9-4
放課後、仁はいつものようにサッカーの練習に明け暮れていた。予定もなくなったことだし、いつも以上に燃え尽きてもいいレベルの燃焼度である。ミニゲームでの集中力も高く、得点こそならなかったが、何度もいい形を作り出す原動力となった。
グラウンド横に部室があるため、移動は一瞬である。部室横の水飲み場は足洗い場も備えていて、部活後はかなりの争奪戦になる。夏の日に焼けた汗まみれの肌には、やはり冷たい水の憩いが一番なのだ。彼らの部では用意する道具もボールくらいなので、たいして片付けるものもない。備品は部室内で保管するので、最後に蹴っていた人がリフティングしながら中まで運んだりもする。たまにドリブルの折り返し地点に置く三角ポールあたりを体育倉庫から借りてくることもあるが、今日は使っていないのでその手間も不要だ。プレハブでできた何年物とも知れない部室は、荷物を置いて着替えるだけなら十分な広さがある。人数分のロッカーがあるのもありがたいところだ。
「うあっち~」
「クーラーほしー」
「風~!窓開けろ~!」
「てめぇで動け、ボケ」
「今日飲み行く奴ー」
「あい」
「ほーい」
「先輩のおごりっすか」
「ねーよ、割り勘だよ」
「ケチー」
「ケチー」
「だーもーうっせ!負けたチーム持ちにしろ」
「んじゃパス」
「俺も~」
「ダセーこと言ってんじゃねぇよ」
終わった後の部室はそれなりに賑やかである。そして汗臭く泥臭い。一人一人が熱源と化していて、もやもやと煙まで立ちそうな様相だ。冷えたペットボトルのポカリをがぶ飲みするもの、頭からかぶってきた水を無造作にタオルで拭き上げるもの、上半身裸のままどっかりと座り込んだもの、それぞれが放熱作業にいそしんでいる。
「おい、運動後にアイソトニックじゃ身体が吸収しないだろ」
「いいんだよ、この味好きだし」
「ハイポトニックにしとけ。脱水症状になる。これから酒飲むならなおさらだ」
「そうなん?」
「そういえばさ」
Tシャツを着替えながら一人が話題を変えた。
「今日フェンス沿いのベンチに見学してるヤツいたろ?あれって偵察?もしかして入部希望者かな」
「いたか?」
「あ~、いたかも」
「でも、細っちかったから、やる方じゃないだろ」
「どっかのマネとか」
「わっかんね。でもスコブみたいなのも持ってなかったし、関係なくね」
「でも変だよな~、このくそ暑いのに長袖」
「長袖?」
「おい、仁。そこ食いつくトコ?」
「いや、もしかしたらダチかも。ちょっと見てくる」
言うが早いか人並みをかき分けて部室のドアを走り出た。
「行けない」と断られたのだからまさかとは思うのだが、やっぱり期待してしまう。そして期待は裏切られなかった。
「…湶琉」
「おつかれ」
フェンス沿いのベンチから手を振ってきたのは、間違いなく湶琉だった。
「うわ!ちょっと待て。すぐ着替えて出てくるからっ!三分な」
そう言うと仁は再び部室に戻っていった。顔を洗い、Tシャツを濡らして汗を拭って、わたわたと慌てる仁をまだお疲れモードのチームメイトは生ぬるく見守っている。
「誰なんだ?」
「コレか」
「そうなのか?んじゃ、俺も見てこようっと」
「アホか!」
「い~じゃん、減るもんじゃなし」
「だーもーうっせ!帰る帰る、帰ります!お疲れっした!!」
スポーツバッグに一切合財投げ込むように詰め込んで室内に一礼すると、仁は部室を後にした。
「あれは何かあるね」
「かもな」
若者が集まれば女子でなくてもかまびすしいのは、この後の部室でも証明されたようだ。
仁を待つ間、湶琉は背もたれのないベンチに座ってずっとMDを聞いていた。日が暮れつつある時間だとはいえ、何もしていなくても、ただ座っているだけでじんわりと汗が浮かんでくる。MDの充電マークは朝から点滅していたが、意外にも持ちがよかったらしい。視線はまっすぐグラウンドへ。しかし、グラウンドの仁を見ているわけではなかった。いや、見ていたかもしれないが、仁だと認識して見ていた訳ではなかった。走る、流れるような動き、小学生の動きより無駄のない洗練されたそれは見ているだけで惹き込まれた。まるで羽がついたように軽やかにかわしたかと思えば、ド迫力のぶつかり合いで砂煙がたったりして、その迫力は段違いだった。
土のにおい、風のにおい、ここにいるだけで、全てがとても懐かしく愛おしい。そして少しだけ…切ない。筋トレも終わり、ちょうどミニゲームをやっている時に着いたのもよかったのかもしれない。どれだけ見ていても飽きなかったし、耳から入る0Gの曲が逸る気持ちを後押しした。
試合が終わった今も、目を閉じるとさっきのゲームのハイライトがありありと浮かんでくる。イメージをしているだけで、湶琉の口元もきりりと引き締まった。
「うわっ」
いきなり左耳に暖かいものが触れ、湶琉は肩をすくめた。とんでもなく心臓が跳ね上がる。
「あ、ワリ。びっくりしたか」
仁は湶琉のイヤホンを抜き取るとそのまま自分の左耳につけて右隣に腰を下ろした。湶琉は仁の悪戯だと気付いて一応は胸をなでおろすが、軽いゲンコツのボディブローで窘めるのも忘れない。勿論、仁はしてやったりとにやにやしながら受け止めている。二人はしばらく同じ曲を聞いていたが、そのうち仁が口を開いた。
「なぁ、これ兄貴んトコの?」
「うん、そう」
湶琉は0Gの曲を「自分の」だと言える境地には至っていない。未だ、お客様感覚だ。
「これ、湶琉も演るの」
「この曲は演らないけど、えっと、この曲」
湶琉はMDを操作して、自分が歌う曲の頭にセットした。湶琉は習得するべきものとして、仁は初めて聞くものとして、その曲を終わりまで静かに受け入れた。最後まで聞いて、それぞれにイヤホンを外した。
「なんかさ、これって普通に売ってるCDと変わらないな」
「うん。デモでこれだけ出来上がってるのに、更にこの上をいかなきゃいけないみたいでさ」
「そっか。まぁ、考えすぎんなよ。お前の小せえ鳥頭がパンクするから」
「てっめ」
湶琉は頬をぷっくり膨らませてベンチから立ち上がると、仁の頭を右手でぐしゃぐしゃにかき回した。汗をかいた後の頭は冷たくべちゃっとしたが、その感触に後悔しても仕方ない。一度濡れてしまったものはしょうがないと開き直って、両手で更にぐしゃぐしゃにした。
「タオル」
湶琉は仁の目の前にぬっと手を突き出してタオルを要求した。手が濡れたせいかと思い、仁は黙ってスポーツバッグからタオルを取り出すと湶琉に渡す。それをパンパンッと音を立てて風に煽ると、湶琉は改めて仁の頭にふわりとタオルを落とした。
「ん?」
「しっかり拭いてないと風邪引くだろ」
振り向きかけた仁を前に向き直らせて、後ろに立ったままごしごしとタオルを動かした。仁は表情を見られてないのが不幸中の幸いといえるくらい、顔を耳まで真っ赤にしていた。夕焼けの色だ。聞かれたらそうごまかそうと思っていた。MDは既に放置されている。仁は落ち着かなさを隠すかのように、湶琉のMDにぐるぐるとイヤホンのコードを巻きつけていた。
「結構走ってたな」
「あぁ、今日のゲーム?」
「うん。練習なのに…って、練習だからか。誰も手、抜いてないのな」
「そうだな。練習でできなきゃ、本番じゃ到底敵わないだろ」
「そっか、うん。そうだった。なんかちょっと思い出した」
「湶琉?」
手の止まった湶琉を首を後ろに倒して見やろうとすると、ペシッとおでこをはたかれた。
「あっぶね!目に入ったらどうすんだ、お前」
「ほい、おしまい」
頭からタオルをかぶせられ、視界を奪われる。
「さ、さんきゅ」
「いーえ」
そう言うと、湶琉は再びベンチに座りなおそうとした。
「?」
座りかけた湶琉をそのまま仁が腕の中に抱き込んだ。思いもよらない拘束に湶琉の大きな瞳は見開かれる。しっかりと筋肉のついた日焼けした腕は胸の前でロックされて開かない。湶琉はその腕に自分の両手をかけて外そうと試みたが無駄だった。
「暑い」
「気にすんな」
「気にする。暑いって」
「もうしばらく、このままでいろ」
「仁」
「……好きだ」
仁は抱き寄せた湶琉の肩口に自分の頭を預けていた。ふと湶琉の身体から力が抜ける。すると、仁の鼓動の早さまでが湶琉の身体に直接伝わってきた。
「…仁?」
呼びかける声は少し揺れ、戸惑いが現れていた。
「好きだ。ホントは兄貴達とも演らせたくない。俺だけのそばにいてほしい」
「無理…だよ」
「俺じゃダメか」
「そうじゃない。……そうじゃ、なくて」
湶琉は言葉を切った。一瞬の間をおいて更に繋げていく。
「おれにそんな価値、ないよ」
「湶琉」
「自分のスタンスさえわからない、不安定でわがままでどうしようもないヤツなんだ。誰かに好きになってもらう価値なんて…ない」
「あのさ、湶琉」
仁は腕の戒めを緩めてベンチをまたいで座るようにすると、湶琉の肩を捉えその目を正面から見つめられるような体勢をとった。
「自分の価値なんて、勝手に決めんな。それって俺の判断基準がおかしいって言ってるようなもんだろ。失礼だ。俺を否定してる。湶琉、なぁ、逃げんなよ。人と向き合うのやめんなよ。俺がいいって言ってんだから、いいんだよ。自信持てよ。んで、俺のことが嫌いじゃないんなら、付き合えよ。将来有望だぜ」
「なにそれ、ありえないくらい自信満々」
「お前の分まで俺んトコに自信の素が流れてきちまってんだよ。少しずつ返してやるから、一緒にいろ」
「無茶苦茶だな」
そう言う湶琉の表情はもう悲しみに歪んではいない。柔らかく緩んだ目は夕焼け空の色を映していた。
「湶琉」
仁が頭を低くして湶琉に近付こうとしたところで、
「磯貝~」
遠くから声がかかった。
「まーだ、そんなトコおったんか」
「る、るせっ!」
慌てて立ち上がり距離を取る仁に、湶琉はこっそり笑いをかみ殺す。
「お前も笑ってんじゃねぇよ」
湶琉の頭に手を乗せて軽く睨みつけるが、たいした効果はない。相変わらず小刻みに肩を震わせている湶琉の、手の平にすっぽり収まってしまうほどの頭の小ささを改めて実感しただけだ。
「お疲れっす」
「うぃ~」
「じゃあな」
「詳細は明日」
「いらねー!さっさと帰れ!!」
夕日をバックに立つ仁は、まるで全身からオレンジのオーラを撒き散らしている仁王像のようにパワフルだった。
「ほら、おれらも行こ、カラオケと飯」
横からTシャツを引っ張られて「そうだった」と仁も予定を思い出した。作りかけていた甘い空気は既に立ち消えになっていたが、自分の気持ちを伝えられたことにかなりすっきりしてもいた。湶琉を促して立ち上がらせると、ブルーの愛車シビックの待つ駐車場へと向かう。触れそうで触れない距離を、仁の指先は行ったり来たりしていた。