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18話 どうせいつか離れていくのに

 ぐちゃぐちゃにかき混ぜたコーヒーの残り滓をぶちまけたみたいな、ひどい夜だった。


 結局あの後すぐに小梅ちゃんと別れて帰り、メイクを落とすのも服を着替えるのも億劫でベッドにダイブ。そのまま眠れてしまえばむしろ楽だったのに。


 頭の中でぐるぐると、あの梓って子の言った言葉がリフレインする。


『付き合ってたんですよ、わたしたち』


 そう言った彼女の指が、まるで「わたしのものだ」と主張するかのように小梅ちゃんの腕に柔らかく食い込む瞬間が何度も脳裏に再生される。


「も〜〜〜〜〜〜〜っっっ」


 バタバタと、ベッドの上で延々とバタ足を続けたってどこにも進めないのに。


 …………別に、小梅ちゃんが誰かと付き合ってたことがショックなわけじゃない。私だっていい大人だし、積み上げてきた過去があって今の小梅ちゃんがいるんだ、ってわかってる。だからそんなことが嫌なわけじゃないのだ。


 私が嫌だったのは――



『何考えてるかわからない相手の傍に居続けるのってしんどいよ、お姉さん』



 ――きっと、小梅ちゃんがその言葉を否定してくれなかったからだ。



   *



「……すみません、伽耶乃さん。せっかく誘ってくれたのに、変な空気にしちゃって」


 カフェからの帰り道、小梅ちゃんはぽつりと呟くように言った。


 確かにさっきまでの他愛のない楽しい空気は消えてしまったけど、それを小梅ちゃんが謝るのも違う気がした。だって空気っていうのは人と人との間の話だし、だとしたらこの空気の責任の一端は私にもあるわけで――いや違うな! 全然あの梓って子のせいだわ! この重苦しい空気の責任取れバカ!!


「別に小梅ちゃんは悪くないですよ! まさか偶然、その、……元カノさん、と会うなんて普通想像しないですし!」


 別に私は全然何も気にしてません! 風を装おうとしたけど元カノの辺りでめちゃめちゃ言い淀んでしまったのでガッツリ気にしてるのがバレバレだった。そりゃ気にならないは嘘!!


「……すみません」


 私が何を言っても隣を歩く彼女は沈んでいて、というか隣といっても手を伸ばしても絶妙に届かない距離感がなんだかやけにもどかしくて、私はその隔たりを埋められるような言葉を必死に探した。


「と、というか、久しぶりに会っていきなりあんなこと言うなんて、ちょっと性格悪いですよねっ、あの梓って子! いくら、も、元カノ……だからって小梅ちゃんのことを悪く言うなんて――」

「でも、」


 相変わらず元カノというワードで躓く私を遮るように、


「でも、本当のことですから」


 ぱきり、と薄氷を踏み割るような硬い声がして、私は息を呑んだ。


 気づけば、駅から随分と離れた川沿いの道で、振り返ると小梅ちゃんが数歩離れた位置で立ち竦んでいる。湿った風がシルバーアッシュの髪を緩くなぶり、その向こう側に彼女の瞳を隠そうとする。


「……本当のこと、って」

「わたし、ダメなんです」


 恐る恐る問いかけた私の声が届いていないかのように、彼女は俯けた視線の先に突き立てるように言葉を吐いた。


「昔から感情を出すのが得意じゃなくて、それで何度も仲良かった子が離れていって、それで傷ついても『傷ついた』って誰かに思われるのも嫌で、隠して、それでまたどんどん感情を見せるのが苦手になっていって……そしたらいつの間にか、こんなろくに笑えもしない人間になってて」


 淡々と言う彼女の伏し目がちな表情は、いつもと変わらない。一分の隙もなく整えられた美しさで、――けれど、今はその美しさがひどく脆い鎧のように見えた。身を守るために自分でも身動きが取れなくなってしまったような、そんな苦しさを感じる。


「だから、あの子が言ったことは本当です。わたしは、誰かが自分に感情を向けてくれても、同じようには返せないから。自分だけは傷つくのが怖くて、相手を受け入れるフリして自分を隠してる。それで結局みんな『何考えてるのかわからない』って離れていくんです」


 俯いていた彼女の瞳が、つ、と動いて私を捉える。


「……だから、伽耶乃さんとも、別にこんな近づくつもり、なかったんですよ」


 薄い唇から零れ落ちた言葉は地面に落ちて砕け、バラバラになったその破片が散り散りに私の胸に突き刺さるような、そんな錯覚をした。


「え……」


 なんで、と問い返したいのに、鋭利な破片が突き刺さった胸が息をする度に痛んで言葉に詰まる。


「だってそうでしょう? どうせいつか離れていくのに、近づくだけ意味ないじゃないですか」


 そう言って、彼女は一歩、私から遠ざかる。


「だから、コンビニ以外で会うのも最初で最後にしましょう。ただの店員とお客さん、最初からその距離感のままで良かったんです」


 言葉を重ねる度に、遠ざかっていく。彼女の心が、どんどんと覆い隠されていく。


 私はその向こう側に手を伸ばすことができずに、離れていく彼女を見送った。



   *



 家のベッドの上、何度目かの別れのシーンの再生が終わる。何度繰り返しても痛みは未だ鮮明で、だからこそ何度でも繰り返してしまう。


 なんで。

 なんでそんなことを。

 なんでそんな、冷たい言葉を、悟ったような言葉を。


 ――なんでそんな、苦しそうに言ったのだろう。


 どうせ意味ないと思っているのなら、もっとどうでも良さそうに言ってよ。そうすれば、私だって信じてあげられるのに。あなたは私に近づきたくはないんだ、って。信じて、少し傷ついて――ううん、少しは嘘。めちゃくちゃ傷ついて、多分泣いて、でもきっとそれも仕方ないんだ、って。いつかはきっと割り切って、また別の誰かに恋をするのだろう。


 でも、そんな顔で言われたんじゃ無理だよ。


 梓ちゃんが言ったみたいに、あなたの感情は見えにくい。表情はいつも変わらないし、こっちがどれだけあなたの言動に一喜一憂しても、あなたはいつも少し冷めた一定の温度で。


 けれど、その裏ではきっと色んな感情が渦巻いていたんだ。それを表に出すのが苦手なだけで、でも出てこないからって存在しないわけがない。


 だって、きっとこれは自惚れじゃなくて、私には少しだけ見えていたから。澄んだ氷の表面から微かに覗く温かなものが。


 目や眉の動きや、ほんのりと耳たぶを色づける血の巡りとか、そういう小さなこと。


 その動き全部に意味がなかったなんて、そんなこと思いたくはない。


 もしいつか離れる時がきたとしても、それまでに近づいた距離も、それを埋めるために重ねた言葉も気持ちも行動も、全部ぜんぶ、意味のあるものだったって思いたい。


 ――あなたにも、そう思ってほしい。


 そう思った瞬間に、私はベッドから飛び起きていた。


 こんな気持ちのままじっとしてなんていられない。


 伝えなきゃ。

 あなたに、私の感情を。そしてあなたの感情も。隠さずに、怖がらずに、伝えてほしい。


 寝っ転がってボサボサになった髪の毛もそのままに、私は家を飛び出した。


 逸る足取りに弾む鼓動で、私はいつもの場所へ向かう。


 暗い道の先にある灯台のような白い光へ――その中で待っている、あなたの下へと。

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