第14章 血の清算と虚無
一歩、前に出た瞬間、世界の音が消えた。
テレビの雑音も、母の浅い呼吸も、父の喉が鳴る音も、すべてが遠ざかっていく。
私の中に残っていたのは、十四歳の頃に凍りついた感情と、今ここで終わらせるという決意だけだった。
「……どうして、こんなことをするんだ」
父がかすれた声で言った。
その言葉を聞いた瞬間、笑いそうになった。
どうして?
本気で分からないのか。
「私に、どうしてって聞く?」
声は低く、異様なほど落ち着いていた。
自分の口から出ているとは思えない声だった。
次の瞬間、幼い頃の記憶が一気に押し寄せる。
殴られた夜の匂い。
閉じ込められた押し入れの暗闇。
母の笑い声。
父の怒号。
視界が歪み、身体が勝手に動いた。
父が何か叫んだ。
母が悲鳴を上げた。
その声は、十四歳の私の声と重なった。
気づいたときには、床に父が倒れていた。
目を見開いたまま、微動だにしない。
母は壁際にへたり込み、口を押さえて震えている。
「……やめて……お願い……」
その言葉が、私の中の最後の理性を踏みにじった。
――やめてって、誰に言ってるの?
私はゆっくりと母の前にしゃがみ込んだ。
その顔は、昔と同じだった。
私を守らなかった女の顔。
「ねえ、覚えてる?」
「私が、助けてって言った夜」
母は首を横に振るだけだった。
その仕草が、すべてを終わらせた。
次に意識が戻ったとき、私は床に座り込んでいた。
両親は、もう動かなかった。
部屋の中は、異様な静けさに包まれている。
テレビは、何事もなかったかのようにバラエティ番組を流し続けていた。
私は、何も感じなかった。
怒りも、悲しみも、達成感もない。
ただ、空っぽだった。
手が震え始めたのは、その数分後だった。
膝の力が抜け、呼吸が荒くなる。
「……終わった……?」
呟いた声は、誰にも届かない。
私は立ち上がり、洗面所に向かった。
鏡に映った自分の顔は、知らない女のものだった。
整形で作られた顔が、血の気を失って青白くなっている。
水を出し、何度も手を洗った。
それでも、何かが落ちない気がして、何度も何度も洗い続けた。
その夜、私は実家を出た。
何事もなかったかのように、鍵を閉め、帽子をかぶり、駅まで歩いた。
罪悪感はなかった。
後悔もなかった。
あるのは、底の抜けた虚無感だけだった。
東京に戻る新幹線の中で、私は窓の外をぼんやり眺めていた。
田んぼも、山も、すべてがどうでもよく見える。
「……これで、終わるはずだったのに」
心の奥で、何かがざわついている。
両親を殺しても、何も変わらなかった。
過去は消えない。
心の穴は埋まらない。
その事実が、私をさらに深い場所へ押し込んだ。
――次は、誰のせいにすればいい?
頭の中に浮かんだその問いに、自分でぞっとした。
両親は、確かに元凶だった。
でも、私を使い捨てた芸能界も、
私を売り物にした男たちも、
私を見捨てた社会も、
全員、同じじゃないか。
新幹線がトンネルに入る。
暗闇の中で、私は小さく笑った。
「……社会が悪いんだ」
その言葉は、冗談ではなかった。
私の中で、次の標的が、静かに形を取り始めていた。




