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ただいま、満月先生

 古びたオリーブ色の電車から降りた瞬間、山肌から冷たい風が吹き付けてくる。

 急激な温度差に、葵と咲は同時に震えた。

「うわあ……やっぱり寒い」

 葵は一瞬で冷えた指先を合わせて、そっと息を吹きかける。

 見上げれば、空はきれいに晴れ上がっていた。それなのに風ばかり冷たいのだ。

 最近は仕事でもプライベートでも空調の整ったところで過ごすことが多い。

 子どもの時に味わったあの冬の寒さは、遠い遠い過去の話。外はこんなに寒かったのだな、と葵は縮こまる。

 が、咲は楽しそうに思い切り伸びをした。

「でもやっぱり、いいところだよね、このあたり。すっごい、いい匂いする。これ、なんだっけ」

「土と緑の匂い、それと……」

 鼻の奥まで届くその香りを、葵は目を閉じて吸い込む。

 終点までくると空気がまるで違う。ここに空気に季節ごとの味があるような土地だ。

 土と緑の香りの中に、甘い匂いを嗅ぎつけて葵は思わず咲の腕を掴む。

「あ……春の香り」

「それだ!」

 咲は大きな目をさらに大きく見開いて、笑った。その顔を見て、葵も思わず吹き出してしまう。

 彼女の笑顔は、出会ったときからちっとも変わっていない。まるで花が開くように笑うのだ。

「やっぱり、咲もそう? 私ねあの日から、春の匂いがわかるようになったの」

「そーそー。すごかったよね。酷いときは匂い酔いするくらいで。日本離れてすっかり忘れてた」

「私も。昔は東京行ってもどこ行ってもすぐにわかったのに。なんで忘れちゃってたんだろ」

 気がつけば電車はガタガタと音をたてて去っていく。電車が去ると、その向こうに見えるのは広々とした田園風景。逆向きには山に繋がる道がある。

 まだ冬の名残を残す田畑では、小鳥たちが呑気に地面をついばんでいた。

 あぜ道を見るとお年寄りたちがのんびりと歩き、ここだけ時間の流れが柔らかい。

 思わずその風景に見惚れていた二人は、それに気づいて互いに苦笑する。

「そろそろ行こうか」

 荷物を整え、葵たちはゆっくりと改札に向かって歩き始めた。

「そういえば、お父さんたち仕事を定年退職したらこのあたりに越して喫茶店でもしたいなあって言ってた。最近は結構本気らしくって、お店のやり方とか聞いてくるもん」

 ぐっと年老いた両親……叔父夫婦を思い出しながら、葵はつぶやく。年老いても彼らは相変わらず仲がいい。

 幼い頃は叔父が叔母に遠慮している。と思っていたが、全然違う。二人は異なる欠点を補いながら暮らしているのだ。

 春を呼んだあのあと、戸惑いながら家に戻った葵を最初に抱きしめたのは叔母だった。

 お塩とチーズのクッキーを勉強したのよ。と言いながら、相変わらず甘いクッキーを作ってくれた。

 葵の話を静かに聞いてくれたのは叔父だった。

 冬、会いに行った両親に冷たくあしらわれ泣いてしまった葵の手を握ってくれたのは叔父で、叔母で、そして咲だ。

 二つしかない自分の手を、三つの手が握りしめてくれる。それに気づいたとき、葵の心のもやもやは、綺麗になくなってしまった。

 そして中学卒業のとき、叔父夫婦は葵を正式に養子にする。と宣言した。

 お母さん、お父さん。やっとそう呼ぶことができたのは、高校卒業のとき。

 葵や叔母さんにつられて咲まで一緒に泣いてしまい、一晩でティッシュケースを一箱使い切ってしまった。

 それから葵は、ずっと二人の娘だ。

「喫茶店、いいアイデアじゃん。叔母さんケーキ作るの上手だもん。叔父さんのコーヒーも美味しいし、うまくいきそう」

 大きな荷物を引っ張りながら、咲はよだれでも垂らしそうな顔でいう。

「あ~言ってたら叔母さんのめちゃ甘ケーキ食べたくなってきちゃった。あの生クリームの上にチョコソースかけたケーキが最高に美味しいんだよね。薔薇の形のクッキーも!」

 無類の甘いもの好きの咲と叔母は意気投合してしまい、今では娘である葵を無視してメールの交換なんかをしているらしい。

 一方、咲の祖父は二人が高校生のときに亡くなってしまったが、叔父たちが葬式などを取り仕切ってくれた。

 今ではもう一人の娘のようなものだ。と、酔った叔父がそう言った。あの言葉はきっと、本心だろう。

「その辺りは大丈夫。お母さん、咲が帰ってくるって聞いて昨日からめちゃくちゃお菓子作ってるんだって。うちの家に来るでしょ?」

「もちろん! 食べ尽くしちゃうかも」

 咲はいたずらっぽく笑う。

「それが終わったら、あたしんちの墓参りだよ、葵。やること一杯で寝る暇ないかも」

「だめだよ。睡眠は大事って習ったでしょ」

 大きな荷物を引っ張るうちに、電車はもう遠く線路の向こう。きっとまた、町に戻って再びここへと帰って来る。

 この駅で降りたのは二人だけ。この時間は駅員もいないのでホームはただただ、静かだ。

 狭いホームを見渡して、咲が眩しそうに目を細める。

「あたしが最後に来たのは……5年前かな? 変わってないじゃん」

「ね、言ったでしょ。私も3年前に帰ったときびっくりしたもん。ねえ、やっぱりこれからは毎年帰るべきだよ。東京からたった3時間半だもん」

 葭駅の駅舎は、その風流な名前にぴったりな淡いグリーンの壁紙が採用されている。

 くすみピンクのベンチに、白い猫脚の椅子。丸みを帯びた天井にはシャンデリア風のライト。

 しかし古びた券売機、アスファルトの床はボロボロで、葵と咲は微笑みを浮かべた。

 20年前、彼女たちはこの駅舎が世界の最終地点だった。

 そして20年前、彼女たちはこの駅舎から旅立った。


 人の気配に顔を上げれば、駅舎の入り口に老女のシルエットが見える。杖を手にしているが、背はしゃきりと伸ばされ凛とした空気が漂っていた。

 咲はだらしなくカーディガンをまくりあげたまま、右手を振りあげる。

 傷跡は完璧には消えなかったけれど、それでも彼女はもう右手を隠さない。

 葵ももう、闇に怯えたりしない。

 二人は駅舎の入り口に駆け出しながら、子どものように明るい声を上げる。

「……ただいま、満月先生!」

「おふたりとも、お帰りなさい。変わらずお元気そうでなにより」

 昔よりは低くなったが、懐かしい声で彼女は言う。

 彼女の肩には淡いピンク色の粉が散っている。葵はそれを、懐かしむようにじっと見つめた。

「先生。今年、春を呼びました?」

「ええ、2日前。今年も春は来ました」

 彼女は二人の手に手を差し伸べ、微笑む。

「まもなく、山から春が広がりますよ」

 その指の先、まるで奇跡のように桜の花びらが一枚、散った。

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