二人の夕暮れ
秋が終わって日差しが傾き、風が少しずつ冷たくなる。
そうして気がつけば世界には冬が来ていた。
想像していた通り、この町は東京よりずっとずっと冬が厳しい。
制服にはニットのベストが加わり、コートとマフラーも解禁された。それでも朝夕は耐えきれないくらい冷え込む。
(咲さん観察……一ヶ月目……って。何やってんだろ、私)
私は教室の隅っこで、カレンダーを睨んだ。そして今日の日付にバツをつける。
12月の足音が聞こえ始めても、私は咲さんの観察を続けていたのだ。
(なんか、意地になっちゃったな……)
一ヶ月かけても、わかったことは少ない。
授業中によく居眠りしていること。
休み時間のたびに、スナック菓子を食べていること。
音楽だけでなく、国語と、美術も得意なこと。
ただ、意外なこともわかった。
(結構……咲さんも一人なんだ)
私は教科書を整理するふりをしながら、教室の前で女子と喋っている咲さんを目の端でとらえる。
一時間目の休み時間、彼女は窓の外を見つめていた。
二時間目の休憩時間は、クラスメイトとおしゃべりを楽しんだ。
そして昼休みは一人で姿を消した。
次の休み時間には別の子とメイクの話をしていたと思えば、次の時間は一人で机に突っ伏して眠っている。それなのに、今はまた別の女子と楽しそうに話をしている。
まるで猫のように自由気ままだ。しかし咲さんが通るだけで皆が彼女の行動を見つめる。
三人で固まっている例の肉食獣たちは、構ってほしそうに咲さんを見上げるだけ。
……しかし、やがてその三人の目線に嫌な色が混じり始めることに私は気づいてしまった。
毎日咲さんの周辺を見ている私だからこそ、気付いた変化である。
最近、三人組は私を見ることもしない。あからさまな無視をするだけだ。
その分の鬱憤や恨みが、すこしずつ咲さんに向かっている。
(可愛さあまって)
私は思いついた文字をノートの端に書く。
可愛さ余って憎さ百倍。
右上がりの尖った文字は、言葉の意味も相まって恐ろしい一文に見えた。
まるでその言葉が予告になったように、教室の空気は少しずつ変わっていく。
それは冬の寒さが一段と酷くなった、曇り空の月曜日のことだった。
「咲、変わっちゃったよね」
はじまりは、そんなささやき声だ。
みんなが好き勝手にお喋りする休憩時間、雑音の合間にその言葉は確かに聞こえた。
「地味なのと絡んで、地味が移ったんじゃない?」
私は耳が良い。それだけは昔からの癖だ。
どうしておばあさんのお耳はそんなに大きいの?……なんて聞かれるほど耳は大きくない。けれど、きっと童話に出てくるオオカミくらいには耳が良い。
赤ずきんちゃんの声をよく聞くためなんかじゃない。小さな声や嫌な声をすぐに聞き分けるためだ。
両親の喧嘩の声だって、私に対する文句だっていつもすぐに感知していた。
「ねえ、あいつの噂、知ってる?」
「ああ、右腕?」
「夏でもずっと隠してるし体育のときも長袖だし」
「プールも絶対はいらないでしょ」
「……自分で切ってるって」
「え?」
「学校の掲示板みた?」
「図書室の?」
「えっあれやったの、あんた?」
「すぐ剥がされちゃうから先に見とくほうがいいよ」
私は慌てて教室中をぐるりと見渡す。先程まで教室の全面にいたはずの咲さんがもういない。
咲さんのいない教室で、彼女への悪口だけが増幅していく。
周囲の女子たちはその声が聞こえないのか、聞こえないふりをしているのか、俳優や歌手の話に夢中だ。
私はひとり、シャープペンを強く握りしめた。血の気が失われ、耳のそばで桜虫が暴れる音だけが聞こえる。
ぶ、ぶ、ぶと虫が私の頭に何度もぶつかっている。
なぜ黙っているのか。怒れ、怒れ。虫はそう言っているようだ。
(いい加減なこと言わないほうがいいよ。って注意しにいく? もう嫌われてるんだから、これ以上何言ったって、変わらない……変なこと言わないでって言う……? 咲さんに構ってもらえないから悪口言うなんてダサいって、言ってやらなきゃ……)
言い返す言葉はいくつも思いつくのに、私の口は動かない。
自分が三人に囲まれた時よりも、ずっと胸の奥が苦しかった。
「ねえ。体育のとき、確かめてみようか」
一人がくすくす笑うように言う。それ以上耐えられず、私はそっと席から立ち上がる。
立ったところで行く場所などはない。
まるで逃げるように迷い込んだのは校舎奥にある図書室だ。薄暗く、本の乾いた香りが充満している。
受付の生徒も留守にしているのか、部屋には誰もいない。
誰もいない図書室は通常、入出禁止。
私は慎重に周囲を見渡したあと、そっと扉を薄く開く。そして息を飲んで滑り込んだ。
(……違反、しちゃった)
普段なら絶対に入らない。先生の決めたことは絶対だ。真面目だから、ではない。あとから叱責されるのが嫌だからだ。
それでも中に入った理由は、ただ一つ。
(……図書室の、掲示板……)
静かな図書室は本の匂いだけが濃い。
壁に手をつきながら進むと、一番奥に何かが見える。
虫たちがまるで先導するように、ピンクの筋を伸ばしてその前に飛んでいく。
私はまるで惹きつけられるようにその前に立った。
「掲示板って、これ?」
それは壁一面を覆うような大きなボードだ。
青色の蛍光灯にしらじらと照らされる。その掲示板は、定期的に学校の行事が張り出されるものだった。
……ただし時折、生徒へ対する陰口が張られることもある。
(なにこれ)
今、掲示板には一枚だけ付箋紙が貼られていた。
そこには、可愛らしい丸文字で、見慣れた名前が刻まれている。
花守咲。その隠された右腕の秘密。
文字はそう書かれていた。
(自分で……傷つけた右腕……? 何度も……病院に行ってるから怪しいって)
くだらない。憶測でしか無い。陰口にもなっていない……そんな、くだらない噂話。
私は付箋紙を剥がして握り潰し、ゴミ箱に投げ捨てる。
(病院ってお爺さんのお見舞いじゃないの? 腕だって、咲さんは左利きじゃないし、なんで右手を傷つけられるの? まさか、みんなこんなことを信じてるの? ほんとバカだ)
どくどくと心臓が暴れまわって苦しいほどだ。自分が受けた言葉よりも、ずっとそれは私の奥深いところを傷つける。
自分に向けられた悪意には傷つかなかった心が、こんなことで激しく動揺している。
(どうしよう)
虫は私を責めるように暴れまわっていた。
しかし私は何もできない。もう一度付箋紙を拾い上げて、バラバラに破りゴミ箱に再び投げ捨てる。
何かをしなければならない……でも何を?
(どうしよう)
その時、無情にも休み時間終了10分前を告げるチャイムがゆっくり鳴り響いた。
私は幼い頃からずっと、優しくない。
「水底さんって、優しい言葉をどこかで落としてきたのね」
と、かつて小学校の先生に言われたことがある。
あれは確か、小学校低学年の頃。遠足の帰り道、私の目の前でクラスメイトが転んで大泣きしていた。
石かなにかにつまずいて、硬い地面に膝から転んだのだ。
膝は切れて血が滲んでいた。私は一番近くにいたはずなのに、どうすればいいのか分からずただ呆然とクラスメイトを見つめていた。
周囲のクラスメイトは大泣きするその子に手を差し伸べて、大丈夫? 大丈夫? の大合唱だ。
それを見て、先生は言ったのだ。
「水底さんは優しい言葉をどこかで落としてきたのね」
まるでささやくように、つぶやくように。私にだけ聞こえる声で。
ああ、手を差し出せば良いのだ。
眉を寄せて心配すればいいのだ。
大丈夫? そんな一言だけでいいのだ。
一緒に泣けばいいのだ。
そんな簡単なことに気づいたのは、ずっとあとのこと。
それからずっと私は、自分が優しくない人間だとそう思っている。
(大丈夫? なんて。大丈夫じゃない時に言われたって、どうしたらいいのよ。私なら困るだけだもん)
今日、最後の授業は体育だった。
教室で着替える私のことを、クラスメイトがチラチラと見ている。
虫がどうなるのか気になるのだろう。制服を脱いで体操服に着替えたって、虫は布をすり抜けてそこにいる。鱗粉だって付くことはない。
それを見て、クラスメイトがきゃあきゃあと声をあげる。
いつもなら虫はサービスをするように、クラスメイトに対して飛び回って見せるはずだ。
しかし今、虫はそんなくだらないことはしない。ただ、怒っている。
……私に対して、怒っている。
(黙って……)
虫と一緒に過ごすようになって数ヶ月。私も最近、虫の気持ちが多少理解できるようになっていた。
この虫は、人間よりずっと偽善的だ。
(うるさい。だから、私には何もできないんだってば)
虫を手で払っても、ピンク色の塊はびくともしない。
言葉は発しなくても、虫の言いたいことは痛いくらいに伝わってくる。
(わかってる……)
……助けろと、虫は言っている。
(わかってる、けど)
咲さんを助けろと、そう言ってる。
(手なんか差し出しても、痛みが減るわけじゃない。怪我が治るわけでもないし、悲しさが消えるわけじゃないし……結局、自分でなんとかしなきゃ……私はそうしてきたもの、誰にも頼らずに……)
言い訳をするが、私の頭には一つの言葉が引っかかったままだ。
そのせいで虫をはらう手にも力がこもらない。
『体育のとき、確かめてみようか』
何を確かめるというのか……わからない。ただ、嫌な予感はした。
顔を上げれば、教室の隅に咲さんの姿があった。
彼女は眠いのか、ぼんやりと制服を脱いでいる。
しかし、右腕は服に包まれたままだった。
それが彼女のスタイルだ。ジャージに着替える時、絶対に右腕を出さない。
右腕だけシャツの袖を残した中途半端な格好で、体操服を探すように鞄を漁っている。
鎖骨のあたりをふわふわと揺れる金の髪と、その周囲を楽しそうに舞う桜虫だけがのんきに見える。
そんな咲さんを見つめるのは、私だけじゃない。
例の三人組が、遠巻きに嫌な笑みを浮かべて立っているのだ。
お互いに肘で小突いて、何かを囁いていた。
やがて、一人が咲さんに向かって歩き始める……その目は残酷な色をしている。
虫が何度も、私の頬にぶつかった。まるで泣くように、叫ぶように。
咲さんを助けろ。虫はそう言っている。
今、行かなければ一生後悔する。
虫はそう言っている。鬱陶しいほどの……私にしか聞こえない声を放って。
同時の頭の中に叔母さんの声も響くのだ。
面倒事を起こさないで。と、いう冷たい声が。
(でも……もし、本当に、今……また無視したら……?)
ジャージに着替え終わった私の手が震える。
かつて、私の目前でころんだ少女。
冷たい先生の声。
遠ざかっていく両親の背中。
ものが消え去った真っ暗な家。
色んな風景がまぜこぜになって、私の頭の中を支配する。
(何もできない、どうせ何もできないのに……)
私はふらつく足で、教室の奥にあるロッカーに向かった。人にぶつかったが、相手の顔を見る余裕もない。
冷たいロッカーの奥には、緊急事態用のジャージが一枚入っている。
(緊急事態だ、これは、たぶん、緊急事態だから)
掴むと、それは恐ろしいひどく冷えていた。
「ねえ、咲」
気がつけば一人が咲さんの隣に立っていた。彼女は中途半端な姿勢で着替えをする咲さんを見つめてにやにや笑う。
その顔は童話に出てくる意地悪な魔女にそっくりだ。
「なんで腕、隠すの?」
一人が後ろから咲さんの腕を掴む。彼女は油断していたのか、腕はやすやすと掴まれた。
そして彼女は後ろに転がり、尻もちをつく。
「何……」
咲さんは何が起きるのか理解したのだろう。はっきりと顔色が変わるのが見えた。
「いいじゃん、見せてよ」
右腕に引っかかったブラウスが彼女たちに捕まれ、無理やり引っ張られる。
「ちょっと! やめ……」
咲さんは溺れるようにもがいて抵抗するが、相手のほうが強い。クラスメイトたちも異変に気づいてそちらを見る。
「着替えにくいでしょ、そんな隠してたらさあ」
「……っ」
そして、全員の目の前に、咲さんの右腕が一瞬だけ、晒された。
「咲さん、ジャージ……っ」
しかしそれは本当に一瞬だけだ。その前に、私の足が動いていた。
「か……借りてたから!」
私が掴んだのは、ロッカーに置いておいた替えの長袖ジャージ。
汚れたり忘れたりした時のために、一枚は余分にロッカーに入れておきなさい。それが女の子の常識よ。と、叔母さんはそう言って一枚余分に購入してくれたのだ。
彼女の常識に、私ははじめて感謝した。
「咲さん、これ、ジャージ……使って!」
私は煉瓦色のジャージで、咲さんの腕を包み込む。
勢いよく飛びかかったので、咲さんの頭ごと抱きしめる形になったが、その勢いが良かったらしい。
急に飛び出してきた私に驚くように、咲さんの腕を掴んでいた手が離れる。残りの二人も、怯えたように一歩引く。
私を見て怯えたのではない。周囲を飛び回る虫の色におびえているのだ。
桜虫は、まるで警告を放つように赤く、赤く、染まっている。
私の虫も、咲さんの虫も……恐ろしいほど赤く、輝いている。
教室は静寂だ。静寂が耳に染み込むほど、静かだ。
ぶん、と虫の飛ぶ音だけが響く。
虫たちは、怒り狂うように羽音を立てている。
それを見て、三人組はまた数歩退いた。
「……えっとジャージ、咲さんに、借りてて……それで授業……そう、授業始まる前に、返さなきゃって……」
その沈黙に耐えかねて、私は慌てて早口で呟く。
「あ……あと、えっと……あっちの教室に……そうそう、ズボンも……ある。ズボンもあったね! あの、そっちも返さなきゃ……だから!」
「あー。そういや、そうだったねー」
しかし咲さんといえば、何もなかったようにのんきな声で立ち上がる。
彼女はジャージをしっかり着込んで腕を隠すと、細い顎をあげて服に絡んだ髪の毛をゆっくりと腕で払いあげた。
まるで虹のように金髪が広がる。こんな時なのに「綺麗だな」などと私は思わず見とれてしまった。
「じゃあ葵、取りにいこっか」
静まり返った教室の真ん中。堂々と胸を張って歩く咲さんに引きずられ、私は背中で授業始まりのチャイムを聞いた。
「ご……めん」
「ねえ、見えちゃったよね」
何に謝るのか。分からないまま私の口をついて出たのは謝罪の言葉だ。しかしそれに咲さんの声が重なる。
「見え……?」
「腕」
すでに授業は始まっている。どこかの教室からは先生の静かな声と綺麗な朗読の声、それにチョークが黒板を削る音が聞こえてくる。
誰かがペンを落としたのか、硬いものが床を転がる音も聞こえる。
……それくらい、静かなのだ。
私たちは今、誰もいない階段の踊り場で座り込んでいる。
授業が始まってしまえば先生も通らないらしく、踊り場は静かで寒々しい。
「腕さあ」
咲さんがぽん、と自分の腕を叩いた。
その上をピンク色の桜虫が心配そうに飛び回る。私の虫も少し寂しそうに、耳元を飛び回る。きゅいきゅいと、不思議な声だけが聞こえた。
「……気持ち悪いっしょ。嫌なの見せて、ごめんね」
「何も」
見てない。と言いかけた口が止まる。
(……嘘だ)
代わりに私は拳を握りしめ、うつむく。
見えなかった。と言い切るのは嘘だ。少しだけ、本当にほんの少しだけ……その腕を見てしまったのだ。
彼女の右腕には、赤くただれたような色が見えた。
一瞬のことなので、それが何であるのかは分からなかったが。
手首から肘にかけて、まるで皮膚がただれるように……燃え上がるように赤く染まって見えたのだ。
すぐにジャージをかけたので、その傷は誰の目にも触れなかっただろう。しかし彼女は私に見られたことを恥じるように腕をきつく握りしめ、そしてため息を漏らす。
「だるくなっちゃった」
「咲さん、あの、あのね、私」
「あたし、帰るね」
咲さんは伸びをして、わざとらしいほどの笑みを浮かべてみせる。
……それは無理のある笑顔だ。
「なんで無理に……」
なんで無理して笑うのかと、咲さんはかつて私にそういった。2回目に出会った、外階段の上で。
同じ言葉を言いかけて、私は慌てて口を閉ざす。
「咲さん」
「心配しなくていーよ。ジャージ、今度洗って返すし」
まるで踊るように廊下を去っていく彼女の背に、私はまた何も言葉をかけられなかった。
ただ桜虫だけが私を慰めるように頬のあたりを優しく舞う。
それは懐かしい感触だった。昔、どこかで感じたことのある優しい感触。
……これは、人の指と同じ感触だ。と私はようやく気がついた。
優しく撫でる、あたたかな慰めの温度。
春の日差しを丸めたような、その温もりに私は思わず座り込む。
床の冷たさと痛さがジャージ越しに伝わった。
なんて無様なことだろう。
(なんて、バカなんだろう……)
私の胸の奥がズキズキと痛む。虫は私の周りを心配そうに飛び回り、ぬめつくグレーの床にピンク色の影だけが映っていた。
(ありがとうって……)
思い出したのは、雨の匂いとクッキーの匂いだ。
(ありがとうって、もっと顔を見て、ちゃんと、言わなきゃいけなかったのに)
咲さんは私を助けてくれたじゃないか。あのとき、私はお礼を言うことなく、ただ曖昧に濁してしまった。
もしあのとき、もう少し彼女に近づくことができていたなら、今日、こんな無様な助け方をせずに済んだだろう。
(もっと、咲さんと話ができてたら、きっとあんな顔させずに)
転んだ子に手も差し出せない薄情な女の子は、どう頑張っても人を助けることなどできやしないのだ。
やはり自分は情がない。どこか欠陥品。しかも、それに気づくのが遅すぎる。
だというのに、桜虫だけは私のことを愛おしがるように、包んでくれる。
頬に触れるその温度は、やはり懐かしかった。
かつて自分もこのように、誰かから撫でられたのかもしれない。
懐かしいこの感触は私の気持ちをゆっくりと解きほぐしていく。
私は恐る恐る、桜虫に指を這わせる。桜虫は私を慰めるように指に絡まる。
柔い温かさが、指を通して全身に広がる。
……言葉など不要なのだ。こうやって触れ合うだけで良かったのだ。
「ありがとう……」
それは久々に発した言葉だった。




