サウンド・オブ・サイレンス
それは、私が7歳の頃のことだった。
ずっと入院していた、兄が死んだのは。
兄が家に戻ってきた日のことを、私は今でも覚えている。
寒い冬の爪先が、家の中にまで忍び込んでくる。そんな冷えた日だった。
寒くて静かな夕暮れに、兄は宝物のように抱きかかえられて運ばれてくる。家の中をゆっくりと一周し、最後に仏間の布団にそっと降ろされても、私は彼が死んでいると気づいていなかった。
声をかけても応えてはくれない。しかしそれはいつものことだ。兄はだいたい、病院では眠っていたから。
触れた皮膚が冷たいのも、固くなっていく体も、不思議と平気だった。
白い木の棺桶に収まり、葬儀場に運ばれたときでさえ、幼い私はまだ兄が生きていると信じていたのである。
しかし、葬儀が始まり、誰かが火葬の話をした。
その瞬間、私は感じたこともない恐怖を味わったのだ。
兄が物体になる。柔らかい皮膚も髪も全部消えて、小さな骨になる。そして誰も見えない真っ暗なお墓の下に閉じ込められてしまう。
それも、永遠に。
それが死なのだ。と、急に自覚した。
狂ったように泣く母や、涙をこらえる父。ハンカチで顔を覆う親戚に囲まれて、私は一番遅く兄の死を自覚した。
驚きすぎて、私は涙を流せない。泣かない私を母が見る。父が見つめる。信じられないといった顔で、二人が私を見る。
悲しみなさい。泣きなさい。大人たちの目線が私を責める。
どうしようもなく、私は一人ぼっちだ。
そして私はただ「悲しくない」と、つぶやいてしまった。
「違うんです……私……兄の死が怖くて、怖くて、ただ、怖くて……怖いって感情ばっかりで」
母は私を、恐ろしいものを見るような目で見つめていた。
母だけではない。父も……かつて私にドレスを着せてくれた親戚のお姉さんさえも。
「ただ、怖いばかりで……悲しくなかったんです」
泣きなさい。と父が厳しい声で言った。しかし幼い私は首を振った。
悲しいのではない。怖いのだ。涙などこぼれない。早く家に帰りたい。もうここは嫌だ。
そして私は母の腕を引っ張って、わがままを言った。
「……こんなところ、居たくないって」
そう言うと、母が狂ったように泣きながら私を叩く。
驚いたけれど、それでも涙は溢れない。
葬儀の間、私の顔だけがずっと乾いたままだった。
その日から、両親は私を避けるようになる。
それは私が暗がりに捨てられる、数年前の出来事だ。
あの時の感情を、私は今になっても理解できない。
でも悲しくなかったのだ。驚くほどに、悲しくなかったのだ。
それは、きっと私がひどい人間だからだ。薄情な人間だからだ。
「……悲しく、なかった……んです」
気がつけば、満月先生が私の震える背をそっと抱きしめていた。
「すこし早いですが、昼ご飯を用意しました。今から長い昼になりますのでゆっくり時間をかけて食べましょう」
そういって満月先生が昼の支度を終えたのは、それから30分後のことだ。
机の上に並ぶのは、すりおろし人参を混ぜ込んだホットケーキ。
横に添えられたのは温野菜のチーズかけ。チーズはオーブンでしっかり焦がしているので、湯気がもくもくとあがっている。
それを見て、咲がにこりと微笑んだ。
「ホットケーキがあるってことは一週間経ったんだ。わかりやすいね、せんせー」
彼女は私を心配するように、ひたりと寄り添ったまま離れない。
その温度が心地よく、私はまた涙をこらえることになる。
満月先生が敢えてイワシの料理を作らなかったことも、咲が気を使ってくれることも。
悲しくて温かい。こんな気持ちは初めてのことだった。
「せんせー。赤いホットケーキって珍しいね。人参なの? 全然人参くさくないし、すっごい美味しい。温野菜もあったかい。あたし、ブロッコリー嫌いだったけど、チーズかけるとすっごく美味しい。あっつあつだし」
「寒いときには暖かいものを食べなくては。悲しいときは、体が冷えてるんですよ」
にこやかな二人を見ても、私の手はぴくりとも動かない。
しかし満月先生はそれを気にせず、テーブルに大きなノートを広げた。
「さて。今日はお昼が長くなると言いましたね。ランチミーティングならぬ、ランチ授業です」
真っ白なノートには大きな木が書かれている。ピンク色に塗られた小さな粒も。
それは桜虫の絵だ。
「生物が最も大切にしていることは何だと思いますか?」
咲の質問を質問で返し、彼女は万年筆をくるりと回す。
「じゃあ、葵さん」
急に振られた私は背筋を伸ばし、しどろもどろとなる。
「ご……ご飯を食べること?」
答えながら私は鼻をすすり、目を擦った。一人だけ感傷的になっているのが、妙に恥ずかしい。
「それももちろんありますが、人間を含め、生き物はなぜ生きるのでしょうか」
「……死……にたくないから?」
「正解」
死、という言葉は嫌いだった。
私は苦々しい言葉をコーヒーで流し込む……コーヒーは苦いので漏れかけた言葉を飲み込むことに向いている。
「生命や体は死にたくないからご飯を食べて、寝て、またご飯を食べる」
朗々と満月先生の声が響く。
ノートにご飯、寝る、ご飯。と綺麗な文字が書かれた。
それは生き生きとしていて、私は思わず吸い込まれそうになる。
「植物も同じ。死にたくないから太陽と水を取り込んで大きくなり、自分のタネや花粉を、できるだけ遠くに運ぼうとする。自分の陣地を広げるために」
授業で聞いたことのある言葉だが、満月先生の言葉は魅力的で世界が広がるようだった。私はコーヒーを飲むことを忘れ彼女の言葉に聞き入る。
「生命は生きていくためにいろんなことを考えるんです」
「桜……虫も?」
「ええ、もちろん。虫と呼んでいますが、動物というより植物に近いかもしれません。この山の奥にある枯れた桜の木からこの虫は生まれて、日本中を旅します。もちろん、途中で多くの虫が死にますが、彼らは数という力があります。リレーみたいに情報のタスキをつないで旅をするのです。最後に残るのが10匹前後。今ここにいる子は虫たちの最終走者といえます」
桜虫は自分の話をされていることに気づいたように、肩の上でじっと動きを止めていた。今朝よりも少しだけ、色が濃い。
「彼らは命の最期を見極めると、人に憑く。選ばれた少女たちに運ばれて木に戻って、そこで死にます」
その言葉にまた背に冷たいものが広がった。肩に止まった桜虫を庇うように手で包むと、彼らは構ってくれたことを喜ぶように飛び跳ねる。
(……死ぬために旅をするんだ……戻ったら死ぬって分かって?)
私は満月先生の温かいショールにくるまれたまま、じっと背を丸める。
咲がショールの隙間から手を差し込み、私の手をそっと握った。その柔らかな指を、私はただ握り返す。
「……でも先生、桜虫は死ぬんですね」
「一緒に旅をした仲間の記憶を運び、木に戻す。そして春が来て、また虫が生まれる。だから意味のある死。生きるための死です。そしてその最後の手伝いをするのが、あなたたち」
満月先生は虫憑き少女。とノートに刻んだ。
その文字を私は眩しく見つめる。きっと、虫が選ぶのは心根の優しい……咲のような子なのだ。私はきっと、間違いで選ばれた。
「私はきっと、間違いで……」
「桜虫が取り憑く相手がどんな子なのか、まだまだわからないことが多いようです。ただわかっているのは」
私の言葉を遮って、彼女は微笑む。
「優しい子」
とん。と彼女の手が咲の手に触れた。
「失うことを知っている子」
そして私の手に触れる。
やがて彼女は立ち上がり、壁際に置かれたレコードに針を落とした。
流れたのは、サウンド・オブ・サイレンスだ。
「歌詞の意味はわかりますか?」
低く唸るような柔らかい声である。
聞き取れるのは、こんにちは暗闇、古い友達。そして繰り返されるサウンド・オブ・サイレンス。
「わからなくて大丈夫。イメージで」
静寂という意味を持つサイレンスの響きだけが、耳に優しい。
咲がレコードに合わせて小さな声で歌い始めた。英語はむちゃくちゃだが、柔らかい歌声だ。
「口を閉ざして静寂の中に生きるのは、暗闇に生きるのと同じこと」
満月先生は手を伸ばし、私たちの手をそっと握った。
こんにちは、暗闇。私は歌詞を小さく呟く。
暗闇を恐れていたくせに、私はずっと暗闇の中で生きてきた。
言いたいことも言うべきことも言葉を全部飲み込んで生きてきた。
それを責められているようで、心の奥がぞわりと震える。
満月先生の手から逃れようとしたけれど、彼女の手は強く私をのがしてくれない。
「満月先生……」
「でも」
と、満月先生が私の目をじっと見つめる。
「口を閉ざさなくては、生きて来られなかった。そんな人生もあるでしょう」
柔らかい満月先生の言葉に、私の腕が震えた。
もう乾いたはずの目に涙が浮かんで、はたりと落ちる。
それを恥ずかしいとは不思議と思えなかった。顔を上げると、濡れた目の向こうに満月先生の笑顔が見える。
「そんな子に虫は憑きやすい、私はそう思っています。虫は暗闇に生きる女の子の声になる……ご存知でしょう? 虫たちがあなたたちの声を代弁してくれたことを」
音楽は静かに止まる。雪の落ちる音だけが、ゆっくりと響く。
そして先生は私をまっすぐに見つめ、微笑んだ。
「虫は少女の声となり、少女は虫を救う。共存関係です」
さて。とノートを閉じて、彼女は私を見つめた。
私の目の前のホットケーキはまだ一欠片も減っていない。
「葵さん、ここに来たときのルールを思い出して」
「ルール?」
「喧嘩をしたり気まずくなったりしても、必ずご飯を食べること」
「葵、すっごく美味しーよ。人参いっぱいで」
咲に促されホットケーキにナイフをいれる。
刻んだ人参が詰まった赤いホットケーキだ。まだあたたかい。
慌ててそれを噛み締め、飲み込む。
喉を抜ける瞬間、心地よい甘さが口の中に広がった。
「美味しいっしょ?」
「うん、それに」
飲み込んでしばらく経つと、体の底がふわりと熱を持つ。熱は指の先にまで広がっていくようだ。
「……あったかい」
これが生きるということなのだ。
「満月せんせー」
不意に咲が腕を上げた。
「虫返さない人ってこれまでいた? 返さないとどうなるの? ほんとにずっと冬なの?」
「一人いました」
「え、ヒーローじゃん」
咲の言葉に満月先生は微笑む。懐かしむように窓の外を見た。
「虫のことを好きになりすぎて、虫を死なせたくないと、わがままを言って。その年は、4月になっても吹雪が続きました」
「やば。ほんとに冬が終わらないんだ?」
「まさか。その年はそういう年だった、それだけです。返さなくても春は来ますよ。山の桜が咲かなくても、遺伝子で交配されたソメイヨシノは芽吹きます。季節が来れば桜は散って夏風が吹く」
「その人、返したんですか?」
「返しました。返すまでに大喧嘩しましたけど、最終的に……私と一緒に」
いたずらっぽく微笑む満月先生を見て、私は咲と目を合わす。
「満月先生……もしかして、二人居たっていう……虫憑きの」
里村先生が語った、過去にいた二人の虫憑き少女。そのうちの一人が……。
「満月先生なんです……か」
「ええ」
満月先生は優しく微笑む。その顔を見て私ははたと動きを止める。
なぜ、満月先生は一人きりでこんなところで暮らしているのだろう。
(もう一人は)
どこにいるんですか。といいかけて、私は口を閉ざす。
里村先生は言っていたはずだ。
一人は健在。もう一人は……。
(……亡くなったって……)
満月先生は私たちの顔を静かに見つめる。
「虫は生きなくてはなりません。大勢の仲間の命を継いで生き残った彼らは、必ず生きて山に行く必要がある。それを助けてくれる人間を彼らは遺伝子の奥で理解している。静寂という病を乗り越えられる少女を、本能で理解している。虫たちの中で共有された記憶が少女を選ぶのです。それによって選ばれたのが、あなたたちです」
春を呼ぶのに最もふさわしいと、虫たちが選んだのです。だから、自信を持って。と、満月先生の言葉を肯定するように、虫たちが二人の手を撫でた。
部屋に戻ったのは、夕暮れ近くのことだ。
満月先生はあのあと、歴代の虫憑き少女について語ってくれた。
あの穏やかな写真からは想像のできない、心の奥に苦しみを持つ少女ばかりだった。
まるで世界を一周したような心地よい疲れを抱いたまま、私たちはベッドに腰を下ろす。
「……ごめん、咲さん、私、取り乱して」
ようやく一息ついて、私はつぶやく。人前であんなに取り乱すなど、滅多にないことだ。
「先生にもひどいこと言っちゃったし……」
神社での取り乱しといい、咲の前ではうっかりと自分の姿を見せてしまう。
俯く私見て、咲が少し嬉しそうに微笑んだ。
「前、言ったじゃん。無理やり笑顔を作るより、あたしの前だと色んな表情いっぱいで、そっちのほうがずっといいって」
「……咲さんは、怖くないの?」
虫たちは死ぬために、山を目指すのだ。
それは想像していたよりずっと厳しい旅だった。死んで次の命をつなげる。言葉は美しいが、死ぬことには変わりがない。
咲は私の顔を覗き込み、笑う。
「怖いよ」
「怖い?」
「でも葵も怖いって分かって……」
咲は私に手をのばした。その手を掴んでみると、熱さに驚いた。
「え、咲さん、熱い」
「……安心したな」
咲の体がゆっくりベッドに沈むのをみて、私は慌てて立ち上がる。
「咲さん?」
金髪の前髪の向こう、咲の白い額が驚くほど熱を持っていた。
驚いて満月先生を呼び出すと、彼女は氷嚢袋に雪を詰めて咲の額にそっと置く。
「虫が憑くと心も体も弱くなるのです、葵さん、あなたも経験したでしょう?」
「でも私、ここまで熱が出たことはなくって……」
そっと咲の顔に触れると、びっくりするくらいに熱い。この一瞬で彼女の体温が一気に爆発したようだ。
風邪なのか疲れなのか。赤い顔で息を吐くのがつらそうだ。どうしていいのか分からず、立って座って、私はそわそわと部屋の中を行ったり来たり。
「どうしよう。お医者さんとか呼んでくるほうがいいですか?」
「おくすりで一晩様子を見ましょう」
「でも、もし夜にもっと熱が出たら……」
ここから麓まで相当離れている。でも私は元気だ。山なんて一気に駆け下りればいい。
外は薄暗くなりつつある。恐ろしいが、そんなことを言っている場合ではない。
「私、やっぱり行きます。風邪はひどくなったら肺炎になるって、叔母さんが言ってたし」
じっとしていられず、思わず玄関に向かった……その時だ。
「……え?」
手を伸ばそうとした玄関から激しいノックの音が聞こえ、私は驚き数歩下がる。
「おや」
それは雪の音ではない。明らかに人のたてる音。
揺れるドアを見て、私は動揺した。
……こんな無遠慮にノックをする人を、私は一人しか知らない。
「あの、満月先生」
「珍しい。お客様でしょうか」
「開けないで……」
濡れた手をエプロンで拭いながら、満月先生が部屋から顔を出した。開けないで、と願ったにもかかわらず、扉はあっさりと開かれる。
「葵ちゃん! 聞きましたよ。ここにいるって……」
扉の向こうで大声を上げる人を見た瞬間、私は予感があたったことに落胆した。
ここまで一週間、大切にあたためていた空間が一気に乱れた……そんな気がする。
「……叔母さん……叔父さん」
外は大雪だ。斜めに吹き付ける雪の前に立つ二人の姿は、彩度が高く、まるで現実のものとは思えなかった。




