二人だけの特別講義
授業終わり、のどかな放課後。
陸上部の上げる掛け声と、廊下を行き交う生徒たちの声だけが響く夕日の頃。
「桜虫は、数百年前も前に発見されたといわれているの」
そう言って、先生は静かに授業をはじめた。
「桜虫はこの町にしか存在しない貴重な虫。生態は謎に包まれているわ。ただ分かるのは、山にある特別な木で生まれ育って旅をすること。そして彼らは年を取り、山に戻る。そのときは人間に取り付いて、やがて山に戻って木に帰る……それを桜虫送りといって、彼らを送ることができるのは代々、特別な女の子だけ……」
一息おいたあと、先生はこちらを見つめて微笑んだ。
「まずはお祝いをさせてね。おめでとう、二人とも」
彼女は廊下で私に声をかけてきた里村先生だった。
来年の春に定年らしいと噂で聞いた。最後の年、教え子に虫憑きが出たのがうれしい。と彼女は少女のように笑う。
「桜虫送りというのはね、虫を桜の木に返すこと。虫を返さないと、冬がずっとずっと続いてこの町には春が来ない。だから、桜虫憑きに選ばれた子は、ほんとうに名誉なことなの」
私たちが放課後に呼び出されたのは、廊下の隅にある家庭科室だった。
教室の手前には小さなコンロと洗い場がセットになった銀色の机が。
奥の長い灰色の机には年代物のミシンが。それぞれに並んでいる。
窓沿いの大きな棚には色とりどりのハギレが並んでいて、吹き込む風でちらちら揺れるのが綺麗だった。
私と咲さんはそんな教室の片隅で、机を並べて先生の話を聞いている。
(春が来ない……そんなこと、あるわけないじゃない)
心の中ではそんなことを考えても、それを表情に出すほどヘマなことはしない。私は真面目なふりをして手元の小冊子を見つめた。
冊子の表紙には『葭野町 まちの歴史』というタイトルと、桜の木のモノクロ写真が載せられている。
週に数回、授業の終わりに桜虫についての講義があると聞いたのは今日の昼だ。
逃げる方法を必死に考えたが、私の根底にある生真面目さが邪魔をした。
小学校から学校も塾も皆勤賞。それは全部この生真面目さゆえだ。
サボったあとの気まずさを思えば、今、我慢するほうが百倍マシだ。そう思っている。
「どんな木? おっきいの?」
私の気持ちなど気づきもしないように、咲さんが元気よく腕を上げた。まるで子どもみたいな質問だが、彼女まで真面目に座学を受けているのは、意外なことだった。
この手の女子は、授業なんて真面目に聞かないはずなのに。
しかし里村先生はそれを意外とも思わないのだろう。笑顔で咲さんの質問を褒めた。
「興味を持つのはいいことね。この表紙の木を見て。これが虫を返す桜の木と言われてるの。ここから電車であと数駅行くとね、葭駅があるでしょ。そこから車で少し行った場所に錦山という山があって、木があるのはその頂上。あなたたちも冬の終わりには見ることになるわ」
里村先生は黒板に錦山と書く。山の絵を描き、頂上に小さな木を描いた。
「この木はね、虫たちにとっては我が家なの。最後の最後に帰る家。あなた達の使命は、虫を家に帰すこと。難しいことを考える必要はないの。ただ、返してあげること」
里村先生は真剣な顔で私たちを見つめる。
首の詰まった薄暗い色のワンピース姿で、白髪交じりの髪はきっちりとお団子にしてあった。いかにも模範的な『先生』だ。
「せんせー」
机の上に顎を乗せただらしない姿勢のまま、咲さんがまた手を挙げる。
「この虫さ。なんで、あたしたちに憑いたの?」
「虫じゃないから先生にはわからないけれど……」
「……巫女も若い女性ですよね。神事をするのは……」
思わず私が漏らした言葉に、里村先生はにこりと微笑んだ。
「よく知ってるわね、水底さん」
二人から見つけられ、私の顔がカッと熱くなる。
それを誤魔化すように、桜の冊子で慌てて顔を隠す。
「べ、べつに、興味があるとかじゃなくって、ただ……」
「そうね。これは水底さんの言う通り、神事なのかもしれない。そして、これはその神事への心構えを説明するための座学なの」
「週に何回も、ココロガマエのお勉強だけ? 遊んだり、山登りに向けて運動したり、そんなことはしないの?」
咲さんは机に突っ伏したまま、唇を尖らせた。
「あたし、運動は嫌いだけどさ。でもずっと座って話ばっかり聞いてると寝ちゃいそー」
つまらなさそうな顔をして、彼女はシャーペンを転がして遊んでいる。
そんな咲さんをみて、里村先生は苦笑を漏らした。
「あなたたちはまず、しっかり歴史をお勉強すること。心身ともに健康で……清廉とあること」
「せえれんってー?」
咲さんはちっともおとなしくない。言いたいことを一言一言に口を出す。
それくらい好き勝手をしても、里村先生は苦笑するばかりで叱りもしない。まるで咲さんは宇宙人だ。
少なくとも、私にはこんな態度、生まれ変わってもできそうもない。
「清く正しく生きるということよ、花守さん。そしてね、冬になれば山の管理をされている方のところへ合宿して……そこで虫の返し方を学ぶから、心配しなくても大丈夫。その前には管理者と一緒に模擬練習もしますからね。みんな初めてでも立派に勤め上げてきたもの。何も心配はないわ」
「合宿?」
「管理をされている方は、長く桜虫の研究をされている満月先生と言う方。しかも何十年も前の桜虫憑き……つまり、経験者よ。だから安心でしょ」
「変な名前」
と、咲さんが口をとがらせ、声を上げる。私はどんどんと流れてくる言葉をノートに書き留めるだけで精一杯だ。
「先生。あの、もう一回……合宿のところを詳しく……」
「普通の虫送りの合宿は、春が来る前に一週間だけなんですけどね、あなたたちは2人と少し特別なので、少し長めに……一ヶ月近い合宿になる……って仰っていたかしら。遅くても2月からね」
平然とそう言い放ち、里村先生は黒板を消す。まるで、土曜日にちょっとそこまでお出かけする。そのくらいの言い方で。
黒板に残るチョークの軌跡をぽかんと眺め、私は思わず叫んでいた。
「一ヶ月も!?」
「けっこー長いね」
咲さんもそのことは初耳だったのか、少し戸惑うように首をかしげる。
「ねーせんせ。それってさ、絶対行かなきゃ駄目なヤツ?」
「あら。教頭先生から何も聞いてない? 代わりに期末テストは免除よ。良かったわね。これがねえ、3年生が当たったときは悲惨なんだから。受験とかぶっちゃうって……2年でよかったわ」
「え~一ヶ月かあ……けっこー長いんだ~」
咲さんは椅子にふんぞりかえったまま、しばらく目を閉じていた。
が、やがて自分の中で折り合いがついたのか、彼女は「ん、でもラッキー」とつぶやく。
「テスト無いならなんでもいーや。うん、合宿楽しみになってきちゃった」
しかし私はそれどころではない。思わず立ち上がり、里村先生と目が合い……おとなしく椅子に座りなおす。
いっちにっさん。という陸上部の声だけが蒸し暑い室内に流れ込んできた。まだまだ暑い空気の中で、冬を想像するのも難しい。
しかし、冬は確実にやってくる。
つまり、合宿も必ずやってくるのだ。
「一ヶ月って……あの、一ヶ月全部……?」
「満月先生が日程を決められるから……今回はそれくらい。ですって」
「通い、は難しいですか?」
「そうね。結構離れてるから、毎日通うのは現実的ではないわね」
私の背を流れた冷や汗は、叔母さんのことを考えたせいである。
叔母さんはきっと非常識だといって怒るだろう。
旅行はせいぜい2泊3日まで。
学生の旅行は日帰りが当然。
そんな常識が好きな人なのだ。
しかし里村先生にじっと見つめられ、私は笑顔を浮かべてみせた。
「……叔母に、相談してみないと……もしかすると駄目と言われるかも……しれません」
「斎戒、という言葉を知っている?」
先生が黒板にきれいな字で斎戒、と刻む。難しく、恐ろしい漢字に見えた。
「さっき、水底さんも巫女さんの話をしたわね。神職の方やお祭りに出る人が……神様に会う前に、心身を清めるということ。あなたたちは山に入って、山で身も心も綺麗にする必要があるの」
「お風呂、毎日入ってるよ?」
「体の汚れだけじゃないわ。心の汚れ、悲しみ、怒り、苦しみ」
里村先生ののんきな声が私の心に刺さる。
(……心の汚れ)
私の心の中には、黒いへどろのようなものが常に詰まっている。
私は自分のヘドロを見ないように、生きてきた。
(落としきれるのかな)
笑顔の仮面を貼り付けたまま、私は喉の奥底にあるであろうヘドロを思う。
しかし咲さんは私の心中など知るはずもなく、のんきに手を振り上げていた。
「桜の木って神様なの?」
「神様かもね」
私は冊子の空白の部分に、斎戒。と文字を刻んでみた。戒めるという言葉が恐ろしい。厳しい支配下に置かれる、そんなイメージがある。
「先生も……返したことがあるんですか?」
「いいえ。虫返しの儀式には、虫憑き少女以外はついていけないのよ。でも、先程言った、満月先生。この方のとき、それはもう見事な春が来た。どこまでも続くような、本当に見事な春だった」
桜虫を語る時、里村先生の声はやけに静かだ。なにか思い出があるのか、目の奥が少し寂しそうに光る。
しかし彼女はすぐにその色を隠して微笑んだ。
「特に2名も出る年は、とても暖かく素敵な春がくると言われているわ、皆がそれを期待しているのよ」
「2名って……そんなに珍しいんですか」
「そうね。記憶にある限り、一回しか無い。それも随分昔に」
「せんせー。しっつもーん」
咲さんが大きく手を振り上げて、叫ぶ。
教室はこんなにも蒸し暑いのに、相変わらず彼女は長袖ブラウスだ。
それがおしゃれなのか、左腕は袖までまくってあるくせに、右腕は手首のボタンまで止めている。
振り上げた右手が、夕日を受けて赤く染まっていた。
窓の外を見れば、山の向こうにゆっくり日が沈んでいくところだ。
赤い色が教室の中を染めている。くすんだ色のミシンも、ハギレも、全部夕日の色に染まる。
その色に負けないほど、桜虫は明るいピンク色に輝いて飛ぶ。
教室の床に、ピンク色の光が跳ね上がるのが見えた。
「虫を返さないと、ほんとーに春ってこないんですかー?」
「もちろん。だから毎年、ちゃんとみんな、山に行くのよ」
「虫を返さなくても春は来るんじゃない? だってさ、この町だけ春が来なきゃ、大ニュースになるし……あ、いっそ春が来ないほうがいいかもよ? そうなればさ、一生冬の町ってことで話題になるじゃん」
咲さんがこそりと私に耳打ちをする。その声を聞いて、私は思わず吹き出しかけた。まさに同じことを考えたのだ。
私がうっかり漏らしかけた小さな声は、運良く教室のチャイムに紛れて消えた。
時刻は17時。外からも時刻を告げる音楽が流れている。
気がつけば陸上部は練習を終えて、姿を消していた。
「ただ、覚えていて」
里村先生は書類をまとめながら、眩しそうに夕日を見つめる。
穏やかな山も、夕日も、赤に染まる教室も。彼女は何年もの間、ずっと見続けていたのだろう。
それなのに、この風景を初めて見るような顔をして里村先生は目を閉じる。
「あなたたちは桜虫に選ばれた……あなたたちなら綺麗な春を運べると、虫が判断した。それは名誉なこと」
では、今日はここまでです。と、里村先生は生真面目にそう告げた。
「座学って、だっるーい」
「私、結構面白かっ……」
筆箱を片付けながら、私は慌てて言葉を飲み込む。
「……なんでもない」
気がつけば、家庭科室に残されたのは私と咲さんの二人だけ。夕日は陰り桜虫だけが明るかった。
「葵、字ぃ綺麗だね」
ふと、左側が暖かくなり私はぎょっと目を見開く。
気がつけば咲さんが私の体により掛かるように座っているのだ。
制服越しに伝わる体温は生ぬるく、熱い。
誰かと触れ合うなんて、私にはそんな経験がない。むずかゆい感触に驚いてゆっくりと、咲さんから距離をおく。
「べ……べつに。普通の字だよ」
「先生とか、なれそー。いいな、あたし将来の夢とか無いからなあ」
無意味なほどに明るい咲さんが一瞬だけ、薄暗い顔を見せた。
しかしそれは日暮れの見せた幻かもしれない。
それを証拠に、もう彼女は平然とした顔をしている。
「ねえ、葵」
また咲さんが私の背にもたれかかってきた。熱がじんわりとブラウス越しに伝わってくる。
「なに……」
「無理やり笑ってて、たのしい?」
私の喉が小さく鳴った。
言い返そうとしたが、言葉が喉の奥に詰まり背筋が急に冷える。
私のすぐ隣に座る彼女は、見たこともないくらい怖い顔をしていたからだ。
「咲……さん」
とっさのことに笑顔を浮かべることも反発することもできない。どんな顔をして良いのかわからず、私はきゅっと唇を噛みしめる。
「私……は」
「昼休みの時、あたしの前だと表情いっぱいだったじゃん。なのに今は、ずーっとおんなじ笑顔ばっか。あたしは昼休みの葵の方が好きだな」
「そんな」
そんなことない。という言葉も出なかった。
しかし咲さんといえば自分の放った言葉も忘れたように、元気よく椅子から飛び降りる。
「んじゃ、かえろっか」
彼女の声は底抜けに明るい。
気がつけば、彼女はいつもどおりの表情に戻っていた。




