファルシスの私室の扉の傍でのやり取りは、最初こそ小声であったもののティラールの怒声はかなり大きかったので、訝しげな顔でファルシスは扉を開けた。その後ろにローゼッタが続く。ファルシスは、ローゼッタにティラールは信用できるようだと囁いていたところだった。
怒りを含んだティラールの緑色の目と探るようなファルシスの黄金色の目、そしてどこか不安げなローゼッタの黒い瞳、三者の視線に囲まれて、ウルブは狼狽え、そして開き直った。
「う、噂とは言っても我が騎士団の間では周知の事です! その令嬢が警護団本営におられるアトラウス卿の元へ日参し、奥の宿直の間にお二人で入られては、じょ、女性の嬌声が聞こえてくると……」
「まっ……」
ローゼッタは真っ赤になった。ファルシスとティラールは怪訝な顔でローゼッタを見る。その隙にウルブは言い訳めいた事を口にしながら階下へ去って行った。
余りに意外な話に、ファルシスとティラールはどう捉えてよいものかすぐに判断できず、赤くなって消え入りそうな様子のローゼッタを見つめた。彼女の様子を見れば、ウルブの言葉が虚言でない事は明らかだ。
ローゼッタがアトラウスに媚びを売る振りをして連絡役をしてくれている事はファルシスは知ってはいるが、それだけにしてはウルブの言葉は生々しすぎるし、彼女の反応も妙である。
ローゼッタは走って逃げ出したい衝動に駆られていたが、そんな事をしても次に会う時に一層気まずいだけだとも解っている。二人の視線に耐えきれず、ただ黙って俯いた。
「あの……ローゼッタ? 今の話は本当?」
重くのしかかる沈黙を払うべくファルシスが遠慮がちに問うた。曖昧に濁せる空気ではないし、曖昧にしておいていい事でもない。現在は恋人ではないのだから、ローゼッタが誰と付き合おうと口出しすべきではないが、相手がアトラウスとなると話は別である。
「……ええ」
諦めたようにローゼッタは俯いたまま応えた。
「……驚きました。貴女とアトラウス卿は、ユーリンダ姫を裏切っていたのですか!」
険しい顔でティラールは思わず詰め寄った。
「アトラウス卿は姫を捨てて貴女を妻にするつもりなんですか?!」
「違う、違うんです、ティラール様。わたくし……そんなつもりではなかったのに……それに彼はユーリンダさまだけを愛しているんです」
絞り出すように言うと、耐えきれなくなってローゼッタはわっと泣き出した。男二人は困惑して顔を見合わせた。
「とにかく部屋へ……立ち話するような事じゃない」
そう言ってファルシスは泣きじゃくるローゼッタとティラールを室内へ招き入れた。
ファルシスが不器用に自らいれた茶を啜りながらもローゼッタの涙は止まらなかった。ティラールは相変わらず眉を顰めてそんなローゼッタを見ている。
「いったいどういう事でしょうか? アトラウス卿がユーリンダ姫を諦めてレディに気持ちを移されたなら、わたしにも好機が訪れたと言えるかも知れませんが、どうもそういう訳でもないらしい」
「……アトラウス様は、とにかくユーリンダ様の為に行動されているのです。わたくしは単なる道具ですわ。どうか気になさらないで下さい。ユーリンダ様をお助けしたいというわたくしの気持ちには変わりありませんから」
「道具とはどういう意味ですか。女性を道具などと、アトラウス卿がそう言われたのですか」
「……そうですわ。でもわたくしはそれでいいのです。彼にとってわたくしは、浮気とかそういう類の相手ではないんです」
次第にローゼッタは投げやりな気分になってきた。
「アトラが貴女と寝るなんて信じられない。彼は誠実で優しくて、女性に対しては不器用だと……」
ファルシスが言う。ローゼッタは激しく首を横に振る。
「あなたの知っている彼は本当の彼ではないわ、ファルシス。でも、ユーリンダに対する愛だけは本当だと思うわ」
「本当の彼ではない? ぼくは子供の頃からずっと一緒に……」
「彼は平気で完璧に誰でもを欺けるのよ!」
ローゼッタは叫ぶように言う。涙の粒が弾け飛んだ。
「どうかお静かに、レディ」
そんなローゼッタを宥めるティラールの眼には、もうローゼッタへの怒りはなかった。
「貴女は騙されて利用されているだけなんですね。ユーリンダ姫が悲しみに暮れているというのに他の女性を、しかも助力したいという健気な女性を弄ぶとは何という男だ。わたしは心底アトラウス卿を軽蔑する!」
「だから違うと言っているでしょ! 騙されてなんかいない……彼にとっては何でもない事なんです。彼は言ったわ、『彼女は永遠の聖女だから何も知る事はなく心を煩わす事もない』と。彼はただわたくしが裏切らないようにそういう事をしているだけ……それもユーリンダの為に」
「信じられない……貴女はそれでいいんですか、ローゼッタ」
ファルシスは蒼白にさえなっていた。従兄で親友でもうすぐ義弟になる筈だったアトラウス。家族同然に知り尽くしている筈の彼が、想像もしていなかった全く知らない顔を持っていたなど信じたくなかった。しかしローゼッタははっきりと言った。
「いいの。それでもいいの……彼を愛してしまったから。ユーリンダには申し訳ない気持ちで一杯だけど、彼がわたくしに利用価値があると思ってくれるなら、わたくしは進んで利用されるだけ。この命を投げ出しても、彼の為にユーリンダを救う役に立ちたいの!」
ファルシスとティラールは、この告白に暫く声も出なかった。自分を道具と呼ぶ男にただ尽くそうとしているローゼッタの心は、二人には全く理解できなかった。
「どうかこの事はお二人の胸にしまって下さい。ユーリンダ様を救いたいという目標の前に、わたくしたちは同志の筈ですわ、そうでしょう?」
「それはそうだが、しかし……」
「絶対にユーリンダ様には内緒ですわ。保身の為ではなく、彼女を傷つけたくありませんから」
「勿論、こんな事を言える筈もない。これ以上姫が傷つくような事は」
ティラールが力を込めて言うと、
「そう言って頂けて、先程ファルシスから聞いた事が真実と確信致しましたわ」
ローゼッタはまだ涙ぐんではいたが、ティラールに向かって微かな笑みを見せた。
「もしティラール様が自分を優先なさる方なら、仲を裂く為に喜んで彼の不貞を言いつける筈ですものね。本当にティラール様はユーリンダ様を愛していらっしゃる」
ティラールは少し戸惑い気味に、
「まあ、勿論、以前から申しているように、姫の泣く姿を見る位なら、姫がアトラウス卿と幸福になる方がましだと思って……今のお話を伺うと、本当にアトラウス卿に姫を幸福に出来るのか、些か疑問に感じますがね。しかし、先程聞いた事とは?」
「申し訳ありません。わたくし、ティラール様を疑っていました。けれど、バロックの名を捨てるとまで……それに、侍女の件も無関係でいらしたと聞いて、考えを改めましたわ」
その言葉を聞くとティラールは苦笑し、
「いや、当然疑われるべき立場なのに何一つ理解していなかったわたしも悪いのです。どうかお気になさらず」
と答えた。
「寛大なお言葉に感謝致しますわ。ではこれからは本当にわたくしたちは同じ目的の為に動けますわね。でもあの、この話は、もし彼とお話される機会があっても、知らない振りをして頂けますか? 知られたとわかったら、わたくし彼の……不興をかいますもの。ファルシスも、どうかお願い」
「アトラは貴女に暴力を振るうのか?」
ローゼッタの瞳に微かな怯えがあるのを見て取って、ファルシスは問うた。ローゼッタは小さく首を横に振ったが、その応えは、
「いいの、気にしないで」
だった。ファルシスとティラールは殆ど同時に溜息をついた。ローゼッタは完全にアトラウスの支配下に置かれていて、しかもどうにかしてやれる問題でもないようだと思ったからだ。ティラールは彼女に言うべき事を思いだした。
「わたしはもうあの客館には戻りません。暫くはどこかに宿をとるつもりです。宿が定まったらご連絡します。従者のザハドは危険ですから近づかれないよう。それから、ルーン公殿下から貴女へ、ユーリンダ姫への友情と助力に感謝する、という伝言を承っています」
「まあ……わたくしなんかにルーン公殿下がそんな事を」
そう言って、胸を詰まらせた様子でローゼッタはまた少し泣いた。ティラールは言葉を継いだ。
「それから、アトラウス卿へ伝えて下さい。彼を訪問しようかとも思っていましたが、今会えばわたしは彼を殴りかねないから」
憤りをなるべく殺そうとティラールは自分を抑えた。
「ルーン公殿下からの伝言で……殿下は死に瀕してルルアの国の門まで行かれ、そこで亡くなったアトラウス卿の母君に会われ、救われたそうなのです。だからどうか母君と同じ心でユーリンダ姫を救って欲しいと」
「まあ……そんな事が」
「……」
ファルシスは一度だけシルヴィアに逢っているが、その面影は殆ど覚えていない。優しく儚げなひとであったとは聞いている。もう随分昔に亡くなった筈なのに、そんな事があり得るのだろうか? 父はただ、死の淵を彷徨う内に幻のような夢をみたに過ぎないのではないかと思ったが、口には出さなかった。この伝言が、アトラウスの心に響けばよいがと願うばかりだ。
「御伝言は確かに承りましたわ」
「ありがとう。そろそろ姫の元へ伺って、ルーン公殿下のご無事をお伝えに参らねば。それから、姫の侍女はきっとわたしが救うべく尽力すると」
あっ、とローゼッタは小さく声を立てた。
「どうしました?」
「あの、ユーリンダ様には、アトラウス様が秘密裏に既に侍女を保護しているとお話してあるのです。不安の種をひとつでも除こうと……」
その時、扉の外に人の気配がした。金獅子騎士の誰かが監視に戻ってきたのだろう。
「解りました、ではそういう事にしておきましょう」
そう言ってティラールは立ち上がった。
「ファルシス卿、寝台を貸して頂いてありがとうございました。元々それを言いに来たんでした。無様な所をお見せしてお恥ずかしい」
「とんでもない、あんなにお疲れであったのに急いで来て下さって本当になんと礼を言っていいやらわからないくらいです」
「卿がわたしを信じて下さっただけで充分です」
ティラールは微笑した。
「わたくしも一旦館へ帰ります」
ローゼッタも慌てたように立ち上がった。ファルシスと二人残されても気まずいばかりと思ったのである。
二人を送り出して、ファルシスは自室に戻ると深く溜息をついた。
(アトラ……一体何を考えているんだ?)