15話 呼び方
「こ、こんばんは、こ、小梅さんっ」
休み明け、ついに今日初めての名前呼びをするんだ、と仕事中からイメージトレーニングをしていたのに、いざレジに立つ彼女を前にすると声が上擦ってしまった。
「伽耶乃さん、こんばんは」
声上擦りまくり、目泳ぎまくりの私とは違って、彼女は今日も眉一つ動かさずに落ち着いた声音で私の名前を呼ぶ。
「…………」
呼んだ後、彼女はじっ、と私を見つめる。澄んだ水面のような綺麗な瞳、それを縁取る長い睫毛が、瞬きする度に蠱惑的に揺れる。な、なに……⁉︎
「……その呼び方やめてもらえます?」
「えぇぇ⁉︎」
名前で呼んでいいって言ってくれたのにっ⁉︎ あれっ、夢だったっ⁉︎ それか幻⁉︎
まさか名前呼びしたいあまりに自分に都合のいい幻覚を見ていただなんて……末期すぎる……!
「す、すみません薄氷さんっ……いきなり馴れ馴れしかったですよね……」
深く頭を垂れ、これでも足りなければ土下座も辞さん……! と膝を屈伸しかけたところで、彼女はふるふると首を振った。
「あ、いえ、そうじゃなくて。『さん付け』がちょっとしっくりこなかっただけで」
「え、あっ、そ、そうだったんですね!」
よ、良かった~~、あの記憶は夢でも幻覚でもなかったんだ……!
「伽耶乃さんの方が年上ですし、全然呼び捨てとかでいいですよ」
「ぅええっ⁉︎ それはちょっと……⁉︎ 畏れ多いので……!」
「わたし畏怖されてます?」
「いえいえそういうわけでは!」
思わずへりくだると彼女の眉の辺りにほんのりと不満げな色が滲んで、私は慌てて手をぶんぶんと振って否定する。基本的に表情が大きく動くことはないけれど、なんか最近眉毛とか目の動きとかの細かい部分で若干感情が読み取れるようになってきたな……。
「え~……じゃ、じゃあ、小梅――ちゃん、とか……?」
一瞬頭に過った『小梅様』という案を意識的に押しやり、私は妥当なラインを探る。年下に様付けはなんかこう……色々とヤバいだろ……!
「うーん……ちょっともう一回呼んでもらってもいいですか?」
「えっ! あ、小梅ちゃん……?」
じ、と見つめられ、汗が背中に滲むのを感じながら呼んでみる。何この時間……? めっちゃ緊張するんですけど……⁉︎
何か考え込むようにしばらく目を細めていた彼女だったが、やがて、
「……はい。じゃあ、それで」
と頷いた。ほっ……何かはわからないが何らかの基準をクリアしたらしい。
「それじゃあ、またお待ちしてます、伽耶乃さん」
そう言って小梅ちゃんが差し出してくるレジ袋に手を伸ばし、
「はいっ、また来ますね!」
返事をして受け取ろうとするも、
「……?」
なぜか袋から手を離してくれない。え、なに……?
「伽耶乃さん」
ゆっくりと促すように名を呼ばれ、私はようやくその意図に気づいた。
「――ま、また来ますね……こ、小梅ちゃん」
「はい」
こくり、とどこか満足そうに頷く小梅ちゃんに、私は顔から火が出そうだった。
こ、これ、めちゃめちゃ照れるんですけどっ……!!




