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『沈鐘の聖女』 ~時の止まった水没鐘楼で三百年、私は婚約破棄されたことにすら気づいていませんでした。辺境伯令嬢に転生した元・時計職人、静止した時の中で唯一動ける私は、今さら「戻ってこい」と言われても遅

作者: uta
掲載日:2026/08/14

「――君との婚約は破棄する。この“呪われた鐘楼令嬢”とは、もう二度と顔も見たくない!」


王太子カイルがそう言い放った、その瞬間。


世界の時が、止まった。


人も、風も、シャンデリアの光の粒すら空中で凍りつく。会場の楽団が奏でていた旋律は、音符の途中でぷつりと途切れたまま。給仕がこぼしたグラスのワインが、赤い弧を描いて宙で静止している。


動けるのは、私ただ一人。


「……え、待って。この状況で私だけ置いていくの?」


私、アリエル・ヴェルンは、しんと凍りついた大広間の真ん中でぽつりと呟いた。


目の前には、勝ち誇った笑みを浮かべたまま固まっている継妹ソフィア。その隣で、右手を大仰に振り上げたポーズのまま静止する婚約者――いや、元婚約者のカイル。


周囲の貴族たちも、扇で口元を隠しながら「まあ、あの呪われた娘が」とでも囁こうとした表情のまま凍りついている。


私は、ふう、と息を吐いた。


前世の記憶が、頭の片隅で静かに歯車を回す。


(そういえば私、前世は時計職人だったっけ)


現代日本で、名の知れた腕を持っていた女性時計職人。歯車と時間を愛し、一秒の狂いも許さなかった職人気質。そんな私が、なぜか剣と魔法のこの世界に――辺境伯ヴェルン家の令嬢として転生した。


しかも、生まれ落ちたのは王国東端の『沈鐘の鐘楼』を管理する家。三百年前に洪水で水没し、以来“時が止まった”と噂される、呪いの塔。


そのせいで社交界では「不吉」「呪われた令嬢」と嫌われ通し。婚約者のカイルからも、ずっと冷たくされてきた。


そして今日、公衆の面前で婚約破棄。


「――のはずが」


私は、宙で凍りついたワインの雫を、指先でつん、とつついた。


動いた。ころん、と私の掌に落ちる。


止まった世界で、私だけが動ける。


「呪われた令嬢、けっこうじゃない」


私は、琥珀色の瞳を細めて、ゆっくりと微笑んだ。


「呪いなんじゃなくて、これ――チートでは?」


***


止まった時の中を、私は一歩ずつ歩いた。


足音だけが、やけに大きく響く。ほかに音のない世界だ。


「代々の鐘楼管理者だけが持つ『時読みのギフト』……ね」


幼い頃、亡き母がそっと教えてくれた。私たちヴェルンの血には、鐘楼の呪いと同じ“時を読む”力が眠っている、と。


呪いだと思っていた。忌み嫌われる理由だと思っていた。


(でも違った。これは――止まった時の中を、自由に歩ける力)


私は、まず継妹ソフィアの前に立った。


プラチナブロンドの巻き毛。可憐で儚げな顔立ち。だけど今、その口元には、隠しきれない勝利の笑みが凍りついている。人前では涙ぐんで「お姉様はいつも私に冷たくて」と演じるくせに。


「さて。ソフィア、あなた、ドレスの内側に何か隠してるでしょう」


私は迷わず、彼女の胸元に手を差し入れた。止まった彼女は、指一本動かせない。


出てきたのは、折りたたまれた数枚の書面。


広げて、読む。


宰相派の紋章。鐘楼管理権の譲渡に関する不正な契約書。そして――ヴェルン家の家督とギフトを、ソフィアに移すための、偽造された委任状。


「なるほどね。私を『呪い』と吹聴して社交界から追い出して、家督とギフトを丸ごと奪うつもりだったわけだ」


歯車が、かちりと噛み合う音がした。頭の中で。


次に私は、カイルの上着の内ポケットを探った。


出てきたのは、宰相からの書簡。国庫からの横領を隠蔽するための指示書。この浅慮な王太子は、自分が何に加担させられているのかすら気づいていない。


「……全部、丸見え」


止まった時の中では、すべてが無防備だ。表情も、隠し事も、企みも。


私は回収した書面を、丁寧に折りたたんで懐にしまった。前世で精密部品を扱った、あの慎重な指先で。


「我慢するのは、今日で終わり」


凍りついた加害者たちを、私は静かに見回した。


「三百年止まっていた鐘、私が鳴らします」


***


止まった世界を抜けて、私は鐘楼へ向かった。


馬車も、御者も、道行く人々もすべて凍りついている。だから私は、亡母から受け継いだ懐中時計を握りしめ、ただ黙々と歩いた。


王都の東端。水没したはずの街。


そこに、灰色の巨塔がそびえている。三百年、水の底に沈み、時を止めたまま朽ちることを許されなかった塔。


重い扉を押し開ける。


中は、ひやりと湿った空気。壁一面に苔むした水の跡。そして最奥に――止まった大時計。


直径が私の背丈の三倍はある、巨大な時計仕掛け。無数の歯車が、途中で噛み合ったまま静止している。


「……綺麗」


思わず、声が漏れた。前世の職人としての血が、騒ぐ。


そのとき。


「――誰だ」


低い、錆びついたような声。


私は振り返った。止まった時の中で、動くはずのないものが、動いていた。


銀灰色の長髪。竜の血を示す、縦に裂けた深紅の瞳。額には鱗状の紋。武骨な鎧を身にまとった、長身の騎士。


手には、折れた騎士剣。三百年握りしめて、なお錆びなかったその刃。


「あなたも、動けるの?」


私が問うと、彼は――信じられないものを見るように、深紅の瞳を大きく見開いた。


そして、その口元が、ゆっくりと、不器用に歪んだ。


「ようやく……」


声が、震えていた。


「ようやく、話し相手が……来た」


泣きそうな、破顔だった。冷酷そうな見た目からは想像もつかない、寂しさが滲む表情。


「泣きそうな顔ね。冷酷そうな見た目のくせに」


私が思わずそう零すと、彼は慌てたように口元を引き結んだ。


「三百年前……この鐘楼を守るために、俺は自らを時間停止の“楔”にした。セドリック・ヴァル・ドラケン。初代管理者にして、竜人の騎士だ」


三百年。ただ一人、動かぬ時の中で。


私は、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。


「三百年……ずっと、ひとりで。……アリエル・ヴェルンよ。ヴェルン家の、今代の管理者」


彼は、私の顔をじっと見つめた。それから、傍らに凍りついていた一輪の花――時の狭間で色を止めたままの白い花を、そっと手折って、私に差し出した。


「……歓迎する」


無愛想な声。でも、その手は、ほんの少し震えていた。


「凍った花を、私に? ……律儀な人ね。ありがたく受け取っておくわ」


***


「セドリック。この大時計を、直したいの」


私がそう言うと、セドリックは訝しげに眉を寄せた。


「無理だ。三百年、誰にもできなかった。この時計を止めているのは、俺の楔と……古の時魔法だ」


「魔法のことは分からない。でも――時計のことなら、分かる」


私は懐から、想像の中でだけ手に馴染む、極細のドライバーの感覚を呼び起こした。実際の道具はなくとも、この鐘楼には工具が眠っているはず。管理者の家に伝わる、修理のための道具が。


案の定、最奥の棚に、古びた工具箱があった。


私は袖をまくり、大時計の前に膝をついた。


「歯車が三枚、噛み合わせを外してる。脱進機が水を吸って固着してるわね。まずは、ここから」


前世の記憶が、指先を導く。歯車の一枚一枚を、慎重に外し、錆を落とし、組み直していく。


かちり。


かちり。


一枚組み込むたびに、鐘楼の壁を伝う水の跡が、じわりと下がっていく。水没した街の水位が、少しずつ引いていくのが分かった。


失われた時が、ほんの少しずつ、動き出す。


「……水の跡が、下がっていく。街の水位が、引いている……」


セドリックは、私のすぐ隣に膝をついて、食い入るように手元を見つめていた。


「……お前の指は」


ぽつり、と彼が零す。


「時を、愛している」


私は、手を止めずに笑った。


「前世でね、時計職人だったの。歯車と時間を、誰よりも愛してた。一秒の狂いも許せない、面倒くさい女だったのよ」


「前世……?」


「話すと長いわ。要するに――呪いだと思われてたこの力も、前世の腕も、全部この瞬間のためにあったってこと。……ほら、最後の歯車が、噛み合った」


かちり、と最後の歯車が噛み合った。


大時計の中心で、三百年止まっていた振り子が、ぴくり、と震える。


「セドリック。あなたの楔、もう外していい。私が、この時計を動かすから」


彼の深紅の瞳が、揺れた。


「……三百年、待った意味が」


「あったのよ。ちゃんと」


私は、大時計の中央にある、錆びた大針に手をかけた。


「三百分の一秒だけ止まってた世界に、時を返す。――さあ、鐘を鳴らしましょう」


***


ゴォォォン――ッ。


三百年ぶりの鐘の音が、王都中に響き渡った。


その瞬間、止まっていた世界の時が、一斉に動き出す。


大広間。


楽団の旋律が、途切れた音符から再開する。宙に浮いていたワインの雫が、床に落ちて赤い染みを作る。


そして――


「――もう二度と、顔も見たくな……な、なぜ、そこにいる!?」


カイルが、振り上げた右手を勢いよく振り下ろした。だが、そこにいるはずの「呪われた鐘楼令嬢」は、もういない。


いや、いる。


ただし、大広間の中央に、静かに立っていた。凍りつく前とは、まるで別人のような、凪いだ表情で。


「私、どこにも行っていませんよ」


私は淡々と告げた。手には、あの回収した書面の束。


「殿下があの一瞬、婚約破棄を口にした間に――私はすべてを見せていただきました」


書面を、床に広げる。


宰相派の横領の指示書。偽造された委任状。ソフィアが宰相派と交わした、鐘楼管理権譲渡の密約。


「……どうぞ、ご覧になって」


会場がざわめいた。集まった貴族たちが、書面を覗き込み、顔色を変えていく。


「こ……これは、でたらめですわ! お姉様が、わたくしを陥れるために――!」


ソフィアが、いつもの調子で涙を浮かべようとした。だが。


「その筆跡、あなたのものよね、ソフィア。宰相の封蝋も本物。今、この場で照合すればいいわ」


「そんな……ちがっ……お姉様、わたくしはっ……!」


私は、彼女の勝ち誇っていた笑みが、みるみる凍りつくのを――今度は魔法ではなく、恐怖で凍りつくのを、静かに見つめた。


「破滅が確定した瞬間に、あなたは笑っていたわ。時が止まった、あの一瞬。……よく覚えておきなさい、その顔」


宰相派の貴族たちが騎士に取り押さえられ、ソフィアは崩れ落ちるように膝をつく。カイルは、真っ青な顔で立ち尽くしていた。


そして、案の定。


「ま……待て、アリエル。戻ってこい。君の力が――鐘楼管理者の力が、王国には必要だ!」


手のひらを返して、縋るように。


私は、彼を見た。哀れむでも、怒るでもなく、ただ静かに。


そして、深く、一礼した。


「遅すぎます」


凛と、澄んだ声で。


「私が止まっていた、三百分の一秒の間に――あなたが失ったものは、もう時を戻しても、戻りません」


そのとき。


頬を、つ、と一筋の雫が伝った。


涙だった。時が止まる直前、継妹の嘘に最後まで気づけなかった、自分自身への悔し涙。宙で凍りついていたその一粒が、時の再開とともに、ようやく頬を伝い落ちたのだ。


「……この涙は、あなたのためじゃない。継妹の嘘に最後まで気づけなかった、自分への悔し涙。それも今、拭って終わりにするわ」


私は、それを指先で拭った。


「では、失礼します。私には――鳴らすべき鐘が、まだたくさんあるので」


***


「よくぞ、お戻りに……」


大広間を出た私を、白髪の老侍女マーゴが、涙ながらに迎えた。ヴェルン家に長年仕え、亡き母の代から、ただ一人ずっと私の味方だった人。


「お嬢様は、誰よりも真っ直ぐな時計の心をお持ちだと、わたくしは信じておりました。……奥様も、きっと」


「マーゴ」


私は、彼女の皺だらけの手を握った。


「ありがとう。あなたがいてくれたから、私は歯車が狂わずにいられた」


マーゴは、深く頭を下げた。それから、ふと声を落とした。


「お嬢様……鐘楼のこと、亡き奥様から託されたお話が、ございます。三百年前、あの鐘楼を沈めた“真犯人”のこと。……ですが、それはまた、時が満ちてから」


真犯人。


私の胸に、小さな引っかかりが残る。


「……真犯人。覚えておくわ、マーゴ。今は――鐘楼へ、戻らなくちゃ」


***


鐘楼の最奥。


動き出した大時計の前で、セドリックが待っていた。


だが、その姿は、さっきとは違っていた。額の鱗の紋が薄れ、鎧の輪郭が、確かな“人の身”を帯びている。


「セドリック。額の紋が薄れて……楔が、解けたのね」


「ああ。三百年、動かぬ時を守り続けた。誰も来ない、誰とも話せない、音のない世界で。……もう、二度と誰にも会えないと思っていた」


彼は、折れた騎士剣をそっと床に置いた。三百年、握りしめて離さなかった剣を。


「だが、お前が来た。俺の止まった時に、時を返してくれた」


深紅の瞳が、まっすぐに私を捉える。


彼は、私の前に、片膝をついた。


竜人の騎士が、令嬢に跪く。


「アリエル・ヴェルン。俺には、気の利いた言葉も、社交界の作法も、もう分からない。三百年、忘れてしまった。……不器用な男だ」


無愛想な声が、けれど確かに震えていた。


「それでも――お前のその、時を愛する指を。この先の時間を、俺の隣で刻んでくれないか」


差し出された手のひらに、あの白い花が、今度は色を取り戻して咲いていた。


私は、思わず笑ってしまった。前世でも、こんな不器用な告白は聞いたことがない。


「ずいぶん、遠回りな求婚ね。三百年も待たせて」


「……悪かった」


「冗談よ。……ほら、あなたの手の花、色を取り戻してる」


私は、彼の手に、自分の手を重ねた。時計職人の、時を愛する指を。


「秒針が、進んだわ。あなたと私の時間が、今、動き出した」


かちり、と。


大時計の振り子が、確かに、時を刻み始めた。


***


そうして、沈鐘の鐘楼の呪いは解け、水没した街に人々の時間が戻った。


――けれど。


動き出した鐘楼を見上げると、塔の一角に、まだ時の止まったままの区画が残っているのに気づいた。ひやりと、冷たい影が差している。


「……あら。塔の一角、まだ時が止まったままの区画がある。ひやりと、冷たい影」


次に時を止めるのは、誰か。


そして、三百年前――この鐘楼を水没させ、時を止めた“真犯人”は、今も、どこかで。


私は、亡母の懐中時計をそっと握りしめた。その針が、ほんの一瞬、ひとりでに逆回りした気がして。


「母の懐中時計の針が、ほんの一瞬、逆に回った気がした。……歯車は、まだ噛み合っていないみたいね」


止まった区画の奥で、何かが、こちらを見ていた。

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