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僕らの空は――虹色のレシピ――  作者: 音和さいる
29/38

8-3

 湶琉はその頃、足の下でじゅるじゅると吸い込むように動いていく砂の感触を楽しんでいた。波が寄せる時には足の甲にかぶせるように来る砂が、引く時には足の裏からぐずぐずと崩れていく。こういう感触も久しぶりだ。

(気、遣ってくれてんのかな)

 湶琉は思った。

(遣ってるよな、やっぱ。仁みたいないい奴が構ってくれる価値なんて、今の僕には全然ないのに)

 ひと波ごとに、考える。呼吸をするように思考の海に浸っていく。

(やっぱり、こういうの悪いよな。振り回すみたいで。戻ったら笑おう。何もなかったように元気な自分でいよう。ごく自然で昔みたいな…)

(でも僕はもう仁の知ってる「僕」じゃない…。「僕」にはなれない)

 湶琉が思考する時の一人称は「僕」だ。話し言葉だとシチュエーションによって変わるのに、自分との会話では変わらない。ある種、自分と話すと言うのも一つのシチュエーションだと言えなくもないが。

 そうした思考の波が湶琉の足を止めることはなかった。湶琉は自分との会話を続けながら、その足をずんずんと深みに進め、既に波は腰の高さまできていた。

(このまま消えてもいいな)

(人魚姫みたいにさ、海の泡になって消えてしまえたら幸せなのに)

 湶琉は自分をそそのかす。無意識なのかエゴなのか、心の声は繰り返し湶琉の背中を押し続ける。暑い日だった。夕方とはいえ長袖を着込んだ火照った身体には水の温度がちょうどよかったのだ。エゴはいつだって快を求め、そこここに綻びや罠を仕掛けている。

「あれ?」 

 メールを打ち終わった仁が顔を上げると、目の前の海には想定していた光景がなかった。

「え、帰った?わけないよな、ここに荷物あるし」

 仁は立ち上がって辺りを見回した。正面には何もなかったが、少し左側の浅海に丸い浮きのような何かが見えた。波が引いた時に目を凝らしてみると、チェックのシャツの肩の辺りまでが覗いた。間違いなく湶琉のようだ。

「ウソだろ、おい」

 湶琉の荷物はそのままに、自分の携帯と財布をその下に隠すように置いて仁も海に走った。凝った結びにしていたせいで靴を脱ぐのももどかしく、最近洗ってなかったのでちょうどいいと踏み切った。腰の高さまでは走り、そこからは泳いで近付いていく。水をかく腕が上がり、沈み、遊んでいるかのような波に動きを翻弄されながらも、仁はなんとか泳いで辿りついた。足が着く位置だ、焦る必要はないと頭ではわかっていたが、感情は高ぶりすぎていた。

「湶琉!お前何やってんだ!」

 湶琉の瞳は焦点が合っていなかった。漆黒の瞳、潤んだ黒目がちな瞳はどこを見ているのかわからない状態で、仁の言葉には全く反応を示さなかった。

「帰るぞ」

 仁は湶琉の腰に右腕を巻きつけると、岸に誘導するようにゆっくりと歩いた。湶琉は特に反抗する様子もなく、仁の動きについてくる。歩いているのではなく、仁が引く力に浮いて従っているだけかもしれない。それだけ腕の力は強引で容赦がなかった。

 水面が腰辺りの位置に来たところで、湶琉は背中からくるんと海に倒れ込んだ。仁がもう大丈夫だろうと腕を離した瞬間だった。声も上げずに、静かにそれは落ちていった。ばしゃんという水音だけが大きく響いた。


 その時、仁の中の湶琉は死んだ。

 自分の知っていた湶琉はもういないのだと、改めて理解した。

 そして、波にたゆたう儚い人形をその両腕に抱えあげた。

 自分の無力さをひたすらに責めながら。

 もしかしたら、自分のせいで何かしら追い詰めてしまったのかもしれない、とも思った。

 不安定で儚く、哀しくて美しいもの。

 長いまつげに覆われた瞳は次にいつ微笑んでくれるのかわからない。目覚めるのかもわからない。

 一つほっとしたのは、唇の色がまだ赤々と色付いていることだ。溺れてはいない。

 前髪で隠されていた額は広く開かれ、その聡明さを浮き彫りにする。

 そんな腕の中の人形は細くとも暖かくて…。

 仁はもどかしさとは別に逸る自らの心臓の音にも耳を傾けていた。

(俺がなんとかしたい)

 ぐっと一つ唾を飲む。一足進むごとに、腕の中のものに対する独占欲が増してくる。

(つ~か、なんとかする!!)

 仁はこの時、友人を一人失った。

 その代わりに、心を捕らえてやまない存在、湶琉に出会った。

 気付くのに、遅いも早いもない。

 好きになった時がはじまり。

 出会った早さも関係ない。

 繋いだ時間も。

 身体の近さも。

 いや、時間軸なんか捻じ曲げて、会えなかった時間すら全て自分のものにしてしまいたい。

 そう気付いてしまえば、頬が熱を帯びるのに時間はかからなかった。

 荷物の方を見やりながら、まっすぐに浜辺を目指す。他に人気はないようだ。仁は湶琉を抱えなおそうと、軽く腕の位置を直そうとして。視線を下ろした。

「うわっ!」

 瞬間、湶琉がぱちっと目を開けたのだ。仁は思わず湶琉を取り落としてしまい、湶琉はザパンと海に落ちた。落ちたとはいえ、かなり陸側だったので、座っても肩まで塩水につかる程度だ。

「うげっ!飲んだ」

 海に唾を吐きながら湶琉が愚痴る。仁は腰をかがめて心配そうにその顔を伺っていた。

「い、ぐっ!」

 呼びかけようとした仁に、湶琉が思いっきり海水をすくって浴びせかけた。

「ばっか、おまっ、何しやがる!!」

「へへーっ!いいじゃん、もう濡れ鼠だし」

 湶琉は仁が顔を拭っている間に反撃を食らわないための距離を取る。しかし仁はその場に仁王立ちのまま、拳を握り締めて唇を震わせていた。

「ふざけんなっ!」

 いきなりの怒声に湶琉は表情を固めた。相手にかけようとして掬いかけていた水が、あっという間に指の間から零れ落ちる。

「こっちはマジで心配したんだ。何でも冗談にすれば許されるとか思うんじゃねぇ!」

 仁は悔しくて仕方なかった。嘘の部分しか見せてくれない湶琉に、本当の部分に近付けない自分に苛立っていた。行き場のない思いは何年ぶりかの涙となって仁の頬に溢れ出た。顔が既に濡れていたので、それがわかりにくかったのは救いだ。湶琉は言葉に横っ面を張られて座り込み、完全にフリーズしていた。

 仁は右腕でぐっと顔を拭ってから続けた。

「俺の知ってる大里湶琉ってのはな、マジですげ~奴なんだ。ノリがよくて楽しい奴だけど、やるべきことはちゃんとやる芯のしっかりした信頼できる奴だ。一緒にサッカーやってても、球に一直線に突っ込んでいく俺らと違って、湶琉はまず流れや全体を見ようとするから、球取って走り出すと大抵いてほしいトコにちゃんといる。まぁ、足も速かったからな。けどそれってさ、すごいことなんだぜ。こいつがいるから大丈夫だと思える、なんつ~か、安心感?だから思いっきり走れたし、球任せてもこいつならなんとかするって信じられた。以心伝心、とかってさ」

 仁は一つ鼻をすすった。

「でも、今のお前はわからねぇ。テキトーに都合よく誤魔化しやがって、本音も隠しまくりで、どうしたらいいのか、全然わからねぇ。俺が言ったことややったことで何か傷ついたんならそう言えよ、直せるもんなら直すから。俺、何かを誤魔化すために嘘つかれんのとかヤなんだよ」

「仁…」

 湶琉は立ち上がってようやく口を開いた。光に透ける桜貝のように淡く脆く消え入りそうな声で。

「あのさ、おれ……病気なんだ。大きく言うとうつ病。離人症とか、最近だとPTSD、心的外傷後ストレス障害って診断を受けたこともある。自分で自分の腕とか切ったりしてたんだ。それで、この前までは薬をもらって飲んでた。いや、今ももらってるんだけどさ。SNRIっていう抗うつ薬の一種で、セロトニンの濃度を高めてうつ状態を改善させるのに加えて、ノルアドレナリンの再吸収を阻害して気分を向上させるってやつ…って言ってもわかんねーよな。前の薬はセロトニンの濃度を高めることしかできなかったんだけど、今のはひょっとしたらMDMAなんかより合法的に気持ちよくなれるかもしれないスグレモン…って、かたっぽしか試したことないからあくまでイメージなんだけど。仁さ、セロトニンって知ってる?脳内の神経伝達物質の一つで、これがあるおかげで、喜びや快楽、恐れや驚きなんかの情報はコントロールされて、人の精神は安定するんだ。人間の感情なんか、今や薬一つでコントロールできるんだぜ。積み上げてきた知識や経験、記憶とかも関係なしに」

 湶琉は溜まっていたものを吐き捨てるように、時折ふざけながら自嘲気味にそう言った。ほんのりオレンジがかってきた西空に背を向けているが、夕陽はまだ落ちない。まだ視線は合わせない。

「でも、飲んでた、だろ。つまり、止めたのか」

「ある人に会ってさ、止めたくなったんだ。だけど、まだ慣れなくて自分で自分をコントロールできなくなることがあるんだ…、さっきみたいに。おれは普通になりたい。でも、まだなれない…。だから、普通の人を見たり、それが普通なのにと思ったりするだけで、ありえないくらいショックを受ける。後は人から注目を受けたりとかもさ、苦手。おれさ、空っぽなんだ。なんかもう空っぽ。なーんもない。普通の人はさ、価値とか生きる意味とかあるだろ。でもおれには意味なんかない。ただ、いるだけ。しょーもないの」

 仁は苛立っていた。湶琉が自分を見ないことに、まだ心の奥深くの核心に触れられないことに。それに触れる権利があるのは自分だと、主張したい気持ちのままに勝手に身体が動いた。

「へっ?」

 湶琉は驚いて目を見張るしかできなかった。水をざばざばとかき分けて近付いた仁は、湶琉の襟首を掴むとそのまま押しやるように放り投げた。それはあまりに軽すぎて手ごたえもなく、ザプンと音を立てて背中から海に飲み込まれた。

「湶琉、逃げるな。ちゃんと目を見て話せ。それができないなら、もう会わねぇ」

 海に腰をついたままの湶琉を置いて、仁は浜辺に向かう。振り向かないように、唇を噛みしめながら水を蹴っていく。

「って、話してるだろ!ちゃんと聞けよ」

 湶琉はしっかりと顔を上げて、仁の背中に言葉を投げた。

「悪かったな。いつでも相手の目を見て話せるほど、おれは公明正大じゃねぇんだよ。お前の脳内メモリが容量超えちまったから、人の話わかんなくなってウガーッてなってんだろっ!」

「てっめぇ、言いやがったなっ!」

 最初に仕掛けたのは仁のはずだった。しかし結局、湶琉の挑発に乗った形で海に戻る破目になる。

 頭に血が上った人間を制するのは簡単だった。動きを読んだ湶琉は、蹴り上げようとしてきた仁の足をその勢いを利用して下から掬い、同じく海の餌食にする。足場が悪いせいもあって、それは思いのほか簡単に成功した。大きな音と飛沫を立てて、仁はその場に崩れ落ちた。直で組み合っても勝ち目はない。別に戦いたいわけでもない。仁が尻餅をついたところで湶琉はその懐に入りこみ、仁の両腿に自分の両手を乗せて動きを封じると、身を乗り出すようにして顔を近付けた。

「聞けよ」

 見詰め合うその距離、わずか十二cm。きわどく腿に触れられ、顔を近付けられ、まるで自分が押し倒される側のようなポジションになるとは思いもよらず、仁の心臓は跳ねまくった。目の前には濡れそぼった前髪から雫を滴らせる湶琉のまっすぐな瞳がある。

「聞け」

「…わ、わかった」

 耳まで赤くしている仁とは対照的に、湶琉は冷静になっていた。

(今、話してしまえば、きっと軽くなる)

 そんな気がしていた。

「…くしゅっ」

「あ~、もう緊張感ね~な。上がれ、湶琉」

「大丈夫だ、これくらい」

「ば~か、お前が風邪引いたら俺が怒られるんだよ。車ん中で聞くから」

 仁はよいしょと体勢を立て直すと、湶琉の手を引いて立ち上がった。パワーゲームになれば、棒切れが電信柱に敵うわけがないのだ。意地を張っても仕方がないと、湶琉は素直に暖かい手に従った。実際、冷えてきてもいたので、流石に潮時だろう。

「なんか腹減った」

「だな、あそこのワゴンで何か食うか」

「オケ」

 湶琉はにっこりと笑った。目袋がふっくらと盛り上がる、最も自然な心からの笑顔で。

(やっぱ、好きかもしんねー)

 その笑顔に、仁はようやく許された気がした。何をかというと、近くにいることを、だ。恋することは許されないかもしれないが、近くにいることは許している。それだけでも、今日の収穫はあった気がした。

 戻る途中、仁はマリゾンに出ていた雑貨屋のリヤカーで新しい携帯用にとイルカのストラップをプレゼントした。海に溶け込みそうな碧い色を湶琉は一目で気に入った。湶琉に見せこそしなかったが、仁は揃いでこっそり自分の分も買っていた。

 そして、車に戻って仁が一番にしたことは、着替え用に持ってきていたTシャツをカバンから引っ張り出すことだった。「上だけでも着替えろ」と助手席に押し込んだ湶琉に無理矢理渡した。駐車場の暗闇と窓につけたサンシェードがその姿を隠すだろう。そうして待つ間、仁は車外で着ていたTシャツを脱いで絞った。流石にそれを着なおす気はなかったので、上半身はそのままで運転席に座る。引き締まった身体には自信があるため、見られることもやぶさかではない。生肌を見てドキドキしてくれたらという下心が無きにしも非ずだ。しかし、自分のTシャツをだぶっと着ている湶琉を見て、逆にドキドキしていたのは言うまでもなく仁の方であった。

「とりあえず、湶琉んちに直行な」

「うん」

(兄貴には絶対湶琉の携帯教えてやらね~)

 そう思いながら仁はギアをバックに入れた。


「おれは怖いんだ」

 走行中、湶琉はふいに海での話の続きに戻した。仁は今更聞いても聞かなくてもどちらでもよかったのだが、無理矢理ではなく、湶琉が話したそうだったのでそのまま話を促した。BGMは最近お気に入りのポップスだった。

「仁、おれは怖がってる。人に会うのが怖い。いつだって、中学の頃の自分を知ってる人間に会ったらどうしようってビクビクしてる。『あ、あいつだ』って指を差されるのが怖い。また同じ目にあうのが怖い。人に近付くのが怖い。誰かを信じて好きになって、また裏切られるのが怖い。すごく怖い。だから、裏切られるくらいなら最初から近付かなきゃいいって思った。一人でいるのは怖くない…、てか楽だし。おれはもう傷付きたくないんだ。あはっ、すっげー弱虫だろ」

 仁は運転しながら呟くように答えた。

「どうしようもねぇな」

「うん」

「どうしようもねぇけど、悪かねぇ」

「ん?」

「俺はお前に何があったのかは知らないから、下手なことは言えねぇ。でも、俺はいてやる。ずっと、お前のそばにいてやれる。それでお前が幸せでいられるかどうかなんざ、責任持たねぇけど。だからさ、とりあえずは俺のこと信じろ。優しくしてやる気なんかこれっぽっちもねぇけど、俺はお前が嫌って言うまで放してやらねぇ」

「仁…」

「返事は」

「……さんきゅ」

「声が小せぇ」

「しつけぇよ。前見ろ、ばーか」

 仁はハンドルを握っていない左手でぽんぽんと湶琉の足を叩いた。海水に濡れた湿り気の抜けない冷たいデニム生地。手を乗せたままにしていると、じんわりと遠く温度が伝わってくる。調子に乗って更に動かそうとすると、「じゃれてんじゃねーよ」と、その手は払いのけられた。仕方がないので真面目な運転手に戻る。

「湶琉、歌ってみれば。兄貴んトコで」

「なんで」

「とりあえず、俺のためとか」

「知るかよ、関係ないし」

「完全否定っ!?もう、ジョークだって。ただ、お前の歌を聞いてみたいのはマジ。なんとなくだけど、よさげな気がする」

「仁のなんとなくって当てになるかよ」

「なるよ。当てにしろよ」

 外を見ると、明かりはすっかり太陽から人工灯に入れ替わっている。海辺でジャストな夕陽を見られなかった割に、いつの間にかとっぷりと日は暮れていた。湶琉は窓の外を見ながら、軽くグーを作った左手で二度ほど自分の唇に触れた。無意識だった。

 湶琉が降りる間際、仁は携帯のメール設定の有無を尋ねた(この時、遅まきながらも気恥ずかしくなってきた仁は自ら濡れたTシャツに袖を通している)。まだ設定していないと知ると、嬉々として携帯を受け取り、手馴れた風で他人の携帯をいじった。練習と称して隣同士でメールを送りあう。これで初めてのメール相手は自分だと、仁は心の中でガッツポーズをした。恋はどんな些細な出来事の共有でも、その人を際限なく幸せにすることができる。しごく単純で明快な仕組みだ。

 自宅で食卓に着いてから、一も湶琉から連絡を受けていたことを知り、仁は激しく落ち込むのであったが、それはまだこの時点では知り得ないことである。

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