『沈鐘の聖女』 ~時の止まった水没鐘楼で三百年、私は婚約破棄されたことにすら気づいていませんでした。辺境伯令嬢に転生した元・時計職人、静止した時の中で唯一動ける私は、今さら「戻ってこい」と言われても遅
「――君との婚約は破棄する。この“呪われた鐘楼令嬢”とは、もう二度と顔も見たくない!」
王太子カイルがそう言い放った、その瞬間。
世界の時が、止まった。
人も、風も、シャンデリアの光の粒すら空中で凍りつく。会場の楽団が奏でていた旋律は、音符の途中でぷつりと途切れたまま。給仕がこぼしたグラスのワインが、赤い弧を描いて宙で静止している。
動けるのは、私ただ一人。
「……え、待って。この状況で私だけ置いていくの?」
私、アリエル・ヴェルンは、しんと凍りついた大広間の真ん中でぽつりと呟いた。
目の前には、勝ち誇った笑みを浮かべたまま固まっている継妹ソフィア。その隣で、右手を大仰に振り上げたポーズのまま静止する婚約者――いや、元婚約者のカイル。
周囲の貴族たちも、扇で口元を隠しながら「まあ、あの呪われた娘が」とでも囁こうとした表情のまま凍りついている。
私は、ふう、と息を吐いた。
前世の記憶が、頭の片隅で静かに歯車を回す。
(そういえば私、前世は時計職人だったっけ)
現代日本で、名の知れた腕を持っていた女性時計職人。歯車と時間を愛し、一秒の狂いも許さなかった職人気質。そんな私が、なぜか剣と魔法のこの世界に――辺境伯ヴェルン家の令嬢として転生した。
しかも、生まれ落ちたのは王国東端の『沈鐘の鐘楼』を管理する家。三百年前に洪水で水没し、以来“時が止まった”と噂される、呪いの塔。
そのせいで社交界では「不吉」「呪われた令嬢」と嫌われ通し。婚約者のカイルからも、ずっと冷たくされてきた。
そして今日、公衆の面前で婚約破棄。
「――のはずが」
私は、宙で凍りついたワインの雫を、指先でつん、とつついた。
動いた。ころん、と私の掌に落ちる。
止まった世界で、私だけが動ける。
「呪われた令嬢、けっこうじゃない」
私は、琥珀色の瞳を細めて、ゆっくりと微笑んだ。
「呪いなんじゃなくて、これ――チートでは?」
***
止まった時の中を、私は一歩ずつ歩いた。
足音だけが、やけに大きく響く。ほかに音のない世界だ。
「代々の鐘楼管理者だけが持つ『時読みのギフト』……ね」
幼い頃、亡き母がそっと教えてくれた。私たちヴェルンの血には、鐘楼の呪いと同じ“時を読む”力が眠っている、と。
呪いだと思っていた。忌み嫌われる理由だと思っていた。
(でも違った。これは――止まった時の中を、自由に歩ける力)
私は、まず継妹ソフィアの前に立った。
プラチナブロンドの巻き毛。可憐で儚げな顔立ち。だけど今、その口元には、隠しきれない勝利の笑みが凍りついている。人前では涙ぐんで「お姉様はいつも私に冷たくて」と演じるくせに。
「さて。ソフィア、あなた、ドレスの内側に何か隠してるでしょう」
私は迷わず、彼女の胸元に手を差し入れた。止まった彼女は、指一本動かせない。
出てきたのは、折りたたまれた数枚の書面。
広げて、読む。
宰相派の紋章。鐘楼管理権の譲渡に関する不正な契約書。そして――ヴェルン家の家督とギフトを、ソフィアに移すための、偽造された委任状。
「なるほどね。私を『呪い』と吹聴して社交界から追い出して、家督とギフトを丸ごと奪うつもりだったわけだ」
歯車が、かちりと噛み合う音がした。頭の中で。
次に私は、カイルの上着の内ポケットを探った。
出てきたのは、宰相からの書簡。国庫からの横領を隠蔽するための指示書。この浅慮な王太子は、自分が何に加担させられているのかすら気づいていない。
「……全部、丸見え」
止まった時の中では、すべてが無防備だ。表情も、隠し事も、企みも。
私は回収した書面を、丁寧に折りたたんで懐にしまった。前世で精密部品を扱った、あの慎重な指先で。
「我慢するのは、今日で終わり」
凍りついた加害者たちを、私は静かに見回した。
「三百年止まっていた鐘、私が鳴らします」
***
止まった世界を抜けて、私は鐘楼へ向かった。
馬車も、御者も、道行く人々もすべて凍りついている。だから私は、亡母から受け継いだ懐中時計を握りしめ、ただ黙々と歩いた。
王都の東端。水没したはずの街。
そこに、灰色の巨塔がそびえている。三百年、水の底に沈み、時を止めたまま朽ちることを許されなかった塔。
重い扉を押し開ける。
中は、ひやりと湿った空気。壁一面に苔むした水の跡。そして最奥に――止まった大時計。
直径が私の背丈の三倍はある、巨大な時計仕掛け。無数の歯車が、途中で噛み合ったまま静止している。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。前世の職人としての血が、騒ぐ。
そのとき。
「――誰だ」
低い、錆びついたような声。
私は振り返った。止まった時の中で、動くはずのないものが、動いていた。
銀灰色の長髪。竜の血を示す、縦に裂けた深紅の瞳。額には鱗状の紋。武骨な鎧を身にまとった、長身の騎士。
手には、折れた騎士剣。三百年握りしめて、なお錆びなかったその刃。
「あなたも、動けるの?」
私が問うと、彼は――信じられないものを見るように、深紅の瞳を大きく見開いた。
そして、その口元が、ゆっくりと、不器用に歪んだ。
「ようやく……」
声が、震えていた。
「ようやく、話し相手が……来た」
泣きそうな、破顔だった。冷酷そうな見た目からは想像もつかない、寂しさが滲む表情。
「泣きそうな顔ね。冷酷そうな見た目のくせに」
私が思わずそう零すと、彼は慌てたように口元を引き結んだ。
「三百年前……この鐘楼を守るために、俺は自らを時間停止の“楔”にした。セドリック・ヴァル・ドラケン。初代管理者にして、竜人の騎士だ」
三百年。ただ一人、動かぬ時の中で。
私は、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。
「三百年……ずっと、ひとりで。……アリエル・ヴェルンよ。ヴェルン家の、今代の管理者」
彼は、私の顔をじっと見つめた。それから、傍らに凍りついていた一輪の花――時の狭間で色を止めたままの白い花を、そっと手折って、私に差し出した。
「……歓迎する」
無愛想な声。でも、その手は、ほんの少し震えていた。
「凍った花を、私に? ……律儀な人ね。ありがたく受け取っておくわ」
***
「セドリック。この大時計を、直したいの」
私がそう言うと、セドリックは訝しげに眉を寄せた。
「無理だ。三百年、誰にもできなかった。この時計を止めているのは、俺の楔と……古の時魔法だ」
「魔法のことは分からない。でも――時計のことなら、分かる」
私は懐から、想像の中でだけ手に馴染む、極細のドライバーの感覚を呼び起こした。実際の道具はなくとも、この鐘楼には工具が眠っているはず。管理者の家に伝わる、修理のための道具が。
案の定、最奥の棚に、古びた工具箱があった。
私は袖をまくり、大時計の前に膝をついた。
「歯車が三枚、噛み合わせを外してる。脱進機が水を吸って固着してるわね。まずは、ここから」
前世の記憶が、指先を導く。歯車の一枚一枚を、慎重に外し、錆を落とし、組み直していく。
かちり。
かちり。
一枚組み込むたびに、鐘楼の壁を伝う水の跡が、じわりと下がっていく。水没した街の水位が、少しずつ引いていくのが分かった。
失われた時が、ほんの少しずつ、動き出す。
「……水の跡が、下がっていく。街の水位が、引いている……」
セドリックは、私のすぐ隣に膝をついて、食い入るように手元を見つめていた。
「……お前の指は」
ぽつり、と彼が零す。
「時を、愛している」
私は、手を止めずに笑った。
「前世でね、時計職人だったの。歯車と時間を、誰よりも愛してた。一秒の狂いも許せない、面倒くさい女だったのよ」
「前世……?」
「話すと長いわ。要するに――呪いだと思われてたこの力も、前世の腕も、全部この瞬間のためにあったってこと。……ほら、最後の歯車が、噛み合った」
かちり、と最後の歯車が噛み合った。
大時計の中心で、三百年止まっていた振り子が、ぴくり、と震える。
「セドリック。あなたの楔、もう外していい。私が、この時計を動かすから」
彼の深紅の瞳が、揺れた。
「……三百年、待った意味が」
「あったのよ。ちゃんと」
私は、大時計の中央にある、錆びた大針に手をかけた。
「三百分の一秒だけ止まってた世界に、時を返す。――さあ、鐘を鳴らしましょう」
***
ゴォォォン――ッ。
三百年ぶりの鐘の音が、王都中に響き渡った。
その瞬間、止まっていた世界の時が、一斉に動き出す。
大広間。
楽団の旋律が、途切れた音符から再開する。宙に浮いていたワインの雫が、床に落ちて赤い染みを作る。
そして――
「――もう二度と、顔も見たくな……な、なぜ、そこにいる!?」
カイルが、振り上げた右手を勢いよく振り下ろした。だが、そこにいるはずの「呪われた鐘楼令嬢」は、もういない。
いや、いる。
ただし、大広間の中央に、静かに立っていた。凍りつく前とは、まるで別人のような、凪いだ表情で。
「私、どこにも行っていませんよ」
私は淡々と告げた。手には、あの回収した書面の束。
「殿下があの一瞬、婚約破棄を口にした間に――私はすべてを見せていただきました」
書面を、床に広げる。
宰相派の横領の指示書。偽造された委任状。ソフィアが宰相派と交わした、鐘楼管理権譲渡の密約。
「……どうぞ、ご覧になって」
会場がざわめいた。集まった貴族たちが、書面を覗き込み、顔色を変えていく。
「こ……これは、でたらめですわ! お姉様が、わたくしを陥れるために――!」
ソフィアが、いつもの調子で涙を浮かべようとした。だが。
「その筆跡、あなたのものよね、ソフィア。宰相の封蝋も本物。今、この場で照合すればいいわ」
「そんな……ちがっ……お姉様、わたくしはっ……!」
私は、彼女の勝ち誇っていた笑みが、みるみる凍りつくのを――今度は魔法ではなく、恐怖で凍りつくのを、静かに見つめた。
「破滅が確定した瞬間に、あなたは笑っていたわ。時が止まった、あの一瞬。……よく覚えておきなさい、その顔」
宰相派の貴族たちが騎士に取り押さえられ、ソフィアは崩れ落ちるように膝をつく。カイルは、真っ青な顔で立ち尽くしていた。
そして、案の定。
「ま……待て、アリエル。戻ってこい。君の力が――鐘楼管理者の力が、王国には必要だ!」
手のひらを返して、縋るように。
私は、彼を見た。哀れむでも、怒るでもなく、ただ静かに。
そして、深く、一礼した。
「遅すぎます」
凛と、澄んだ声で。
「私が止まっていた、三百分の一秒の間に――あなたが失ったものは、もう時を戻しても、戻りません」
そのとき。
頬を、つ、と一筋の雫が伝った。
涙だった。時が止まる直前、継妹の嘘に最後まで気づけなかった、自分自身への悔し涙。宙で凍りついていたその一粒が、時の再開とともに、ようやく頬を伝い落ちたのだ。
「……この涙は、あなたのためじゃない。継妹の嘘に最後まで気づけなかった、自分への悔し涙。それも今、拭って終わりにするわ」
私は、それを指先で拭った。
「では、失礼します。私には――鳴らすべき鐘が、まだたくさんあるので」
***
「よくぞ、お戻りに……」
大広間を出た私を、白髪の老侍女マーゴが、涙ながらに迎えた。ヴェルン家に長年仕え、亡き母の代から、ただ一人ずっと私の味方だった人。
「お嬢様は、誰よりも真っ直ぐな時計の心をお持ちだと、わたくしは信じておりました。……奥様も、きっと」
「マーゴ」
私は、彼女の皺だらけの手を握った。
「ありがとう。あなたがいてくれたから、私は歯車が狂わずにいられた」
マーゴは、深く頭を下げた。それから、ふと声を落とした。
「お嬢様……鐘楼のこと、亡き奥様から託されたお話が、ございます。三百年前、あの鐘楼を沈めた“真犯人”のこと。……ですが、それはまた、時が満ちてから」
真犯人。
私の胸に、小さな引っかかりが残る。
「……真犯人。覚えておくわ、マーゴ。今は――鐘楼へ、戻らなくちゃ」
***
鐘楼の最奥。
動き出した大時計の前で、セドリックが待っていた。
だが、その姿は、さっきとは違っていた。額の鱗の紋が薄れ、鎧の輪郭が、確かな“人の身”を帯びている。
「セドリック。額の紋が薄れて……楔が、解けたのね」
「ああ。三百年、動かぬ時を守り続けた。誰も来ない、誰とも話せない、音のない世界で。……もう、二度と誰にも会えないと思っていた」
彼は、折れた騎士剣をそっと床に置いた。三百年、握りしめて離さなかった剣を。
「だが、お前が来た。俺の止まった時に、時を返してくれた」
深紅の瞳が、まっすぐに私を捉える。
彼は、私の前に、片膝をついた。
竜人の騎士が、令嬢に跪く。
「アリエル・ヴェルン。俺には、気の利いた言葉も、社交界の作法も、もう分からない。三百年、忘れてしまった。……不器用な男だ」
無愛想な声が、けれど確かに震えていた。
「それでも――お前のその、時を愛する指を。この先の時間を、俺の隣で刻んでくれないか」
差し出された手のひらに、あの白い花が、今度は色を取り戻して咲いていた。
私は、思わず笑ってしまった。前世でも、こんな不器用な告白は聞いたことがない。
「ずいぶん、遠回りな求婚ね。三百年も待たせて」
「……悪かった」
「冗談よ。……ほら、あなたの手の花、色を取り戻してる」
私は、彼の手に、自分の手を重ねた。時計職人の、時を愛する指を。
「秒針が、進んだわ。あなたと私の時間が、今、動き出した」
かちり、と。
大時計の振り子が、確かに、時を刻み始めた。
***
そうして、沈鐘の鐘楼の呪いは解け、水没した街に人々の時間が戻った。
――けれど。
動き出した鐘楼を見上げると、塔の一角に、まだ時の止まったままの区画が残っているのに気づいた。ひやりと、冷たい影が差している。
「……あら。塔の一角、まだ時が止まったままの区画がある。ひやりと、冷たい影」
次に時を止めるのは、誰か。
そして、三百年前――この鐘楼を水没させ、時を止めた“真犯人”は、今も、どこかで。
私は、亡母の懐中時計をそっと握りしめた。その針が、ほんの一瞬、ひとりでに逆回りした気がして。
「母の懐中時計の針が、ほんの一瞬、逆に回った気がした。……歯車は、まだ噛み合っていないみたいね」
止まった区画の奥で、何かが、こちらを見ていた。




