第26章 誰も知らなかった最初の悲鳴
石川県の片田舎にある、小さなアパート。
そこに、一人の中年女性が住んでいた。
名前は、山本和子。
加藤綾が、小学生の頃に通っていた学童保育の指導員だった。
彼女は、テレビのニュースで、
あの名前を聞いたとき、
手にしていた湯呑みを落とした。
「……あの子が……」
床にこぼれたお茶を拭きながら、
和子の目には、涙が浮かんでいた。
綾は、いつも、最後まで残る子どもだった。
迎えに来る親は、ほとんどいない。
「……先生、今日も、一人?」
和子がそう聞くと、
綾は、うっすら笑って言った。
「……うん。パパとママ、忙しいから」
その笑顔が、
妙に大人びていたのを、
和子は、今でも覚えている。
ある日、
綾の腕に、青あざがあるのに気づいた。
「……どうしたの、それ」
「……転んだ」
即答だった。
目を、合わせなかった。
――嘘だ。
和子は、そう思ったが、
それ以上、踏み込めなかった。
「……大丈夫?」
「……大丈夫」
それ以上、何も言わなかった。
ある夕方、
和子が、偶然、
綾の家の前を通ったとき、
中から、怒鳴り声が聞こえた。
「金、どこやったんだよ!」
「……知らない!」
子どもの泣き声。
――綾?
和子は、立ち止まった。
ドアの向こうで、
何かが、床に叩きつけられる音。
「……痛い!」
和子は、拳を握りしめた。
――通報するべき?
だが、そのとき、
ドアが、勢いよく開いた。
父親らしき男が、
煙草をくわえたまま、外に出てきた。
和子と、目が合った。
「……何見てんだよ」
低い声。
和子は、
何も言えず、
その場を立ち去った。
――見て見ぬふりをした。
その事実が、
胸に刺さる。
数日後、
綾は、学童に来なくなった。
学校にも、来ていないと聞いた。
「……家出だって」
誰かが、そう言った。
和子は、
校長に相談したが、
対応は、遅かった。
「家庭の問題ですから」
「しばらく、様子を見ましょう」
――その「しばらく」の間に、
綾は、東京に行った。
ニュースでは、
彼女の残虐な犯行ばかりが、
繰り返し流れていた。
だが、
和子には、
どうしても、あの小さな女の子の姿しか、
思い浮かばなかった。
「……助けて、って、言えなかったんだよね」
和子は、
一人、呟いた。
和子は、
押し入れの奥から、
一枚の折り紙を取り出した。
綾が、昔、
「先生にあげる」って言って、
くれたものだ。
下手くそな、鶴。
裏に、
鉛筆で、こう書いてあった。
《わこせんせい だいすき》
《ずっと いっしょにいたい》
和子は、
その紙を、胸に押し当てた。
「……ごめんね」
それしか、言えなかった。
もし、あのとき、
ドアを叩いていたら。
もし、通報していたら。
もし、無理にでも、
児童相談所に連れて行っていたら。
――違う未来が、あったかもしれない。
だが、
それは、もう、取り返しがつかない。
夜。
和子は、
テレビを消し、
部屋の電気を落とした。
暗闇の中で、
彼女は、静かに泣いた。
「……誰も、助けなかったんだ」
それが、
この物語の、
最初の悲鳴だった。




