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次の練習日までの一週間、湶琉は歌を自分の中に叩き込むことに専念した。歌詞は覚えたし、メロディもなんとか。ただし、「気後れ」しないことが成功の条件だ。歌う場所はお風呂場だったり、自分の部屋だったり。カラオケボックスは確かに声を出せるけれど、スピーカーの接続をいじってMDの音を繋いで出そうとしていたら、お店の人に止められたので練習案としては却下だ。壊されてはたまらないと、店側も要注意人物としてチェックしたに違いない。
湶琉の待ち合わせ場所は相変わらず「むすび屋」だった。最近は練習日の土曜日しか顔を出していないが、それで千夜を不快にさせるということはない。千夜にも湶琉に関わる人間が増えたことはわかっていたし、秀也だけに拘らせるつもりもなかったので、その変化を好ましく思っていた。
「いらっしゃい」
土曜の午前中だ。まだ千夜は仕込みの最中である。MJN当日まで土曜日は練習と決まっているので、秀也は人一倍早く起きてその仕込みを手伝うことにしていた。それでなくてもお客の入る昼間を千夜一人で回すのだ。大人数を相手にする食堂でないとしても、やはり負担は減らしておくに限る。
「こんにちは、千夜さん。えっと、秀也は」
挨拶もそこそこに、湶琉は不在ののっぽを探してきょろきょろと店内を見回した。
「あぁ、材料で足りないのがあったから買出しよ。それより湶琉さん、今度お歌を歌うんですって」
「あ、はい。でも、まだまだです。今日から皆の演奏に合わせて歌うくらいなんで、ホントにこれからなんですよ」
「うふふ。あのね、湶琉さん。お願いがあるんだけど」
ギクリと身体をこわばらせながら、湶琉は応じる。このパターンは知っている。多分…。
「そのお歌を聞かせてくれないかしら」
手元の作業を止めて、カウンターから出てきた千夜はテーブル席の一つについた。にっこりと微笑んで、湶琉の返事を待っている。
「えっと…」
湶琉の頬は紅潮していた。暑さからではない汗が首筋から背中へと伝う。
「だって、お婆ちゃんはライブなんて危なっかしくて行けないもの。お客さんがお祭りの時みたいに皆で押し合って見るんでしょう?湶琉さんがここで歌ってくれるのなら、安心して聞けるわ」
「そ、そうですよね。歌うんですよね…僕」
未だに気持ちの踏ん切りはついていない。
「こんなお婆ちゃんしか聞く人がいなかったら、おいやかしら」
「いえ、そんなことはないんですけど、やっぱりまだ恥ずかしいというか」
「湶琉さん」
「はい」
「今歌えなければ、きっと、ずうっと歌えませんよ」
「……あ…」
そうかもしれないと湶琉は一人落ち込んだ。今できないことをどうして大勢の前でやれるのか、全くその通りだとしょんぼりうなだれていた。
そんな湶琉に痺れを切らしてか、千夜は厨房の方に戻っていく。しかも鼻歌交じりに。
それはこの間二人で歌った曲「野ばら」だった。二人でなら楽しかったあの曲が、今は何故か切なさをまとう。
(あの時は)
湶琉は歌いたくなった気持ちを思い出そうとしていた。
(一緒に楽しめることがあって嬉しかった。だから自然に歌うことができた)
(でも、本番は…人前で歌うということは、自分が歌を楽しむというよりは目の前の人に聞いてもらうために歌う。目の前の人に楽しんでもらうために歌う。全く質が違うものなんだ)
(一緒に楽しめるのならそれが一番だけれど、そうでなければ自分の持てる「最高」を提示しなくちゃ始まらない)
湶琉は自分のカバンから端の少し折れ曲がったA4の紙を取り出した。秀也の歌詞を典生が少し書き換えて、改めてプリントアウトしたものだ。何度も引っ張り出しては直すを繰り返したので、よれよれになりつつある。
「千夜さん」
「なあに」
「これ、ちょっとだけ歌ってみてもいいですか。まだどうしようもなく下手なんですけど、アカペラで」
耳にオフボーカルのサウンドを流す。BGMは一切千夜には聞こえないから、まさにアカペラだ。千夜は黙って湶琉の方を向き、手近な丸椅子を引き寄せて腰掛けている。湶琉はワンコーラスを歌い上げた。どうしようもなくドキドキする胸を撫で下ろすように、何度も胸に手を当てたまま浅い呼吸を繰り返す。千夜はひときわ大きな拍手をして顔をほころばせた。
「あらまぁ、ホントにビックリしちゃったわ。そんなに忙しい歌を歌うのね。お婆ちゃんは一度じゃ覚えられないから、また歌ってもらわなくっちゃ」
「あ、はは、そんな…」
湶琉は苦笑いを浮かべている。まだ鼓動の高鳴りは収まらないし、顔から火を噴くような恥ずかしさに加え、呼吸も苦しい。千夜は顎に軽く握ったこぶしを当て、反対側の手でその肘を支えると、しばらく視線を上に踊らせて何かを考えているようだった。そう長くはない必要な沈黙が訪れる。
「そうだわ」
再び視線を戻した千夜はおもむろに声を発し、曇りのないすっきりとした笑顔で笑いかけた。湶琉はきょとんとして千夜をただ見つめ返している。
「湶琉さんにお婆ちゃんのとっておきの魔法を一つ教えてあげましょう」
「魔法、ですか」
「そうよ、今まで誰にも教えたことはないの」
そう言うと、千夜は口の両端をきゅっと持ち上げた。
湶琉はとっておきの秘儀を教えてもらえるのだと思い、疑う気持ちは丸ごと遠くに投げやって、微動だにせず千夜の言葉を待った。
「まずは、こうして足を開くのね」
千夜は滑り止め付きの上靴を履いた足を肩幅に開いた。小学生が学校で履いている、赤いゴムがつま先を覆っているアレだ。
「それで、自分が大きな木になったっていうイメージをするの。足は根っこで胴は幹、手や頭は枝葉や花や実。湶琉さんには、お気に入りの樹が何かあるかしら?それになりきってしまうのよ。そしてね、この足の裏から息と一緒に大地のエネルギーを自分の中に吸い上げるの。この時は鼻から吸うのね。勢いは気にしなくてもいいから、身体中を満遍なく巡るようにエネルギーの螺旋を描いて。ほら、樹が根っこからお水や養分を吸い上げるでしょう、そんな感じよ。
それは足から腰、おなかや胸を通って頭まで、ずうっとぐるぐる上がっていくの。そうして今度は口から息を吐くと、ふわぁっと頭のてっぺんからシャワーのようにエネルギーが溢れるわ。
そして、もう一度。今度はちょっと違うことをするわね。さっきと同じように鼻から息を吸って頭まで行ったら、口から息を吐きながらエネルギーの螺旋を下に向けて肩まで降ろすの。それから腕、指先へとすぅっと通してあげる。
どこか痛む時はその場所に手を当てながらやるといいわ。落ち着かない時や緊張した時に、深呼吸をしながらこのイメージを繰り返してごらんなさい。自分が地に足のついた大木になったら、何にも怖くなくなりますよ」
千夜は一通り湶琉の前で説明しながらやってみせた。見慣れた割烹着姿で瞑目して立っている千夜が息を吐くたびに、何故だかキラキラしたものが彼女の周りを覆っていくように見えた。
「えっと…、やってみます」
湶琉は足を肩幅に開くと、千夜に言われたように深い呼吸を繰り返した。イメージするのに慣れないので、呼吸は千夜よりかなりゆっくりだ。イメージをしているせいか、閉じた瞳が時折ぴくぴくと震えた。
「そう、鼻から息を吸って…、ゆっくり上がっていくのね。そうしてクジラの潮吹きみたいに……ぷはぁ~」
千夜は湶琉の細い腹部の膨らみと表情の変化を確認しながら、さりげなくイメージをサポートする。やり方に慣れてきたのがわかると、千夜は口一つ挟まなくなった。湶琉が納得するまで呼吸を繰り返すのを、ただ静かに見守っている。四、五分くらいの間があっただろうか。湶琉は羽化したばかりの蝶が羽を震わせるように、長い睫毛を小刻みに揺らしながら目を開いた。当の本人には見えないが、呼吸をする前よりも明らかに黒目の輪郭がくっきりしていた。
「どうかしら」
「すっきりして、落ち着いた気がします。ただ、すっごく暑くて。体温が一気に上がった感じです」
片手をうちわにして赤みの増した顔をパタパタと扇いでいる。千夜はコップに室温のミネラルウォーターを注いで、湶琉の目の前に差し出した。
「そう、よかったわ。エネルギーが回って、代謝がよくなっている証拠よ。湶琉さん、今のが腹式呼吸。歌う時はこうしておなかで呼吸した方が何倍もいい声が出ますよ。肺呼吸の時よりも咽喉を痛めないし、自分も楽」
湶琉は手渡された水を一口飲むと、眉根を寄せた訝しげな表情で千夜を見つめている。
「千夜さん」
「はい」
「千夜さんは何でそんなに色んなこと知ってるんですか。僕が知りたいこと、なんだか全部わかってるみたいだ」
湶琉には、自分が顔に出るタイプだという自覚はないらしい。千夜は肩をすくめて悪戯っぽく笑った。
「だって、お婆ちゃんは魔法使いですもの。さぁ、もう一度お歌を聞かせてちょうだい」