暗がりからの第一歩
「ああ、葵ちゃん!」
静かな家の中、叔母さんの大声が響き渡った。
その声を聞いた瞬間、私の体が一本の木みたいに固まってしまう。
「無事で良かった! 先生に相談しても埒が明かないし……駆け回ってやっとここの場所がわかったの!」
叔母さんはまるで叫ぶみたいに大声をあげて、家の中に足を踏み込んできた。
入ってこないで。と、私は思わず叫びそうになる。
眠っていたはずの咲が起き上がり、不思議そうな顔でこちらを覗いているのだ。
私はその視線に気づかないふりをして、慌てて顔をそらした。
(……見ないで)
肉食獣に絡まれた、あの時より恥ずかしい。私は首も耳も、一気に赤くなるのを自覚した。
「おば……さん」
「葵ちゃんは風邪引きやすいのに、こんな山の奥で……」
「ここを管理しております。満月と申します」
震える私の背を優しく撫でたのは、満月先生の温かい掌だった。
ワンピースの裾が柔らかく翻るのを見て、私はほっと息を吐く。
そして情けなさを押し込んで、満月先生の後ろに隠れた。
「あなた方、なぜ桜が美しいと思いますか」
「え……どちらさま……」
「厳しい冬をこえるからです」
満月先生はいつだって姿勢が良い。まるで地面から垂れた一本の氷柱のように、まっすぐ姿勢を崩さず彼女は入り口に移動した。
そして叔母さんが開けっ放しにしていた重い扉に手をかける。
「失礼。このように厳しい冬ですので、扉を閉めさせていただきますね」
扉が閉まる……と、同時に吹雪の音が遠ざかった。
「冷たい冬であればあるほど、桜が綺麗に咲くのは不思議なことですね。私は人もそうだと考えています」
叔父さんと叔母さんは満月先生の空気に飲まれたように、じっと口を閉ざしている。その姿を見るうちに、私の震えが収まった。
(いつもより、目がよく見える気がする)
いつもより、呼吸ができる。
いつもより、息苦しくない。
「叔父さん、叔母さん、私」
私は一歩、足を前に出す。
……しかし、その瞬間。雪崩れる音が響いて、部屋が一気に闇に包まれた。
「停電!?」
叔母さんが悲鳴を上げる。そしてその顔も、体も、暗がりの中に一瞬で掻き消えた。
……どこかで電気の線が切れたのだ。
(停電だ)
同時に私は口を押さえて固まった。
山の中にあるこの家は、電気が落ちると薄暗さに拍車がかかる。
さらに猛吹雪が太陽を隠して、そこは闇一色。
それは私の大嫌いな……。
「山奥なんて不便で面倒な場所! こんな所に葵ちゃんをおいておくなんて……」
叔母さんの声が暗がりの中から聞こえる。
立っていられなくなり、思わずその場に座り込んだ私の体を受け止めたのは満月先生だった。
「葵さん、大丈夫ですか?」
「だい……」
大丈夫です。と言いかけて、言葉がでないことに気がつく。まるで陸に打ち上がった魚だ。ぱくぱくと口は動くのに、声がでない。
満月先生はそれに気づいたように、私の体をそっと抱きしめた。
黒いワンピースの柔らかさに包まれて、私の恐怖がじわじわと遠ざかる。
「呼吸をして。浅くでいいです。とん、とん、とん。水の落ちるリズムで。ゆっくりと」
とん、とん、とん。そのリズムで満月先生が私の背中を叩いた。
とん、とん、とん。目を閉じて浅く息を吸い込むと、まるで自分が水滴になったみたいだ。
氷柱から落ちる水滴。この家の台所、古い蛇口から落ちる水滴。
「深く吸えるようになれば、吸い込んで……ほら、ホットケーキの香りがしませんか?」
満月先生のリズムにあわせて息を深く吸い込むと、人参とホットケーキの甘い匂いが喉の奥いっぱいに広がる……そうだ。ここは、両親と暮らしたあの家じゃない。
「大丈夫、です」
そっと満月先生から離れても不思議と恐怖はなかった。
暗い部屋だが、温かい。
広い天井も、欠けた木の机も、大きな椅子も。ここには年月が温かい層のように重なって、光を放っているようだった。
それを感じると、私の体から恐怖がゆっくりと消えていく。
「ありがとうございます。もう平気……」
そして、ゆっくりと立ち上がろうとした。その時。
「なにか……明かりになるものはないの? ああ、ここにライターが」
叔母さんの声がまた聞こえた。はっと顔を上げれば、叔母さんがカバンからライターを取り出す瞬間である。
「叔母さん!」
小さな炎を見て思わず声を上げたのは、扉の向こうにまだ咲がいるからだ。
咲がこちらを見て、一瞬で顔色を変える。彼女は叔母さんの持つ小さな炎を見てしまったのだ。
「叔母さん、やめて!」
灯籠の小さな光でさえ恐れていた咲を思い出し、私は思わず叔母さんの手からライターを奪い取っていた。
「……葵ちゃん!?」
姪のはじめての反抗に、叔母さんの目が丸くなる。
怒っているのではない。絶望したのでもない。
純粋に驚いた、そんな顔で彼女は叔父さんと私を交互に見る。
「わ……私、春を呼びます」
そんな叔母さんの顔を真っ直ぐに見つめたまま、私の口から言葉が溢れた。
「呼びたいんです」
ライターに残る熱が指を焼いたが、不思議と痛みはない。ぎゅっと握ったまま、私は二人を見る。
「ここで、練習して、それで……絶対に春には家に、戻ります。春を呼びたい……呼びます」
人の顔を見つめて自分の意見を主張したのは、人生で初めてのことだ。
しかし、不思議と心は落ち着いていた。
胸を押さえると、鼓動が早い。口から心臓が飛び出しそうだ。寒いはずなのに汗が滲んで目に入る。ちりちりとしみる。
でも。
(……どこも痛くない)
私は小さく息を吐いた。
(痛くない)
それは口から漏れる言葉と本心が揃っているからだ。同じだからだ。
だから、どこも痛くない。
私は一度深く息を吸い込み、もう一度二人を見た。
「……勝手なこと言ってごめんなさい。でも私、決めたんです」
叔父さんと叔母さんの顔は、初めて出会ったときより少しだけ老けたように見える。
母から子供を押し付けられた時、この夫婦の間でどんな会話があったのだろう。と私は今更ながら思った。
負担を減らすため、嫌われないために。私はいい子を演じてきた。
しかしそれは駄目だったのではないか。私はそう思う。
……静寂は病だ。
「私、ほんとはいい子じゃないんです。多分、叔母さんたちが思っているより、ずっと、性格が悪くて、それで」
「葵ちゃん」
震える私の言葉を遮ったのは叔父さんだった。
「これ、荷物だ」
固まってしまった叔母さんを下がらせて、彼は一歩前に出る。
手に持っているのは、私の通学カバンと紙袋。
紙袋に詰まった日用品の隙間には、叔母さんの大好きなココアの缶も入っている。それを見た瞬間、胸の奥がきゅっと痛くなった。
「葵ちゃんがここにいたいなら、この方に春まで任せよう……実はね、そう話し合ってここにきたんだよ」
叔父さんの言葉に、私の首筋が赤く熱を持った。
受け取った荷物は重い。どんな事を考えて、二人はこの荷物を詰めたのだろう。
「叔父さん……叔母さん」
そうだ。両親が去ったあと、頭をなでてくれたのはこの二人だったのだ。
「……私」
「ちゃんと、話し合っておくべきだったんだなあ。おばさんも、私も、不器用すぎたな」
「私……」
戸惑う私の手を、叔父さんがぽん、と撫でる。冷え切った手だ。この手で、不慣れな山道を車で来たのだろう。
「叔父さん、私……」
「帰ったら話をしようか。お父さんのことも、お母さんのことも。葵ちゃんの気持ちも全部」
顔を上げると、叔母さんももう何も口にしない。ただ心配そうに私を見るだけだ。
おまかせします。どうか姪っ子を、よろしくおねがいします。
満月先生に深々と頭を下げる二人を、私はただぽかんと見つめた。
まるで夢のようだ。
一歩を踏み出した自分にも、二人の態度にも。
ただ手の中にある固いライターだけが、これは現実だ。と私に教えてくれた。
停電は、翌朝まで治らない。と、満月先生がそう言ったのは、二人が去って1時間後のこと。
時刻はじわじわと夜に向かい、部屋の中はどんどんと暗くなる。
倒木によって線が切れたのだ。だけど明日になれば直ります。と満月先生はいう。
怖いですか。そう聞かれて私は自然に頷いた。
山の中の一軒家。夜になると想像上に暗くなる。満月先生の隣にいるときはいいが、少し離れるだけで膝が震えた。
桜虫が必死に赤く光って私を慰めようとするが、それも一瞬のことだ。
そんな私をみて、満月先生が微笑む。
「では気を紛らわすために、晩ごはんの用意をしましょうか。暖かくて咲さんの健康になるようなものを」
台所で何かが跳ねる音が聞こえる。
それは私が前を向くための音だ。
「さて、始めましょう」
たくさんの懐中電灯を台所に転がして、満月先生は体にエプロンをつける。
台所のボウルには、まだイワシたちがいた。
薄闇の中に光るその姿をみて私は再度恐怖に襲われる。あれほど時間がたったのに、まだ魚は生きていた。
ボウルに張った水の中を数匹が泳いでいる。銀の瞳が私を見つめ、生々しい腹が白白と輝く。
「イワシは小骨まで頂きましょう。元気になれるから」
満月先生はまず一匹をつかむ。水でざっと洗い、右手には包丁を握る。
大きな庖丁が、魚のエラの隙間に押し当てられ一瞬で小さな首が切り落とされた。
それを見て、思わず目を閉じかけ……見開く。
満月先生はもう一匹、二匹、三匹。ゆっくりと、静かに首を落とす。イワシの小さな体のどこにそれだけあったのかと思うほど、真っ赤な血が溢れてシンクに溜まっていく。
それを見ても満月先生は動じなかった。銀色の体に指をねじ込んで開くと、冷たい水で丁寧に洗う。
続いてイワシの大きな骨だけ取り硬いところを切り落とせば、いつもスーパーで見るものと同じ形になった。
「さあ、葵さん。これをまな板の上で叩いてみてください。とんとんとん、とリズムよく」
ずしりと重い包丁を受け取って、私はイワシの身をゆっくりと叩き始める。骨も身も皮も、崩れ、粘り、一つの塊になっていく。
懐中電灯にぼんやり照らされたその塊は、私たちを生かすための食べものとなる。
満月先生は完成した塊を木のボウルに移し、いくつかの調味料と混ぜ込んだ。
「イワシは日本でもよく食べられますが、スペインやポルトガル、トルコでも食べられています。不思議ですね。世界でもこうしてイワシは多くの人のお腹を満たします」
恐る恐る満月先生の手元を見つめるが、そこにはもうイワシの姿はない。ただ、混ぜ込まれた一つの塊があるだけだ。
「世界はたしかにあるのだと、不思議に思いませんか。今はこの狭い場所しか見えません。でも実はこの空気のむこうに別の世界があって、別の世界でもイワシは食べられている……」
跳ね上がっていたイワシはもういない。
そのかわり、木のボウルの中に、柔らかいものが沈んでいる。
「入れるのは、味噌にごま。片栗粉」
満月先生はおおよそ、動じるということがないのだ。ボウルに混ぜ込んだ塊を丁寧に混ぜると、少しだけ微笑んだ。
「こうして混ぜれば、ほら。つみれです。これを入れた、トマトスープはいかがですか」
彼女は厚手の鍋にたっぷりのバターを落とす。いくつかのハーブと、生姜と、にんにくもだ。
「玉ねぎも入れましょう。そうだ、じゃがいも、これは絶対ですね」
まるでデクノボウのように突っ立っていた私は、満月先生の声に慌てて玉ねぎの皮を剥く。じゃがいもを洗い、芽をえぐって皮を剥く。
まだ指は震えているが、包丁を持つ手は動じなかった。
「お上手ですね」
野菜を炒めると、大地の匂いがする。そこに水とコンソメと軽く塩、トマト缶。最後にイワシのつみれをスプーンですくって落とす。
最後に満月先生は黒い液体を少しだけ鍋に入れた。そしてまるで世界の秘密をささやくように私に言うのだ。
「これは何だとおもいます?」
「……わかりません。黒い……ソース?」
「お醤油です」
満月先生の言葉に、私はぽかんと鍋を見る。和食なら分かるが、ハーブの入った洋風スープにお醤油が入るのは意外だった。
「お醤油をすこし入れると、酸味が消えます」
「お醤油で?」
「実はお醤油はびっくりするくらい旨味成分が多いのです」
やがてイワシのつみれはふっくりと柔らかくなり、赤いスープの中をぷかぷかと泳ぐ。
そこに死も悲壮感もなく、美しく美味しそうなものだけが残された。
(……お兄ちゃん)
死んだものをみると、私はいつも兄を思い出す。
そして同時に、お母さんの言葉も蘇る。
薄情者。と、お母さんは私をそう罵った。
(薄情者の私が、どうやって虫を返せばいい?)
私はずっとそんな事を考えていた。完全にその思いが消えることはない。
しかし、後ろ向きの考えは少しずつ溶けている……そんな気がする。
「葵さん、まずはこれを」
満月先生が小さな皿に、スープを注いでくれた。デコボコとしたイワシのつみれも一緒に乗っている。
皿を受け取ると香りのよさに腹が鳴った。
こんなに心乱れても、食欲は刺激されるのだ。泣きそうになり、唇を噛みしめる。
「まだ少し酸っぱいですが、温まりますよ。やけどしないように、ゆっくり味見を。味見は、作る人間の特権ですから」
促されるまま、一口飲む。
つん、と酸っぱいトマトの味が口の中いっぱいに広がる。追いかけてくるのは、ハーブの不思議な香り。
そして何より、柔らかいイワシのつみれの美味しさが胸をうつ。
噛みしめると体の中を、熱い濁流が流れていくようだ。
体に命が灯った、そんな気がする。
「先生。私、薄情なんです。それにちっとも優しくないんです。これまでの虫憑きの女の子より、ずっとずっと我儘で怒りっぽくて面倒くさくて」
台所の隅っこ、懐中電灯の光が届かない闇を見つめながら私はつぶやく。
これから先も、きっと闇を好きになることはない。
でも、立ち向かうことはできるはずだ。
「さっき叔父さんたちに言った……伝えたことは本当です」
首の周りを飛び回る虫を見つめ、私は満月先生を見上げた。
「全然、ちゃんとしてないし、まだ不安です、けど」
薄情者。
優しい言葉を落としてきたのね。
私を傷つけてきた言葉が頭の中に何度も響く。
しかしそんな言葉よりも、目の前でクツクツと煮えるイワシのトマトスープのほうが、ずっとリアルだ。
スープの音は私に「大丈夫」と言ってくれている。そんな気がした。
「……虫を返せると思います」
私の顔をじっと見つめ、そして満月先生は頷く。
「じゃあ、もうひとりの相棒も元気になってもらわないと」
そして彼女はまっすぐ、サンルームを見つめた。




