大切なことはホットケーキだけ
「まだ驚いていますね」
固まる私たちを見つめ、その人は微笑む。
「さあ、こちらですよ」
その不思議な人は、まるで桜虫と同じくらい唐突に私たちの前に現れた。
彼女には何か不思議な力があるのだろうか。
彼女が歩き出すと、桜虫がその手の先に集まっていく。まるで彼女の指先から蜜でも溢れ出しているように。
しかしそんなこと、一つも気にもかけない顔で彼女は私たちの手を引っ張るのだ。
「ここからは少し駆け足になりますよ。足元に気をつけて」
「え……? あの、誰に言わずに?」
ふと気がつけば、彼女が向かっているのは神社の入り口方面ではない。
社の裏に続く細い道。そこを抜けると小さなドブ川が広がっていた。小さな橋を渡れば、その向こうは雑草の生えた道がまっすぐ続いている。
ぽつぽつと等間隔に作られた街灯だけが、地面を照らしていた。
その光を踏みしめながら、踊るように彼女は進む。空に彼女の名前と同じ満月が見えた。
あまりのことに私は暗がりの恐怖を忘れ、一歩ずつ前に進んだ。
「あの、満月……先生」
「少し早いですが、合宿に入りましょう。そのほうが良いと、私はそう判断しました」
呼びかけると、彼女は少女のような顔で前を指差す。
「さあ最終電車が来ます。あれに乗りますよ」
指の方向にあるのは小さな駅舎だ。
くすんだ緑とピンクに塗られた可愛らしい駅舎。何度も通った駅舎なのに、夜に見ると全く違う駅に見える。
「電車!?」
ちょうど一両編成の電車がゆっくりと滑り込んでくるところだ。
ガタガタと響く音はまるで現実味がない。
「あの、叔母が、先生が、神社の鳥居のところで待ってて……」
私が必死に止めても、彼女は気にもしない。
「叔母に、説明、しないと」
「なにを?」
満月先生は、きょとんと首をかしげて私を見つめる。
「事情を知ろうとしない方に、何を説明する必要がありますか?」
咲といえばぽかんと電車を見つめながら、やがて呟いた。
「……せんせー……電車、乗るの?」
「車でも行けますよ。でもね」
彼女は小さなカバンから3枚の切符を取り出して、私たちの手を引く。
そして木の改札をくぐり抜けた。
「今から全てが始まるのですから、電車がちょうどいいでしょう?」
滑り込んできた電車に乗客は一人もいない。赤いベロアのクロスシートが人工的な蛍光灯の下、まばゆいくらいに輝いている。
「電車の音は揺りかごの音ですから」
三人が座ると、電車が動き始めた。すべてがまるで夢の中のようだった。
私と咲は子猫みたいに寄り添ったまま。その上を桜虫が飛ぶ。
「冷えたでしょう。どうぞ、生姜紅茶です。温まりますよ」
と、満月先生が荷物から取り出したのは、大きな水筒だ。小さなカップに注がれたのは、琥珀色の柔らかい液体。
「生姜……紅茶」
「砂糖は?」
「は……い、えっと……いただき……ます」
砂糖はいらない。それを言うのにどれだけの勇気がいることか。いつものように頷いてシュガースティックを受け取りかけた私だが、満月先生の声がそれを制した。
「葵さん。不要なら不要と言って良いのですよ」
彼女の目は強い。怒っている目ではない。優しい視線なのに、力強い。
その目を見ていると、心がホロホロと蕩けそうになる。
見つめられたまま、私は手を止めた。代わりに紅茶の揺れるカップを受け取る。
「は、い」
「砂糖を入れるかどうかをあなたに聞くのが私の義務で、砂糖を入れたくないと声を上げるのがあなたの権利です。あなたは権利を遂行していいのですよ」
「じゃあ……なしで……大丈夫……じゃなくって、いらない、です」
「ええ、そうしましょう」
かたん。と電車が右に揺れた。左に揺れる。
手に持つ紅茶も、同じようにゆらゆら揺れた。
電車の中には誰もいない。ただオレンジ色の明かりがぼんやりと、車内を照らすだけだ。
「あたし、たくさんほしい」
「では咲さんは二本使いましょう。それで解決」
「……あの、先生、今からどこに」
「家です」
満月先生は何でもないような顔で言って、窓を見つめる。
窓の外は黒で塗りつぶしたような闇だった。
まるでこの世から、三人以外の人間が、消えてしまったようだ。
でも、あまりに現実感がなさすぎて、その闇は不思議と怖くない。
「……あ」
咲のポケットに入っていた携帯が、ぶるりと音を震わせる。しかし彼女はそれを押さえて振動を止めると、覚悟を決めたように紅茶を口にした。
私もそっと、カップに唇を寄せる。最初に感じたのはつんとした強い香りだ。しかし熱くて尖ったようなそのお茶は、私の中にするすると落ちて体を温める。
熱い紅茶を飲み込んだ私たちは同時に小さく息を吐く。それを見て、満月先生が微笑んだ。
「少し眠っても大丈夫ですよ。ひー、ふー、みー……」
そして、満月先生はゆっくりと指を曲げ、数を数えた。
「……緩やかな山を3つ越えた所が我が家です」
それはまるで魔法のように、二人の体にじんわりと染み込んだ。
目的の駅に付いたのは1時間あとのこと。
眠れるはずもないと思っていたのに、少し眠っていたらしい。私は電車の激しい揺れに目を覚ます。
たどり着いたのは、天井の高い駅舎だ。アンティークなランプがかかった駅舎には、古い書体で葭駅と書かれていた。
電車が音を立てて止まると、運転手がホームに降り立って頭を下げた。
終点で降りる乗客は私たちだけなのだ。
満月先生は外に出ると慣れた様子で車を拾った。
夜の道を走り、10分もすれば山の中。中腹部で車は止まり、そこから黄色い蛍光灯の灯る山道を徒歩で登って5分。
「……わ」
その家を前にして、私と咲は思わず足を止める。
山道の奥、突如現れたのは蔦に絡まれた大きな家だ。
魔女の家みたいだ。と、私はまずそう思った。
重い木の扉を開けると、丸木で組まれた壁が続いている。
中はまるで植物園のようだ。多くの観葉植物と、サボテンと、宙から吊るされた、乾いたハーブ。
最初は怯えるように髪に隠れていた桜虫だが、満月先生の家にたどり着くと嬉しそうに植物に絡み始める。それを見て、私は安堵のため息をついた。
虫たちが喜んでいるのなら、ここは正しい場所なのだ。なぜか、そう思える。
「……葵」
「咲さん……」
「まあ。まあ。まるで拾われてきたばかりの子猫のようですね。さあ、あなたたちもコートを脱いで。ハンガーはこちらですよ」
戸惑う私たちと違って、満月先生は平然としている。
コートでふっくらと見えただけで、脱いでみると細身だ。シンプルな黒のワンピースがよく似合っていた。
「今は何も心配することはありません。ああ、唯一心配なのは寝室ですね。まだお部屋の用意ができていませんので、今日はリビングにソファを広げて眠っていただきます。お部屋は明日また改めて」
「あ、の」
「ベッドは柔らかいので、ご心配なく」
「そうではなくって……あの」
私の手を握りしめていた咲の力が強くなる。私も咲の手を強く握り返した。
不思議と、それだけで強くなれる気がする。
「なんで、私達……こんなに早く合宿に……?」
「ねー先生。あたしたち、荷物も服も……全部あっちにおいたままだし、明日からここから学校に通うの?」
「質問が多いのはいいことです。疑問や質問は大いに結構」
満月先生は喋りながら床を占拠する植物を横によけて、大きなソファのリクライニングを倒す。
その上に大きな布団と、クッションを数個。それだけでそれは大きなベッドに早変わりだ。
彼女の腕が棚に置かれたレコードに触れる。と、針が落ちて、ゆっくりと音楽が流れはじめた。
(……サイモンとガーファンクル)
聞き覚えのある音楽だ。レコードから流れるせいか、CDよりもずっとずっと深く響く。
学校で聞いたときは寂しい曲に聞こえた。
しかし今改めて聞いてみると、これは月が地面に注ぐようなそんな音だ。
(サウンド・オブ・サイレンス……だったかな)
歌詞の意味はわからない。ただ伸びやかな歌声に私の心がすうっと落ち着いた。
満月先生はアンティークな腕時計をちらりと見て、少し驚くように目を丸める。
「ああ。思ったより時刻が遅くなりました。やっぱり細々としたことは明日にしましょう。まず今一番聞きたいことはなんですか?」
植物にベッド、それ以外にあるのは大きな木の机、古ぼけた木の椅子。
大きな冷蔵庫がぶうんと音を立てて、その上には年代物のミキサーや電子レンジが乗っている。
ガスコンロはまるでお店のもののように立派で、上には鉄でできた大きなフライパン、鍋、茶色いヤカンが重なっていた。
棚の上には英語のパッケージのクッキー、黒い紅茶缶。荒い駕籠の上には山盛りとなった野菜の数々。そのごちゃごちゃ感は、叔母さんの家を思い出させた。
「お……叔母に連絡しないと、心配するかも……しれません」
「ご家族と学校には、私から連絡をしておきます。服や日用品、学業に使う荷物は追って、届く予定です」
彼女は動じるということがないらしい。平然と微笑むばかり。
「合宿は確か、まだ先で……初めて会ったのに、なんで先生は……私達を」
私はもじもじと、床を見つめる。先程まで寒い神社の参道にいたのに、まるで夢のようだ。
まるで魔法にかかったようにここまで来てしまった。
私はこれまで常識的に生きてきたはずだ。
……知らない人についていかない。
……卒業するまでは養父母の常識に付き従う。
だというのに満月先生の指が、私たちに魔法をかけたのだ。そうとしか思えない。
「不思議ですか?」
満月先生は二人を簡易ベッドに座らせる。とん、と押されるだけで二人は柔らかいベッドに沈み込んだ。
ぴん、と張り詰めたシーツからは草のような青い香りがして、一気に眠気がまぶたを覆う。
そんな二人の上を虫が飛んだ。くるくると螺旋を描く。まるで桜の花が舞うようだ。
この異様な空間に、サウンド・オブ・サイレンスのギターだけが、ゆっくりと響いている。
「地上はさぞ息苦しかったでしょう。でもここなら息ができる。だから連れてきました。これ以上の理由はありますか? さあ今日はもう寝ましょう。すべての話は、明日です」
「ねえ、せんせー」
咲がふと声をあげた。
「あたし、別に連絡とかいいよ。爺ちゃんは入院中で、心配、かけちゃうし」
咲は抑揚のない声で呟くと、ソファベッドに顔を埋める。髪が、まるで黄金色の扇のように広がった。
「……あたしは……ほかに家族、いないんだ」
「咲さん」
立ち去ろうとした満月先生だが、咲の言葉に動揺も見せずに振り返る。
「では今から私達が家族です。一晩で一気に2人も家族が増えるなんて素敵なことですね」
満月先生は踊るように消えていく。残されたのは、大きなソファベッドに土の香りと植物の匂い。
そして服越しに伝わる、他人の熱。
「咲さん、どうしよう」
「葵、また咲さん。になってる」
「だって……急は切り替えられないよ。だって、色々あって」
「うん、色々あったか、ら」
私と咲は目を合わせ何かを言いかけ……同時に欠伸を漏らした。急な眠気が体を包んだのだ。
「……明日にしよう、全部」
繋いだ手を解くのも忘れて、私たちは静かに柔らかな布地に吸い込まれていった。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
翌朝、太陽の光が窓に差し込むと同時に、満月先生が部屋の前に現れた。
夜に見た時と同じく、黒のワンピース姿だ。ただ、今朝はワンピースの上から真っ白なエプロンを付けているが。
光の下で見ると、いよいよ年齢不詳だ。じろじろ見すぎないように気をつけて、しかし目が離せないまま、彼女を観察する。
襟足で跳ねる髪は白い。顔にはそれなりの皺もあるが、表情筋が固いのかそれほどしわくちゃでもない。
おそらく60代。里村先生より年上であることは間違いない。
それくらいの年齢の人間に触れ合ったことのない私は緊張のまま起き上がり、まだ眠る咲を慌てて揺り起こした。
満月先生は手早くベッドを元の形に戻すと、観葉植物たちを元の場所に置いて私たちの前に立つ。
そして彼女は言った。
「ここでのルールをお伝えします」
慣れない気温差に震える私と咲に、彼女が言ったのは概ね次の通りだ。
時間の感覚を取り戻すため、週に一度は必ず同じ料理を作ること。
異存がなければ、それはホットケーキにすること。
喧嘩をしたり気まずくなっても、ご飯を食べること……これは案外難しい。と、彼女は微笑む。
「なんでホットケーキなんですか?」
「美味しいからですよ。それにどんな飲み物にも合いますし」
満月先生は緩やかに微笑む。
やはり背筋が伸びたきれいな人だった。ぼうっと、私は彼女を見上げる。
(少し……まだ眠い)
夢では叔母さんに叱責され、叔父夫婦に捨てられるシーンを繰り返し見た。
焦って叔母さんに謝り、ひたすら追いかけた。しかしどれだけ走っても叔母さんには追いつけない。そんな夢。
そのせいで少し眠りが浅い。
しかし眠りこける咲の顔を見た途端、なぜだか全てがどうでも良くなり、今はもう叔母さんの幻覚も薄れつつある。
「葵さん、眠いですか?」
「だ……大丈夫です」
「まずは朝ごはんに。そのあともし眠ければ、少し昼寝を。今朝は最初のホットケーキです」
「……はい」
満月先生の顔を見るまでは聞きたいことは100もあったはずなのに、質問も疑問も消え失せて、今はホットケーキのことで頭がいっぱいになる……昨夜から何も食べていない腹が、きゅうと鳴ったのだ。
叔母さんの作る甘いホットケーキには辟易としていた。しかしここでのホットケーキは少し違う気がする。
「ホットケーキは、とてもいい食べ物です。簡単で、美味しくて、温かい」
満月先生は大きなボウルに3つもの卵とたっぷりの牛乳を入れる。クリーム色になるまでかき混ぜたあと、白い粉をフルイにかけて、中に落とす。
まるで雪が積もるように、美しい山が出来上がった。
ふくらし粉、と呼ぶ白い粉をさらにくわえて彼女はトントンとボウルの横を叩く。
そしてすり減った木のヘラで生地をリズムよく混ぜると、それはまるでドレスのヒダのような跡が残る綺麗な生地となる。
満月先生はふと気づいたように二人を見た。
「ああ。とても大事なことを聞き忘れていました。お好きな飲み物は?」
「……甘いの」
咲はまだ寝ぼけ眼のまま、つぶやく。
「甘いのなら、なんでも」
乱れた金髪は梳かさないと、まるでライオンみたいに広がるのだな。と、私はまじまじと彼女の頭を見つめる。
モジャモジャと乱れた髪の中に桜虫が絡みついて、心地よさそうに漂っている。まるでそれは巣だ。
さり気なく自分の髪をかき乱してみせるが、頑固なまでに直毛の髪はちっとも形を乱さない。
私の桜虫たちが、少し不満げに首筋をくるくると回るのがわかった。
「葵さん、あなたは?」
「な……なんでも」
「なんでも? 本当に?」
こん、こん、とボウルを混ぜる度にきれいな音が響く。重そうな鉄フライパンをコンロに下ろすと、咲が自然に身を逸らすように一歩下がった。
しかし、満月先生は特に何も言わない。代わりに私が前に出て、彼女の顔を見上げる。
「……コーヒー……です。あの、甘くない……ほうが」
「ブラックでも美味しい豆があります。ではそれにしましょう。咲さんのほうは、カフェオレにして。きび砂糖を入れるのが美味しいですよ」
「……はい」
「オーブンで焼くケーキもそれは素敵ですけれど。フライパンでゆっくり膨らんでいくホットケーキはいいものです」
満月先生は冷蔵庫からバター缶を取り出すと、熱の入ったフライパンに落とす。バターが広がり泡立ってきたのを見計らい、一瞬だけ濡れ布巾の上にフライパンを置いた。
じゅ、と音を立てて煙が上がる。もう一度フライパンをコンロに戻すと、今度こそ生地を落とす。
私は思わず、一歩近づいた。朝日を浴びて、ホットケーキの分厚い生地がきらきらと輝いて見えたのだ。
丸くフライパンの表面に広がった生地は、やがてゆっくりと立ち上がっていく。
ゆっくりと、クリーム色の生地が膨らんでいく。
叔母さんの作るホットケーキは、いつもせっかちだった。膨らむ前にひっくり返してしまう。そのせいで形が崩れてぐちゃぐちゃになる。
しかし満月先生は膨らむのをじっくりと待つ。その目は、一切フライパンから離れない。
「ホットケーキを作る時間は素敵です。まず、フライパンの前から離れられない」
丸い表面に、小さな穴がふつふつと開く。まるで生きているようだ。
ヘラで生地の下を支え、満月先生は小さく息を吸い込んだ。
「……そして返す時に無心になれる」
ぱたん、と音を立てるようにきれいにホットケーキがひっくり返る。絵に描いたように美しい茶色のホットケーキがそこにあった。
「できたぁ?」
「すごく……美味しそうだよ」
咲は観葉植物の隙間に逃げ込んでしまったが、香りは気になるのか少し遠巻きにこちらを見ている。
桜虫たちだけが、浮かれるように宙を飛び回っていた。
「せんせー、ここ窓、厚いね」
「三重にしていますが、それでももう少しすると冷えます。ここは特別に寒い場所なので」
じりじりと焼けるホットケーキを見つめたまま、満月先生が答えた。
彼女の言う通り部屋の中は暖かいが、外の風景は冷え切っている。
町の温度も寒いが、ここは山の中腹だから余計に冷えるのだろう。
「先生はなんでこんな寒いところで暮らすんですか?」
「桜の管理人ですので。虫を返す木はこの裏門を出て山道を超えた場所にあるんですよ。練習と同じだけの距離、同じだけの暗闇の場所……ちょっとだけ坂道ですけど。それに」
満月先生は皿を手に取ると、フライパンを揺すり、思い切り高くホットケーキを跳ね上げる。そして器用に皿で受け止めた。
「すぐそこに、私にとって大切な人のお墓があります。だからここに家を決めました」
満月先生が見ていたのは、三重にした窓の向こう。そこは鬱蒼とした森のような場所だった。
森と言っても雑然としているわけではない。
緑と緑が絡まる奥に、アーチ状の小さな小屋が見えた。ワイヤーで編まれた、可愛い小屋。夏にはバラでも咲くのかもしれない。そんな花の似合う、小屋。
それを見つめて、満月先生は肩をすくめる。
「一人だと寂しいでしょう?」
一人、その言葉が私に突き刺さる。
誰かにそう思ってもらえる墓の主は幸せだ……と、心の奥に少しだけ、妬みさえ浮かびそうになる。
「そうそう、ここは町よりもずっと冷えるので野菜の保管には注意すること。野菜が凍っていないか、きちんと確認を。それは咲さん、お願いできますね。そしてコンロ周りの掃除はかかさないこと。これは葵さんにお願いしましょう」
満月先生は相変わらず、大事なことを何も言わない。ただ黙々とホットケーキを焼き続ける。
最後に彼女はコーヒーの支度を手早く済ませ、木の机の上にホットケーキと三人分の飲み物を用意する。
硬いバター……それに金色に輝くはちみつもだ。
それは朝日を浴びて、驚くほどきれいに見えた。
「さあ、ホットケーキが焼けました。生地に甘みはないので、咲さんはバターとはちみつ。葵さんはバターだけで召し上がれ」
「は……はい」
「きっと、美味しいですよ」
さあ、食べましょう。と、彼女は言った。
これ以上、大事なことはないというように。
そして、それが三人の第一日目となった。




