晩夏の出会い
この町、大山郡葭野町では春が来るにも一苦労なのだ。
と、私が知ったのは、この町に転居して数カ月後のことである。
(……暑いな)
外は春まだ遠い。全く真逆の夏の気温だ。
今年は9月中旬を過ぎてもまだ暑い。
左側の窓から差し込んだ残暑の熱が、私の左腕をちりちりと焼いて嫌になる。
窓の外には、都会では信じられないほど広いグラウンドがあり、陸上部が元気よく駆け回っていた。
運動全般を苦手とする私からしてみれば、この温度の中で走り込みをするなど信じられない愚行だ。
そんな陸上部の声に混じって、たどたどしいギターの音が聞こえる。
(あ、これ。サイモンとガーファンクルだ)
隣の教室で軽音楽部か吹奏楽部が練習をしているのだろう。
音色はたどたどしいが、ばらついていた音が少しずつ一つの音にまとまっていく。
名前は知らないが、確かサイモン&ガーファンクルの曲だった。
自分を捨てた両親の趣味が洋楽だったせいか、私は洋楽に少しだけ詳しい。
音楽の良し悪しは分からない。でも静かに始まり、こらえきれないように盛り上がり、そして静かに終わる。その曲の感じは嫌いではない。
(タイトルくらい、覚えておけばよかったな……なんていう曲なんだろう)
今流れている音も、けして悪くはない。
楽器に触れない私から言われても、嬉しくもないだろうけれど。
「まったく、がしゃがしゃとうるさいったら」
……突然、隣から甲高い声が響いて、私は思わず拳を握りしめた。
(気を抜いちゃった。ちゃんとしなきゃ)
そして急いで生真面目な顔を作り、唇をきつく結ぶ。
恐る恐る隣に視線を送ると、叔母さんが暑そうにハンカチで顔に風を送っている最中だ。
「先生、お話の途中で申し訳ないのですけど。ここはエアコンとかありませんの? あらそう……無いのね。だから扉も開けっ放しで? いえ、ねえ。今の時代はどこの学校にもエアコンがあるのものだと思ってましたので」
「あの、その……こればかりは私達にも、どうにもこうにも……いや、エアコンの話もですが、その前のお話も、です」
目の前には、頭がつるりと禿げ上がった担任。その隣には穏やかな顔をした教頭先生。
手するファイルには『葭桜女子中学校 2年生名簿』と書かれていた。付箋がちょろりと貼られた箇所に私の名前があるのだろう。
二人は額の汗をしきりにハンカチで拭いながら、叔母さんをこわごわと見上げていた。
そして視線に気づいたのか、救いを求めるように私を見る。
「水底さん、質問があればどうぞ」
「……あの」
久々に出した声は掠れていた。
よく考えれば、この教室に呼ばれて20分。私は「あ」の一言さえ発していない。
「さっきのお話……私が、選ばれたって……その、春を呼ぶ……」
「葵ちゃん、嫌なら嫌って言えばいいのよ」
しかし、私の言葉は30秒ももたず、叔母さんの甲高い声に塞がれる。
叔母さんはいつだって悪気はない。ただ、空気を読まないだけなのだ。
「あなただって娘がこうなってみればわかりますよ、そうでしょう?」
叔母はいつもよりも化粧が濃い。愛用しているフランスの化粧品が汗に混じって濃厚な香りを放っている。
「可哀想な葵ちゃん。こんなに小さくてまだ中学生なのに」
その香りにぎゅうっと抱きしめられて、私はむせそうになった。同時に、目の端にピンク色の光がきらめく。
「それなのに……虫がつくなんて」
と、叔母さんは、声を震わせそう呟いた。
まるでその名前を口にすることさえ、嫌がるように。
白色のブラウスの上……具体的には肩のあたり……そこに、ピンク色の小さな虫がちらちらと飛び回っている。
しかしこれを『虫』と呼んで良いものか、どうか。
それはただのピンク色の光。淡い木漏れ日が丸まれば、こんな光になるに違いない。
(眩しい)
私は光を横目で見つめ、眉を寄せる。
大きさは1センチ程度だが輪郭も本体もピンク色に光っているため、形はぼやけている。
羽音のような高音の響きが聞こえるが、羽根は見えない。
間近で見つめても、光る小さな粒のようにしか見えない。
それが複数匹、私の肩から首、頭の周囲を元気よく飛び回っているのだ。
光は一つになり、散らばり、またくっつく。だから実際の数さえも分からない。そもそも生き物なのか、どうかさえも。
「今日の朝にこんなものがこの子の肩にね、出てきたんですよ……それが町の伝統なんだ、なんて言われましてもねえ。ね、先生? 虫なんて、女の子の体に! 女の子は虫が一番苦手なんですからね。ね、葵ちゃんも嫌よね?」
「あ……大丈夫です。私は……」
私は香水の香りで咳き込みそうになるのをこらえ、顔をあげた。そして口角をきゅっと持ち上げ笑顔を作る。
とっさに笑顔を浮かべるのは、得意中の得意だ。
そして頭の中で考える。
……過酷な運命を受け入れる生真面目な少女なら、こういう時どんな言葉を紡ぐだろう?
「虫なんて、ちっとも怖くないです」
実際こんな虫、怖いとは思わない。
虫と言われれば虫なのだろう。しかし、形がはっきりとしないので不気味さはない。おかげでそこまで嫌悪感はない。
(……でも、これのせいで目立つのは、やだな)
と、私はそっと目を閉じた。
ピンク色の光は網膜を刺激する。それは春の日差しによく似た光だ。
眩しくて、眠くなる。
「あの……お母様」
担任は禿げ上がった頭に浮かんだ汗を拭いながら、こわごわと叔母さんに声をかける。
「母親じゃありません。事情があってこの子の母親代わりをしていますけれど」
(……高い声。嫌になる)
膝に置いた拳をきつく握り、それでも平然とした顔をしてみせた。感情を押し殺すことは昔から慣れているのだ。
「先生、私どもも一ヶ月前にこの町に越してきたばかりで、こんな奇妙な……失礼。変わった風習を聞いたばかりですので、すっかり気が動転してしまって」
叔母さんの声は相手に有無を言わさない勢いがある。
そのため、この年代の男性陣たちはタジタジになってしまうのだ。身内でも叔母さんに逆らう人はいない。
だから彼女はまるで女王様である。
「まあご存じないのであれば驚かれるのも無理はないかと思いますが……」
担任がぼそぼそと……しかし誇らしげに語ったのは、この町が誇る秘密の儀式である。
大山郡葭野町。
東京から特急に乗れば、数時間。
清流と穏やかな山里が自慢のこの町には、ちょっと変わった儀式がある。
「春を呼ぶ虫……春蟲、春の虫、桜虫……それとスプリング……なんだったかな……まあ我々は好きに呼んでます。いわゆる研究者が付けたような、小難しい名称もあるようですが、我々はそうは呼びません。そもそも本格的な研究が始まったのはここ10年ほどのことでして。昔からこの町に……夏の終わりから春の間まで出てくる虫です」
この虫は夏の終わり頃、どこからともなく現れて10代の少女に取り付く。
取り付くといっても恐ろしい話ではない。
「まあ……肩に、頭に、ひたりと寄り添い、離れなくなるんです。今のように」
と、担任が私の肩をじっと見つめた。
朝からずっと私の肩にまとわりつくピンクの虫は、ずっと忙しそうに飛び回っている。縄をつけてるわけでもないのに、けして離れない。
髪か肩、耳の後ろ。そんな所を飛び回り、振り払っても逃げてもこの虫はついてくる。
(本当に光みたいだ)
そっと手で払いながら私は考える。触れても感触はない。差し込む光に触れたような、一瞬の暖かさがあるだけだ。
しかし『それだけですよ。害はないですよ』。と言われて、『はいそうですか』と納得する人間は少ないだろう。と私は人ごとのように考える。
実際、現実主義の叔母さんは血管でも切れそうな顔で担任をにらみつけている。
「毒もなければ匂いもしませんし、もちろん噛みつきもしません。見た目はただ光るだけの小さな粒ですから。怖いことはありません。あ、それに」
この町で生まれ育ったという担任は必死に言葉をつむぎ、手を叩く。
「餌もトイレの世話も必要ないですし……」
担任は笑いを取ろうとしたのだろう。しかし笑ったのは教頭先生だけで、叔母さんは腕を組んだまま微動だにしない。
それを見て、彼は咳払いを一回。慌てて言葉を続けた。
「この虫が誰につくかは、まあ虫次第。実際のところ、誰にもわからんのです。といってもこれまでのデータ上、虫が選ぶのは中学生か高校生の女子のみ。虫が現れるのは夏の終わりの今頃か秋の頃。それから春が始まるまでの間。虫がついた子は、虫憑きと呼ばれます。ええ……言葉は悪いですが、幽霊が憑く、憑依する、の憑く。ですな」
憑く、という言葉に叔母さんの肩が揺れた。非常識なこと、不気味なことが何より嫌いな叔母さんである。
「で、どうなるんですか? まさか一生このままなんて……」
「桜虫の憑いた子は……」
春を呼ぶ儀式を行わなければならない。と、担任は厳かにそういった。
この町の奥には大きな山がある。
虫が憑いた少女は冬の終わりの頃に山へ登り、その頂上にある桜の木に虫を返す。虫を返すことで桜が咲いて春の風が吹き、春が訪れる。
そうしなければこの町には春はこない……そう、信じられている。
「まあ神事のようなものですな。よそから来られた方は驚かれますが……」
沸騰しそうな叔母さんを前に、担任と教頭は言葉を続けた。
「町の人間からすると、名誉なことでして。昔から娘に虫が憑けば、その、一家総出でお赤飯なんかを炊いてですな、親戚まで呼んでお祝いをするくらいでして」
「ええ。そうなんです。虫を返す日は町の新聞社が来ましてね。家族写真なんか撮ってもらって翌日の一面を飾ったりなんか……」
緩やかに流れるサイモンとガーファンクルが不意に止まった。
同時にチャイムが鳴り響く。
(下校の時間)
私はちらりと、視線を廊下に向けた。
隣の教室から明るい顔の女子たちがきゃあきゃあ言いながら飛び出し、やがてこちらの様子に気づいたか互いをつついて口を閉ざす。
彼女たちの背中で揺れるギターケースだけが、夕日の中で眩しく光っていた。
(……いいな)
私の心のどこかに小さな針が刺さったようだ。その針は小さいくせにぐいぐいと、私の痛いところをついてくる。
友人同士の何でも無い会話。
部活動と、みんなで帰る道のり。
夕暮れの廊下を、ふざけながら歩くこと。
……誰もが楽しむ普通の学生生活を、私は歩んだことがない。
「しかし引っ越してきてすぐの、その……よそから来られた子に虫が憑いたのは初めてで、我々も、その、何がなんやら……」
廊下につながる扉を閉めながら、彼らはため息をつく。
(バカみたい)
……と、私は心の中で呟いた。しかしそんな感情、微塵もみせずに神妙な顔をしてみせる。
今、私に大事なのは「困っている」という演技だ。
怖がりすぎてもいけない。
無表情でもよくない。
この場合『普通』の女子中学生が見せる『普通』の表情は、困ったように固まったまま、じっと大人の意見を求める……そんな顔のはずだ。
(春を呼ぶ? 季節なんて放っておいても変わるのに)
私は心の中でもう一度、悪態をつく。
(ばっかみたい)
季節はくるくる回るのだ。人が眠っていても起きていても、春夏秋冬はいつでもやってくる。
それを証拠に、私が悲しかったときも、辛かったときも。一切構わず、春も夏も秋も冬も来た。
虫が春を呼ぶなんて聞いたこともない。
しかしピンク色の虫は実際、私の肩に現れたのだ。
今朝、学校の門をくぐった瞬間にピンク色の光が目の前に現れた。
払っても息を吹いても離れない。焦って保健室へ駆け込んだ途端、具合が悪くなり夕方まで寝込み……目が覚めると保健室に叔母さんが駆けつけていたというわけだ。
さぞ、大騒ぎをしながら来たに違いないと、うんざりする。
叔母さんは糊のきいた真四角の紺色ハンカチで汗を拭い、不満そうに口をとがらせた。
「先生。葵ちゃんはこれまで、一度も学校を休んだこともない真面目な子なんですよ。それが一日中保健室で過ごすなんて……虫のせいで具合が悪くなったとしか思えません」
「まあ、人によっては具合が悪くなることも……春を呼ぶための神事ですので」
「まるでおとぎ話ね。そんなことあるわけないのに……」
叔母さんが大げさなため息を漏らしたので、私から笑顔の仮面が外れそうになる。
(余計なこと言わなきゃ良いのに)
私だって叔母さんと同じ考えだ。虫を山に返しても返さなくても、季節が巡れば春は来る。
しかし、私は口にはしない。信じている人の前でそんなことを言うのは恥ずべきことだ。
まだ中学2年の私にだって、そのくらいの分別はある。
「……それと……実は通常は一人しか選ばれないのですが、実は今年はもう一人」
叔母さんの口撃にもくじけず、担任が言葉を続けた。
その声が終わるより早く、私にまとわりつく虫がぴょん。と跳ね上がる。
まるでそれは喜びと楽しさを体現したような動きだ。小さな子供が跳ね上がるような、そんな無邪気な動き。ピンクの鱗粉が目前をちらちらと舞う。
虫からは……甘い……春のような香りがした。
「あっれー」
虫が跳ねた途端、軽い声が響く。
私は思わず、腰を浮かして教室の奥を凝視した。
奥の扉が音をたてたのだ。
「なになに。二人目って、そこの子?」
白い足が廊下から引き戸に差し込まれ、器用に重い扉をこじ開けはじめた。
無作法を死ぬほど嫌う叔母さんは、それだけで卒倒しそうな顔で額を押さえる。
「挨拶のとき、あたしも呼んでって言ったじゃん。なんで先に始めちゃうの~?」
続いて扉から覗いたのは、眩しいくらいの金色……金色の髪。
それを見て、担当が咳払いをする。
「おい、花守。足で開けるなとあれほど」
「やったあ。クラスメイトじゃん……だよね? 転校生の子だ。えっとぉ、名前はぁ……水、うん。水がついてたよね」
担任の小言など聞こえないように、金髪の女の子が教室に滑り込んできた。
そして名簿を無遠慮に取り上げると、私の名前を呼ぶ。
「みなぞこ……あおい? きれーな名前だね」
肩にかかるゆるやかな金色の長髪は、生まれつきではないはずだ。
それを証拠に、汗で首筋に張り付いた短い髪には、黒の色が斑に残っている。
制服のスカートは驚くくらい短い。なのにシャツは長袖。
袖は長いくせに、胸元はゆるやかに開いている。そんなシャツの胸元から、白い鎖骨が浮かんで見えていた。
顔には派手目の化粧が施され、特に唇は真っ赤だ。まつげはマスカラがこってり塗られて、ぴんと天を向いている。
目の淵が青い、と驚いたがそれはアイシャドウのせいだろう。こってりと青くぬられたまぶたは、夏の海みたいにキラキラと輝いていた。
(……ああ)
私は表情を作ることも忘れて、愕然と目を見開く。
目の前に立っているのは、私が最も苦手とする人種だ。
すなわち、派手で、明るくてクラスの中心にいそうな、そんな女子。
しかし、彼女の肩にもまた、ピンク色の虫が踊っている。
彼女はにこりと微笑んで、その虫をつん。とつついた。
「あたし、花守咲。はーなーもーり、さき。二人目の桜虫憑き。春まで一緒にがんばろーね。あおっち」
向けられた笑顔は、私にとって実刑宣告と同じだった。




