東京発、葭行き。特急やまのは
大山郡葭野町では春が来るのも一苦労。
時刻はちょうど12時を回ったところだ。
走るたび枕木と電車が擦れ合い、がたん、ごとんと大きく揺れる。
がたん、で右へ。
ごとん、で左へ。
それは揺りかごと同じリズム、同じ音。
電車の窓に顔を押し付けて、葵は目を細める。
東京を出て、1時間半は経っただろうか。
トンネルを一つ抜けるたびに風景が都会から田舎へと塗り替わって行く。
(東京発、葭行き。特急やまのは)
葵は膝の上に置いたチケットの文字を指先でなぞり、微笑んだ。20字にも満たないこの文字が、葵にとって涙が出るほど愛おしい。
「葵、駅、ついたあ?」
……と、目の前で金色の塊がもぞりと動いて寝ぼけた声をあげる。
そっとチケットをポケットに片付けて、葵はその金色の固まりを覗き込んだ。
「残念。まだ半分くらいしか進んでないよ、咲」
葵の目の前。朱色のクロスシートに沈みこんでいるのは、咲だ。
金のロングヘアは光に透けて天使のように輝いている。首筋のあたりに淡いピンクのインナーカラーが入っているのが、春っぽくて素敵だった。
しかし咲のまぶたは重く、先程から一ミリだって開いていない。
頭を上げても目は閉じたまま。
首振り人形みたいに首がかくんかくんと揺れ動き、やがて諦めたように再び席に沈んだ。
電車が揺れるたび小さな頭は右へ左へ。壁に頭をぶつけても、彼女は目を閉じたまま。
「ちょっと……咲、大丈夫?」
葵は慌てて彼女の隣に座り直す。
「へえーき」
「平気じゃないよ。寝てていいよ。着いたら起こすから」
葵の苦笑交じりの言葉を聞いて、彼女は唇を尖らせた。
「だって、あたしだって、外を見たいもん……それに眠いんじゃなくって……時差ボケがさぁ……キッツイ……あと日本、明るすぎ……」
「だから一週間前には帰ってきなさいって言ったでしょ。私、ご馳走作って待ってたのに」
「そうするつもりだったんだよぉ」
咲は顎が外れそうなほど大きなあくびをする。
と、電車がカーブを駆け抜けて、激しく揺れた。早春の日差しがベロアのシートの毛羽立ちを輝かせる。
「ねえ、咲。生姜紅茶、作ってきたけど飲む?」
「……ん」
咲は眩しそうに、細目を開けた。窓の向こうに広がるのは、低い連峰だ。
普段彼女が暮らしているシカゴには無いであろう、丸みを帯びた山のラインは春の日差しを浴びて輝いて見えた。
葵は大きな水筒を取り出し、2つのカップに琥珀色の液体を注ぐ。と、生姜と紅茶の香りがぷん、と鼻に広がった。
一つのコップに砂糖をたっぷり注ぎ入れる。もう一つのカップは無糖のまま。
「葵がこれを作ってくるってことは、仕事落ち着いたってこと?」
「うん、春休みでね。オーナーからお休みもらえたとこ。って言っても新しいメニュー考えろって宿題つきだけど」
「葵の店、雑誌に取り上げられて話題になったもんね。日本で一番予約の取りにくいビストロだったっけ。よく休みとれたよね」
「予約が取りにくいのは、席数が少ないからだよ。まあどっちにしても話題なんて一瞬だけだし、こういう時こそ毎日のルーチンをこなすほうがいいの。だからお休みも、予定どおりちゃんと取ります」
葵は胸を張って、熱いお茶を口に含む。ほかほかと、胃の底が温まるお茶だ。
今度、生姜を使った料理を出すのも面白いかもしれない。
深い皿を使って香りを際立たせるようにすれば、匂いまで楽しめる。
(ああ、そうだ。醤油も少し入れてみようかな。醤油は旨味成分の塊だから、きっとどんな味でも合うはず)
……と、葵はたった6席しかない自分のビストロを思い浮かべ微笑んだ。
2年前苦労して苦労して、ようやく手に入れた宝物だ。客が笑顔を浮かべて帰っていく姿を見るのが何よりうれしい。
この気持ちを忘れないために、休みはきちんと取る。それがオーナーと結んだ約束だった。
「で? 日米をまたにかける売れっ子服飾デザイナーの咲さんの近況は、どう?」
「あたしの方こそ。どんなに人気のデザイナーでも落ちるときは一瞬。だから、あたしも変わらない生活を心がけてる。おんなじだね」
甘い紅茶のカップを手に持ったまま、咲は少しだけ微笑んだ。
「シカゴはどう? もう春が来た?」
「日本よりずっと寒いよ。氷点下の時もあるし、手が凍りそう。あと……薄暗い。日本ってあったかくて眩しいんだなって、久しぶりにそう思った」
鼻の先を赤く染めて彼女は目を細める。微笑むと目尻が青く見える。それは彼女がずっと昔、少女だったころから変わらない。
自分もきっと、少女の頃から変わらないところがあるのだろう。と、葵は思う。それは自分では分からない。20年の付き合いがある、咲にしか分からない。
「風邪も治ってないのにさ、急なコンペがあって、新しいデザイン案を急ぎで出さなきゃいけなかったから」
咲は少し荒れた指先で鼻をこすり、葵を見上げた。
「咲のことだから、契約できたんでしょ?」
彼女は紅茶を飲み込みながら、頷く。葵も一口。かすかに渋くて、苦くて、温かい。
「そ。秋向けワンピースだけど、葵に似合うと思うんだ。試作品が出来たら送るからさ、それ着て遊びにきてよ」
「また日本のお譲さん。なんて紹介しないでよ。前の時、学生に間違われて面倒だったんだから」
「そうそう。そのせいでお祝いのシャンパン、葵のところにだけ来なかったんだよね」
「誤解をとくの大変だったんだから」
二人は揺れる電車の中、顔を見合わせて笑う。窓から漏れる日差しはぬるいが、たしかに春を感じさせる柔らかさである。
さらに電車に揺られること1時間半。
ぽかぽかとした日差しに照らされて、ふたりともしばらく眠っていたようだ。
気がつけば外に広がるのは山ばかり。近くも山、遠くも山。春待つ山の緑は、柔らかく優しい。
淡い青空に浮かぶ緑の稜線は、ゆるやかに霞に溶けて美しかった。
(ひーふーみー)
特徴的な山の峰の数を数えながら、葵は指を折る。
あと2つ、小さな山を越えれば、目的地である終点だ。
「咲、もうすぐつくよ」
と、電車がトンネルに入る。窓ガラスは真っ暗に染まって鏡のようになった。
葵はガラスを見つめて髪をまとめるピンク色のリボンを丹念に直し、咲はカーディガンを肘までめくりあげた。
まだ外は肌寒いのに、咲は平然と腕を伸ばして大きく伸びをする。その瞬間、掠れたようなアナウンスが響き渡った。
『次は終点、終点葭駅です。本日は特急やまのはにご乗車いただきまして、まことにありがとうございました。傘、携帯電話等、お忘れ物のないように……』
軋む音をたててゆっくりと電車が止まる。
二人の眼の前に懐かしい風景が広がる。
顔を見合わせ微笑む二人の顔は、少女だったあの時に戻っている。
水底 葵と花守 咲。
二人の奇妙な関係を語るには、ほんの少しだけ過去に遡る必要がある。
それは、20年前。
二人が出会った中学2年生の頃。
夏の終わり、秋の始まり。
それは、そんな季節のことだった。




