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バッカスの宴 - 濃尾

作者: 濃尾

バッカスの宴 — 濃尾

1


ある国のバイオ研究所で、人類の未来を根本から変えるかもしれないプロジェクトが進行していた。


プロジェクト名は「プロジェクト『バッカス』」。


ローマ神話の酒の神の名だ。


そう、このプロジェクトの肝は「アルコール発酵」なのだ。


目的は「バイオアルコール燃料」の生産。


原料は「セルロース」と呼ばれる多糖類。


セルロースとは、ほとんどの植物の細胞壁の大部分を構成する多糖類だ。


植物は細胞壁の働きで頑丈な細胞構造が作られている。


身近な例は木や草だ。


セルロースは植物細胞の細胞壁、および植物繊維の主成分で、天然の植物質の三割を占め、地表上で最も多く存在する炭水化物だ。


セルロースは多数のβ-グルコース分子、つまりブドウ糖が直鎖状に重合した高分子であり、非常に化学的に安定した分子で、酸や塩基に対して強い抵抗性を示す。


セルロースの加水分解には硫酸や塩酸が用いられるほか、酵素のセルラーゼが用いられる。


セルロースと共同して植物の木部を構成するリグニンと結合したセルロースは、単独状態よりもさらに化学的に安定であり、分解は非常に困難で、工業的な利用を妨げている。


2


「アルコール発酵」とは、酵母がブドウ糖を食べ、二酸化炭素、そしてエチルアルコールに分解する過程だ。


ほとんどの酒はそうして造られる。


つまり、人間がアルコール飲料として摂取するエチルアルコールは、酵母がブドウ糖を食べた老廃物と言えよう。


そのための原料であるブドウ糖を作り出すには、果物の果糖、ショ糖などの糖類、穀物のデンプンなどの炭水化物を酵素で分解し、ブドウ糖に変換する必要がある。


デンプンなど、ブドウ糖がグリコシド結合した多糖類の高分子化合物は、麹菌などのカビが生成する酵素アミラーゼを使うか、人が直接化学処理し、「糖化」という工程を行う。


3


地表自然環境を循環している植物由来の炭水化物ならば、エチルアルコールを燃料として燃やしたときに出る二酸化炭素は、植物を再び栽培すれば植物が光合成の過程で吸収し、炭水化物としてリサイクルできる。


現在、バイオエタノールの主な消費用途は内燃機関、つまりガソリンエンジンやジェットエンジンだ。


自動車だけでも年間の石油消費量は約二十億トンに達する。


二酸化炭素による地球温暖化の緩和にも寄与すると考えられている。


すでにジャガイモ、トウモロコシ、サトウキビなどの炭水化物を用いたバイオアルコール燃料生産は実用化されているが、それは人間の食料や家畜の飼料と競合し、食料価格の高騰を招いた。


その結果、恒常的に飢餓に苦しんでいる国々では数多の餓死者が出た。


4


ところが、資源が豊富な雑草や木材チップなど、人間にとって不可食部のセルロースから効率的にアルコールを大量生産できるようになれば、環境への負荷が低いまま世界のエネルギー事情は大きく改善されるだろう。


問題は、いかに効率良くアルコールを生産できるかにかかっている。


実験段階での成功例は幾らでもある。


しかし、大型の実用プラントでは、製造にかかるエネルギー収支がネックなのだ。


それには、セルロースを糖化するセルラーゼ生成生物や、できたブドウ糖をアルコール発酵させる酵母など、両者の高効率な品種を見つけ出すか、創り出すことが重要視されてきた。


5


プロジェクト「バッカス」は、この着眼点を少し変えた。


糖化を行う生物とアルコールを生産する生物を、一つにまとめられないだろうか?


その「デザインされた生物」は、より高効率にセルロースを分解・糖化し、アルコールを大量に生産できるのではないだろうか?


6


このプロジェクトの骨子となる素案は、「プロジェクト『バッカス』」のプロジェクトマネージャー、サキシマ・コーイチのアイデアだった。


サキシマは、糖化およびアルコール生産を制御する遺伝子を、あらゆる生物のゲノムからかき集めていた。


「あらゆる生物」と言っても、単体の生物にまとめ上げたときに運用しやすいのは、やはり微生物だろう。

彼は日本人の遺伝子工学エンジニアであり、アルコール生産における日本の醸造技術の高さは、他の同僚たちよりもよく知っているつもりだった。


「やはり、日本の米麹と協会酵母だな」

サキシマはランチテーブルの対面に座る人物に話しかけた。


話しかけられたのは、サブマネージャーのエスター・ガードナーだ。彼女は怪訝そうに眉を寄せ、問いかけた。


「糖化遺伝子やアルコール生産遺伝子を持つ生物なら、他にもいくらでもいるわ。なぜそんなに日本酒醸造微生物にこだわるの?」


「日本の清酒醸造は室町時代、約五百年前に現在の基盤ができた。それ以来、さまざまな技術革新が行われてきた。例えば、パスツールが低温殺菌法を発明する遥か前に、日本人は『火入れ』という低温殺菌を用いて清酒の変質を防いでいたんだ。微生物の存在を知らなくてもね」


「……だから何? 私たちが創ろうとしているのは、セルロースを食べてアルコールを作る生物よ。そんな技術が日本の米麹や清酒酵母を扱っている企業にあるわけ?」


「研究はあるさ」

サキシマは微笑みながら続けた。


「麹菌によるアルコール発酵、清酒酵母による糖化酵素の生産については、すでにいくつかの研究機関で進んでいる。それぞれの情報を持った遺伝子部位をトランスフォームすれば良い。まあ、研究機関の中だけの成果だがな」


「じゃあ、実用化の目処は?」


エスターは興味を持って尋ねた。


「ブレイクスルーはまだだ。エネルギー収支の問題が残っている。生産に消費するエネルギーよりも多くのエネルギーを生み出さないといけない。だからこそ私たちがここで苦労しているんだ」

サキシマはにこりと笑った。


「だけど、これまでに何百年も人間に改良され続けてきた日本酒醸造微生物のゲノムには、面白い要素が隠れている。そういう“カン”がする」


「つまりただの“カン”ってわけ? それは希望的観測よ」


エスターは呆れたように肩をすくめたが、心の中ではこう思った。


サキシマの“カン”は、馬鹿にできない。


7


数年後、エスターの予感は的中した。


ついに、清酒酵母にアルコール生産能力だけでなく、セルロースを糖化する能力をも持たせた生物が誕生したのだ。


この酵母は、育成条件が最適化され、効率的に生産できるように改良された。


実験プラントでのデータも大変良好な結果を示し、これにより、大型プラントでの商業生産が現実のものとなりつつあった。


この新しい生物を、プロジェクトチームは「高効率アルコール発酵プロセスを内包したセルロース分解生物」、Cellulose-degrading organisms encompassing a highly efficient alcohol fermentation process と命名した。略して【COEEAP】だが、内部ではいつしか、ただ「バッカス」と呼ばれるようになっていた。


8


ある日の「プロジェクト『バッカス』」合同会議で、サキシマはこれからの大型プラントでの実証実験についてのブリーフィングを行っていた。


「……以上が、これまでのバッカス実験プラントにおける先行研究を踏まえた、商業プラント用バッカスの環境耐性向上プログラムだ。何か質問は?」


ある研究員が、恐る恐る手を挙げた。


「あの、環境耐性をさらに向上させるということに関してですが、バッカスがプラントチャンバー外で生存できる可能性についての私のレポートは、お読みいただけましたでしょうか?」


サキシマは微笑を浮かべてその研究員を見つめた。


「ああ、読ませてもらった。サム、君のレポートには興味深い点がいくつかあったよ。だが、それはあまりにも想像力が豊かすぎる」


「……豊かすぎるとは?」


「バッカスがチャンバーの外で生存できる可能性はゼロだ。バッカスは、特定の培地がなければ速やかに死滅するように設計されている。だから、外部環境で繁殖することなどあり得ない」


「……仰る通りです。しかし、もしこれ以上環境耐性を上げた場合、バッカスは培地内の必須アミノ酸やpH制限に対して……」


「あり得ない!」


サキシマは厳しく断言した。


「バッカスの育成条件では、商業ベースに乗せるための効率化を図りつつ、その他のあらゆる制限を設けている。その上での環境耐性向上だ。それが理解できないのかね? それに、プラントはレベル4並みのバイオセーフティが施されている」


サムは沈黙した。


9


その場で口を開いたのは、サブマネージャーのエスター・ガードナーだった。


「ちょっと待って、サキシマ。サムのレポートは皆読んだわよね? 私たち上級スタッフの中でも懸念を示している者は何人もいる。サムとジュリア、ユーシェンの三人。そして、プロジェクトサブマネージャーの私も」


「ほう? エスター、君までが?」


「そうよ。サムのレポートには真剣に取り組む必要があるわ」


「私は常に真剣だよ」


「いいえ、あなたは急ぎすぎている。少なくとも、サムのレポートを検証してからでも遅くないはず」


「何を言っているんだ? 私は筋を通して説明しているだろう?」


「ええ、筋は通っているわ。でも、みんなの話をちゃんと聞いて?」


「聞いている。そして判断を下している」


「いいえ、ちゃんと聞いていない。何であなたがこんなに急いでいるかもわかっているわ。ギンデラボの論文でしょ? でも、私たちはF1レースをしているんじゃない。これは“研究”なのよ。最悪の事態を想定して進めるべきじゃない?」


「最悪の事態は想定している。……会議はこれで終わりだ。残りたい者だけ残れ」


そう言い放って、サキシマは会議室を出て行った。


翌日、エスターを含む五人のスタッフがプロジェクトを去った。


10


実際には、バッカスはサキシマが想定していた以上の環境適応能力を獲得していた。


だが、プロジェクトの研究所はバイオハザードを想定した完全隔離型の施設であり、外部に漏れ出る可能性などゼロのはずだった。


……少なくとも、想定では。


しかし、些細な人為的ミスが原因で、バッカスは研究所の外に生きたまま出てしまった。


その原因は、プラント外への排水施設の管理マニュアルが徹底されていなかったことにあった。


結局、バッカスは地球そのものを新たな培地として選んだのだ。


11


強靭な環境適応能力と凄まじい繁殖能力を持つバッカスは、紙、布、建築物、木材加工品、草原、密林、海洋、ありとあらゆる場所に存在するセルロースを腐らせ、次々と食い尽くしていった。


その速度と破壊力は、まさに「燎原の火」のように瞬く間に広がった。


彼らが腐らせた場所には透明な液体と独特の腐臭が漂っていた。


バッカスを構成しているゲノムには、もともと日本酒の醸造に使われる酵母の遺伝子が含まれている。


それも、特に日本酒の中でも最高のカテゴリーである「大吟醸酒」を造るための「きょうかい9号」酵母がその基盤となっていた。


バッカスが腐食させた物質から立ち上る匂いは、腐臭というよりむしろ「香り」と言った方が正しいだろう。


それは熟した甘いフルーツ、バナナやメロンのような芳香だった。


バッカスはまさに、吟醸酒の香り、「吟醸香」を放ちながら地球上のあらゆる場所に広がり続けた。


12


初めは人類もバッカスを駆逐しようと試み、あらゆる対策を講じたが、バッカスの繁殖速度は指数関数的に加速し、人類にほとんど時間を与えなかった。


植物がなければ、動物も生きることができない。


生態ピラミッドの基礎部分が、いきなり崩壊したのだ。


植物と共生関係にあった微生物群も次々と消え去り、肥沃だった土壌もなくなり、生物多様性が急速に失われていった。


その頃、国連および各国の法執行機関は、バッカス漏洩の責任者を特定しようと捜査に乗り出していた。


しかし、すでに手遅れだった。


バッカス漏洩の情報が流れると、デマにより、責任者とされた組織のメンバーたちは群衆によって私刑に処されていった。


真の責任者、サキシマもエスターも、例外ではなかった。


13


やがて、食料はほとんど尽き、人々は飢えで命を落としていった。


それでも、わずかに残された貯蔵食料を巡って人々は争いを始め、大量の血が流された。


しかし、貯蔵された食料はすぐに底をつき、無意味な争いも終焉を迎えた。


地球上のあらゆる生物が、微生物のごく一部を残して絶滅していった。


14


人類も飢餓によって次々と数を減らしていった。


しかし、その中には、少しだけ幸福な人々もいた。


吟醸酒をたらふく飲みながら命を落とせるのだから。


15


そんな「バッカスの宴」も、終焉を迎えつつあった。


バッカスは、彼らにとっての地球上の食料、つまりセルロースを含む生物群をすべて食い尽くし、あっけなく消滅していったのだ。


地球には、無人のコンクリートの都市、荒涼とした岩肌の大地、木々の生えない山々、魚の泳がない海、鳥の飛ばない空が残された。


今や、セルロースを持たない微生物の一部、セルロースに依存しない微生物や、化学合成生態だけがかろうじて生き残った。


いや、もう一つの生物、微生物とは遠い進化の系統に属する種も、わずかに生き残っていた。


人類だった。


16


人類の中には、バッカスの駆逐を諦め、長期的な後退戦を選ぶだけの知恵を持つ者たちがいた。


彼らは原子力や自然エネルギーを利用した設備、限られた食料の栽培や養殖、人類が持つあらゆる情報や生物の遺伝子バンクを管理運営するための組織を作り、自分たちを閉鎖環境に閉じ込めることにした。


そして、時間を味方にするという戦略にシフトしたのだ。


17


果たして、時間は人類に味方した。


バッカスは完全に消滅し、人類は外の世界で文明を再建し始めた。


それは、生命が誕生して以来、最大の大量絶滅が起きた環境を相手にするという挑戦だった。


果たして、人類はこの過酷な世界で再び繁栄できるのか?


閉鎖環境での長い待機が終わった今、人類は急いで行動を起こさなければならない。


閉鎖環境施設が半永久的に稼働すると保証されているわけではないからだ。


18


そして、もう一つの生物群、以前の繁栄と比べればごくわずかにしか生き残らなかった微生物たちは、今後どうなるのだろうか?


もしかすると、適応放散により新たな微生物による楽園が生まれるかもしれない。


群体を作り、象のように歩くもの、海をクジラのように泳ぐもの、空をクラゲのように漂うもの……。


さらには、知性すら持つ生物が誕生する可能性もあるのだろうか?


この先の地球で、「万物の霊長」の称号は誰の手に渡るのだろうか?


それとも、「知性」というものは、ただ進化の気まぐれにすぎないのだろうか?


19


広大な空間と長い時間が与えられた、人類と微生物たち。


彼らを待ち受ける未来とはどのようなものなのだろうか?


地球は何事もなかったかのように太陽の周りを静かに回り続けていた。


――完


【後書き】


SF執筆進捗。

前回の近況ノートで「科学考証に重大な瑕疵を見つけた」から最新科学リサーチから始めないといけないと書きました。

考証はなんとかごまかしましたが、実は問題は二つあったのです。

今書こうとしているSFは二十数年前に思いついて、手すさびでのプロットを書き上げ、小説が書けないので放っておいたものです。

この二十数年間で私が妄想したプロットは現実の科学技術に追いつかれようとしています。

陳腐化です。お蔵入りの危機です。

しかし、今ならまあ、ぎりぎり間に合ってるかな? とも思います。

書き上げてから悩みます。


濃尾


【後書き】


SF執筆進捗


前回の近況ノートで「科学考証に重大な瑕疵を見つけた」から最新科学リサーチから始めないといけないと書きました。


考証はなんとかごまかしましたが、実は問題は二つあったのです。


今書こうとしているSFは20数年前に思いついて、手すさびでのプロットを書き上げ、小説が書けないので放っておいたものです。


この20数年間で私が妄想したプロットは現実の科学技術に追いつかれようとしています。


陳腐化です。お蔵入りの危機です。


しかし、今ならまあ、ギリギリ間に合ってるかな?とも思います。


書き上げてから悩みます。




濃尾

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