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ひとりきりの晩秋

 両親のことを思い出したのは、久しぶりのことだった。

 私はぼんやりと、机に肘をついて頬を支える。

 朝からずっと、頬が熱を持っていた。それは、きっと、眠りが浅かったせいだ……余計なことを思い出したせいで。

「……さん?」

 7歳の私が葬儀で発してしまった不用意な一言が、家庭崩壊のきっかけになった。

 その事件で私の家庭にヒビが入り、12歳のときに完全に崩落する。

「みな……」

 両親が去ったことも悲しかったが、私の言葉に傷ついたまま5年もの間、家族で有り続けた事実のほうが悲しかった。

 あの一家は、私も含めて皆「優等生」なのだ。

「……ぞこ、さん……」 

 そして優等生をやめた両親は、私だけを残して去っていった。

 

「大丈夫? 水底さん」


「……! あ、ごめん」

 遠くから声が波のように響いている。それに気づき、私は目を見開く。気がつけば、目の前にクラスメイトが数人、不安そうな顔で立っていた。

 私は肘をついていた腕をおろし……そして瞬時に状況を理解する。

 ここは教室、時計の針は12時を指している。

 そうだ。ついさっきまで、社会の授業だった。

 どのページをどう進んだのか、もう記憶にもない。教科書は中途半端なページのまま、開けっ放しで机の上に放置されていた。

 桜虫だけが現実を思い出させるように、ぶんぶん飛び回っている。

 先生に見つかっただろうか。クラスメイトに見られただろうか。

 気持ちが焦り、心臓がどくどくと音をたてる。

(……授業、聞いてないなんて、はじめてだ)

 ここ一ヶ月、こんなふうに記憶が曖昧になることが増えてきた。

 気を失っているわけではない。ただ、気持ちが過去に吸い込まれる。里村先生が言うには、それも桜虫のせいだという。

 ……咲さんも同じように過去に吸い込まれているのだろうか。と、私は今日も空っぽな彼女の席を見つめる。

「ごめん……ね、ぼうっと、してて……」

「すごく苦しそうにしてて、それで心配になって、今先生も呼びにいこうと思ってたんだけど」

 心配そうに私の顔を覗き込むのは、確か前の方の席に座るクラスメイト。名前は……林といったか、松といったか。

(たしか、木に由来する名前だったはず)

 毎日見ているクラスメイトのはずなのに、記憶は曖昧だ。私は心のなかで苦笑を漏らす。

 私には、喧嘩をする陸上部を羨ましがる資格さえない。

(……だって、興味なんてないんだ。クラスメイトに)

 しかし、愛想笑いと真面目な振りは昔からの特技である。

「大丈夫。最近、なんだか、体がだるくって」

 私は曖昧に笑って、彼女たちを見つめた。

 真面目そうなその子達は、いつも小魚の群れのように固まって動く。それはきっと、意味のある行動なのだろう。特にサバンナみたいな、学校の中では。

「虫に憑かれてるといつもより体が動きにくいっていうもんね。ねえ、お昼一緒に食べない?」

 彼女たちはそう言いながら、恐る恐る私の隣に椅子を引っ張ってくる。

 手にしているのは小さくて可愛らしいお弁当箱。気がつけば、昼ご飯の時間だった。

「私のお姉ちゃん、三年前の桜虫憑きだったの」

「私も。お母さんの友達が、昔憑いてたんだって」

 彼女たちは口々に言いながら、私の周囲に椅子を引っ張ってきた。

 あっという間に周りがにぎやかになっていく。思わず浮きかけた腰をおろし、乱れる呼吸を整えた。

「水底さん、慣れてないのに憑いちゃったから、なにかできることないかなって……心配してたんだ」

 気がつけば教室は浮き立っている。

 今から45分の貴重なお昼休みだ。

 私たちにくだらない絡み方をしてきた肉食獣たちは、今やその権威を失ったように教室の隅っこでしょんぼりと肩を落としている。

 ……クラスの中でなにか動きがあったのだ。教室の空気をかすかに変動させるような。

 あんなに威張り倒していた生徒は小さくなって教室の影となり、ずいぶんと風通しがよくなっていた。

「クラスメイトで桜虫憑きが出たら助け合わなきゃいけないから」

「助け……」

「うん。先生がね。桜虫が憑いた人は冬になると、体が重くなるって」

「だから助けてあげなさいって」

 うん、と胸を張って彼女は私にいう。

 その言葉で私は瞬時に理解した……里村先生がなにか動いたのだ。

 桜虫憑きに優しくしなさい。なのか、いじめをやめなさい。なのか、何を言ったのかは分からない。

 ただ純朴な生徒をやる気にさせるだけの効果はあったようだ。

「もっと早くに声をかけたら良かったんだけど」

 彼女たちは羨望の眼差しで、私を見つめている……いや、桜虫を、見つめている。

「でも水底さん優秀だし。声をかけたら邪魔になるかなって」

「花守さんもいたしね」

「でも今日は特別つらそうだったから」

「そうそう。思い切って、声をかけてみたの」

 くすくす笑う。その声はいかにも明るい。

 ……健全だ。と、私は思わず彼女たちをまじまじと見つめる。

 その健全さは、私の心をちくちくと刺激した。

 弁当から甘い卵焼きを取り出し、かじる。まるで味がしない。

 彼女たちはきらきらとした目で私を見ている。私から何か素晴らしい一言が聞けるのではないか、そんな顔で。

 だから仕方なく、私はもごもごと言葉を探った。

「あの……私このあたり出身じゃないから、分かんないんだけど……そんなに桜虫憑きって、いいの?」

「えー。だって、そうだよ、自慢になるもん」

 一人が驚くように頬を膨らまし、楽しそうに言う。

「虫を返すとき、山に登るでしょ。その前にね、プロのカメラマンに写真を撮ってもらえるんだよ」

「しかも家族総出で。それが新聞に載ってね」

「友達に自慢できるし。おばーちゃん、喜ぶしさ」

 それに。と、一人が声のトーンを落とし、隣の女子を肘で突く。

「でね、近くにいたら……次は自分がなれるんだって。里村先生が」

 なるほど。と、途端に私は腑に落ちた。

 その瞬間、気持ちのどこかがすっと冷えていく。指先が、ちりちりと痛くなった。

「でも花守さんはちょっとね」

「……ちょっとね」

 木の名前を持つクラスメイトは、言葉の続きをおにぎりと一緒に飲み込んだ。

 彼女たちが見つめる方向には、咲さんの席がある。

 そこに彼女がいないと、小さな光が失われたようだった。

「花守さん、去年も気分が乗らないときは学校サボってたし、気にしなくていいとおもうよ。前の学校でもそうだったって、ウワサ」

「前の……?」

「花守さん、去年、転校してきたんだ。1年の夏? だったかな。結構中途半端な時」

「九州とか、遠い所から来たんだっけ……? こっちにお爺ちゃんの家があるからって……その時は髪、黒かったんだけどね」

「いきなり金髪になって」

 秘密を漏らすような低い声が行き交い、私は思わず頭を押さえる。

 私の知らない咲さんのことを、彼女がいないところで聞くのが恐ろしかった。

「あ……ごめん」

 息が苦しくなり、私は思わず立ち上がる。気遣うように、桜虫が揺れた。

 元気のない桜虫だが、相変わらず私の感情には敏感だ。

「やっぱり目眩がひどいから、ほ……保健室行くね」

「大丈夫? ついていこうか?」

「大丈夫。お昼食べてて、ごめんね、せっかく声をかけてくれたのに」

「ううん。いつでも声かけてね」

 立ち上がろうとするクラスメイトを押し戻し、私は教室から駆け出す。

 背中に、追い打ちのような言葉が刺さった。

「これまで、助けられなくてごめん」

「これからは頼ってね」

 それは遅すぎる、あまりに遅すぎる言葉だった。

 

 思わず駆けこんだのは、廊下を抜けた先にある非常扉だ。

 肩で押し開けて私は恐る恐る外に出る。外界につながった鉄さび色のカンカン階段。外の空気にさらされたそこは、冷たい。

「お弁当、教室に忘れてきちゃった」

 お弁当を忘れて、代わりに握りしめてきたのは筆箱だ。それを見て、私は苦笑する。

 いつだって、私は選択肢を間違える。

「……寒いね。髪の中に入ってていいよ」

 寒さに右往左往する虫が可哀想で、私は三つ編みをほどいて髪を広げた。その中に、彼らはもぞもぞと潜っていく。それは、不思議と心地よい感触だ。

「ほんと、寒い」

 ふっと息を吐くと、口元から白くて長い息が漏れた。

 咲さんが言っていたとおりだ。冬、この場所は食事に向いていない。

 恐る恐る座ると、階段が体温をゆっくりと奪っていく。

「……さむ」

 目の前に広がるのはなだらかな山だ。遠い山の上はかすかに白い。雪が積もっているのだろう。

 山の下には鎮守の森に、田んぼと果樹園。とぼとぼ走るトラクター。

 どこよりも高いこの校舎からは街のすべてが見下ろせる。

 ……ここが好きだと、あの時、咲さんは言っていた。

 冷たい階段に座り込んだまま、私は筆箱の奥を探る……指先にふれたのは、小さなビニールの感触だ。

 引っ張り出すと、そこにはかつて咲さんが投げてよこした辛いスナック菓子がある。

(賞味期限、大丈夫かな……)

 恐る恐る開けて、口に投げ込めば、湿気った食感と同意に辛い味が追いかけてきた。

(熱い……)

 いつの間にか切れていた唇の端に、チリリと痛みが走って思わず俯く。

 こんなに胸がかき乱されるのは、桜虫のせいなのだろう。この虫が憑くと心が乱れると、里村先生も言っていた。

 心臓が重くて苦しいのも、得意の笑顔を浮かべるのが億劫になっているのも、何もかも。

(お前たちのせいなの?)

 心のなかで問いかけても桜虫は答えない。今まで、桜虫が答えてくれたことはない。ただ、そこに寄り添ってくれるだけだ。

(……寒いね。虫は平気かな。私の髪の中にいるから、あったかいのかな。咲さんちは、寒いのかな)

 確か咲さんの家も薄暗く寒かった。人の気配のない家だ。あの家にずっと咲さんは一人でいるのだと思うと、たまらない。

「……君たちも、そう思う?」

 ピンク色の光が頬をなで、私はふと顔を上げる。

 弱った虫たちが、まるで私を慰めるようにそっと頬に寄り添ってくれている。それは血の通った指の温度だ。

(これ……思い出した)

 はっと、私は目を丸くする。

 それは、はるか昔の記憶。幼稚園の先生との思い出だ。

 両親は兄の病気に構いきりで、私はいつも幼稚園に最後まで居残りをしていた。

 泣いていた私の頬を、先生が撫でてくれたのだ。

 もう先生の顔も声も思い出せない。ただ、あの温かさが私を救った。

(……あの感触だ)

 同じ温度で虫が頬に寄り添う。暖かく、心地が良い。

「そっか……寂しいんだ」

 弱っていく虫たちも寂しいのだろう。

 なぜ寂しいのか。それは咲さんの虫に会えないからだ。

 兄弟なのかもしれないと咲さんは言っていた。虫にだって感情はきっとあるのだろう。

「君たちも兄弟に会って……家に、帰りたいよね」

 最初、里村先生は「あなた達の使命は虫を家に帰すこと」と言っていた。それを思い返すと胸の奥が苦しくなる。

 この虫たちは桜虫憑きによってのみ、家に帰ることができるのだ。

 もう、私の生まれ育った家はとうに潰され消えてしまった。両親も遠いところに消えてしまった。家族は消えてしまった。

 そんな欠陥だらけの私でも、この虫を家に返すことはできる……できたのだ。

「もっと、ちゃんと、咲さんと話し合えば」

 私は冷たい階段に指を置き、深呼吸をした。

「……私こそ、遅かったんだ」

 その肩に、虫が飛ぶ。

 間もなくやってくる真冬の風が、私の体を静かに冷やした。

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