第29章 「生きたかった女の最期」
東京湾岸。
ビジネスホテルの一室。
カーテンは閉め切られ、
外の光は、
一切、入らない。
ベッドの上に、
加藤綾は、
体育座りのまま、
動かずにいた。
床には、
血のついたスニーカー。
肩のガーゼには、
まだ、
うっすらと赤が滲んでいる。
テレビは、
ニュースを垂れ流していた。
「……元女優・加藤綾。
連続殺人事件の重要参考人として――」
リモコンを、
壁に投げつけた。
画面が、
ひび割れた。
「……うるさい」
夜。
病院を、
抜け出した。
警察の事情聴取からも、
逃げた。
(……捕まったら、終わり)
ホテルを転々とし、
現金で、
泊まり続けた。
だが、
分かっていた。
(……遠藤は、
また来る)
(……あの男は、
絶対に、
終わらせない)
三日前。
石川県。
実家。
父親は、
ちゃぶ台の前で、
酒を飲んでいた。
「……帰ってくるなって、
言っただろ」
綾は、
何も言わず、
包丁を出した。
最初に、
父親の喉を、
切った。
血が、
噴き出した。
母親が、
悲鳴を上げた。
「……やめて!綾!」
母親の腹を、
刺した。
何度も。
そのとき、
なぜか、
涙は、
出なかった。
「……全部、
あんたたちのせいだから」
石川県。
実家。
血だらけの床に、
綾は、
座り込んでいた。
父親は、
もう、動いていない。
母親も、
壁にもたれたまま、
目を開いたまま、
死んでいた。
「……終わった」
そう、
呟いた。
胸が、
すうっと、
軽くなるはずだった。
だが。
何も、
起きなかった。
達成感も、
爽快感も、
解放感も。
何も、
なかった。
「……え?」
心臓が、
早鐘を打つ。
(……こんなに、
あっけないの?)
包丁を、
床に、
落とした。
ガン、
という音が、
異様に、
大きく響いた。
「……これで、
全部、
取り戻せると、
思ってたのに……」
手が、
震えた。
吐き気が、
こみ上げてきた。
その場で、
吐いた。
血と、
胃液と、
酒の匂い。
「……違う」
「……これじゃ、
足りない」
その言葉に、
自分で、
ぞっとした。
(……私、
何を、
求めてるの?)
その夜。
近くの、
安いビジネスホテルに、
泊まった。
テレビを、
つけた。
ニュースは、
まだ、
事件を、
報じていなかった。
「……誰も、
私のこと、
知らない」
「……何も、
変わってない」
そのとき、
初めて、
気づいた。
(……あの人たちは、
ただの、
始まりだった)
(……本当は、
社会そのものを、
殺したかったんだ)
翌朝。
綾は、
鏡を、
見た。
整形した顔。
「……誰だよ、
これ」
その瞬間、
政治家の顔が、
浮かんだ。
あの、
枕営業で、
身体を使わせた男。
「……あいつは、
今も、
普通に、
生きてる」
「……私だけ、
壊れたまま」
そのとき、
はっきり、
決まった。
(……次は、
あいつだ)
東京に、
戻った。
ニュースで、
知った。
「両親、惨殺」
画面の文字を、
ぼんやり、
眺めていた。
「……これで、
少しは、
楽になると思った」
楽には、
ならなかった。
次に、
殺したのは、
あの、与党議員だった。
昔、
枕営業で、
体を使わせた男。
ホテルの、
ラウンジ。
「……久しぶりだね」
にやにや、
笑っていた。
ワインボトルで、
頭を殴った。
倒れたところを、
ナイフで、
刺した。
「……あんたのせいで」
何度も、
呟きながら。
さらに、
もう一人。
SNSで、
綾を、
叩いていた若手議員。
事務所の、
玄関で、
待ち伏せした。
「……社会が、
悪いんだよ」
そう言って、
刺した。
ホテルの部屋。
綾は、
震えていた。
薬を、
大量に飲んだ。
酒で、
流し込んだ。
吐いた。
床に、
胃液と血。
「……死にたくない」
ぽつりと、
呟いた。
それが、
本音だった。
スマホが、
鳴った。
スマホを、
見た。
銀行アプリ。
古い、
送金履歴。
「遠藤誠」
最後の振込は、
三年前。
その下に、
見覚えのない、
小額引き落とし。
「……何、これ」
調べる気力は、
なかった。
非通知。
出るか、
迷った。
だが、
分かっていた。
(……遠藤だ)
通話ボタンを、
押した。
「……綾ちゃん」
声を聞いた瞬間、
体が、
硬直した。
「……まだ、
生きてたんだね」
「……どこにいる」
「……会いたい」
綾は、
笑った。
「……来るな」
「……もう、
終わったでしょ」
「……終わってないよ」
「……俺たち」
通話を、
切った。
その直後。
ノックの音。
ドアの前に、
誰か、
立っている気配。
ドアスコープを、
覗いた。
遠藤誠が、
立っていた。
包帯を、
巻いた肩。
血の、
にじんだシャツ。
(……まだ、
追ってきたんだ)
綾は、
後ずさった。
ノック。
「……開けてよ」
「……もう、
刺さない」
「……話だけ」
綾は、
ドアを、
開けなかった。
「……警察、
呼ぶから」
遠藤は、
小さく、
笑った。
「……もう、
呼ばれてるよ」
「……君のことで」
「……連続殺人の、
重要参考人」
その言葉で、
膝が、
崩れそうになった。
「……一緒に、
逃げよう」
「……海外なら、
バレない」
「……俺、
金、ある」
「……君のためなら、
何でもする」
綾は、
ドア越しに、
叫んだ。
「……ふざけるな」
「……あんたが、
全部、
壊したんだよ!」
「……違う!」
遠藤が、
ドアを、
叩いた。
「……壊したのは、
あの両親だろ!」
「……俺は、
君を、
救おうとした!」
その言葉で、
全身が、
震えた。
(……この男は、
本気で、
そう思ってる)
鍵の音。
(……え?)
ドアが、
開いた。
「……管理人、
金で、
黙らせた」
同じ言葉。
(……終わった)
遠藤は、
中に入ってきた。
ナイフを、
出した。
「……これで、
終わりにしよう」
綾は、
後ずさった。
「……生きたい」
それが、
口から、
漏れた。
遠藤の手が、
一瞬、
止まった。
「……じゃあ、
一緒に、
生きよう」
「……俺と」
「……他の男、
いらない」
「……君、
俺のもんだ」
綾は、
首を、
横に振った。
「……無理」
「……もう、
誰のものにも、
なりたくない」
遠藤の顔が、
歪んだ。
「……じゃあ、
なんで、
俺から、
金、
受け取ってた?」
「……なんで、
抱かせてた?」
一気に、
距離を詰めてきた。
綾は、
突き飛ばした。
「……違う!」
その瞬間。
ナイフが、
振り下ろされた。
腹に、
衝撃。
熱。
「……っ……」
床に、
崩れ落ちた。
血が、
広がった。
遠藤は、
ナイフを、
抜いた。
手が、
震えていた。
「……違う」
「……こんな、
つもりじゃ……」
綾は、
床を、
這った。
「……助けて……」
「……生きたい……」
遠藤は、
しばらく、
動かなかった。
やがて、
泣き出した。
「……俺が、
いなきゃ、
生きられないって、
言ってたじゃん……」
「……嘘だったの?」
綾は、
答えなかった。
もう、
声が、
出なかった。
遠藤は、
ナイフを、
床に落とした。
そのまま、
部屋を、
出ていった。
数分後。
綾は、
動かなくなった。
ホテルの廊下で、
清掃員が、
血の匂いに、
気づいた。
救急車。
だが、
間に合わなかった。




