ACT.8 マゼンタ・スクランブル 8-1
静かに光が入る部屋で、眩しさを避けるようにころんと一つ寝返りを打って湶琉が目覚めたのは、真新しい太陽に更新されたしばらく後のことだ。
ほんの少しだが、なんとなく身体が軋む感じがして肩を内側に引き込むように左右に身をよじる。いつもより硬いベッド、腕が触れている清潔だがカサカサするシーツ、ぐしゃぐしゃに濡れた頬と枕。目を開ける前に、いつもとの感触の違いをぼんやりと感じながら、腕を掛け布団の下から引っ張り出すと、全くの無傷だった。湶琉の記憶が正しければ、包帯で全身ぐるぐる巻きにされているはずなのだが……、そういえば、全身が呼吸するたびに引き攣るような、あのひどい痛みはない。
「あ、れ…?」
うっすらと目を開けながら天井を見る。長い蛍光灯の部屋、鼻につく消毒液のにおい、病院には違いないが、自分の記憶にある病院とはカーテンの色が違う気がする。確か、こんな明るいピンクじゃなかったはずだ。改めて両腕をさすりながら、どうしてだか自分が切りつけたはずの生々しい傷跡がないことを湶琉は不思議に思った。
「湶琉、起きたの?」
同じ部屋で一睡もせずに湶琉の目覚めを待っていた桜が声をかける。目の下のくまと乱れたひっつめ髪が、普段なら周りに一目置かれるはずの元「ミス琉球」の美貌を台無しにしていた。
「僕の…腕は?」
「腕が、どうかしたの」
桜は湶琉のそばに椅子を寄せると、寝ている額にかかった前髪をいとおしむように梳き上げて涙声で問うた。右手は布団の上に乗せられた湶琉の腕に重ねる。
「ん…、なんでもない」
「そう…」
静かで白く冷たい部屋に、か細い言葉が飲み込まれていく。どちらも声を張ることはなく、ただ静かに同じ空間にいた。居心地はそう悪くないと湶琉は思った。ぽつりぽつりと雨だれのように素直な言葉がこぼれ落ちる。
「夢を…、見ていたんだ」
「そう」
「あんな夢、見たくなかった」
「……」
「すごく、つらかった…」
桜は何も答えず、一つ頷く。
「でもね、おかげでわかったんだ。今の僕はあの頃のことを客観的に見ることができるって。多分、もう…向き合える…と思う。だから、今更だけど…。ごめんなさい、母さん」
「湶琉…」
「僕は、ひどいことをしたね。傷ついたのは僕だけじゃないのに、自分だけが被害者みたいに…」
湶琉はいらないものが全て抜け落ちたかのように、そっと優しく笑った。桜は咽喉を詰まらせながら、湶琉の身体を抱きしめた。
「ごめんなさい。僕はもう大丈夫だから」
頭を撫で、背中を撫で、激しくなる嗚咽を隠そうともせずに、桜は抱きしめた我が子のことを離さなかった。ようやく心まで自分の元に戻ってきてくれた子供との再会の涙は、彼女の頬を熱く伝い落ちた。湶琉は母の腰に腕を回し、とんとんとリズムをつけて叩く。その時なんとなく見回した病室は二人部屋で、もう一つのベッドは空だった。こんな寂しい場所で母はどれくらい一人ぼっちで自分を待ち続け見守ってくれていたのか、たった一人でこの空間で待ちわびる時間をどういう気持ちで過ごしていたのか、そう思うと胸にこみ上げてくるものがあった。
「こんな僕を…放り出さずにずっと見守っていてくれてありがとう。大好きだよ、母さん。僕のこと…、僕を、許して…」
「馬鹿ね。たった一人しかいない大切な子に、許すも許さないもないでしょう」
耳から身体に溶け込んでくる甘い癒しの言葉に、二人はようやく自分の居場所を確認した。自らが作り出していた壁が取り払われたところで、湶琉は今の状況を知りたくなった。自分の記憶では病院に来た覚えはない。何らかの記憶の抜けがあるのではないだろうか、と不安になったのだ。
「あのさ、どうして僕はここに?」
「あぁ、倒れたんですって」
「何処で?」
「あなたが天神で倒れてたのを見つけてくれた人が、車で病院まで運んでくださったのよ」
「車…で?」
「あなたも知ってる人」
「???」
湶琉にはにっこりと悪戯っぽく笑った母が誰のことを言っているのか、全く見当がつかなかった。秀也のことだろうか、それとも…。湶琉は眉間に皺を寄せて首をかしげた。
その時、ドアをノックする音がした。医者が様子を見に来たのかもしれないと、桜は「どうぞ」と声を返した。湶琉は顔を拭い居住まいを正して、来訪者を受け入れる態勢をとった。
開いたドアからまず覗いたのはビタミンカラーの花束だった。医者がそういうものを持って訪ねてくるはずもなく、湶琉は改めて身構えた。自分には見舞いに来てくれるような友人はいないはずだ。誰が来るにせよ、警戒は緩められない。湶琉は再びシールドを強めた。
「誰?」
「誰って…」
入ってきた人間に見覚えはなかった。いや、あったかもしれないが、湶琉の記憶からはまるっきり除外されていた。いきなりの強い否定に呆れたような、それでいて面白がるような笑みを薄い唇に浮かべて、男は鼻で笑った。すっと伸びた高い背は秀也とそう変わらないだろう。眼鏡の奥で笑う瞳には見覚えがあるような気がしなくもない。湶琉がしげしげと男を見ている間に、彼は桜と挨拶を済ませ、何やら世間話を始めた。
「で、誰」
「湶琉、まだわからないの?」
「って、母さんは知ってるわけ?」
「当たり前でしょ。あれだけお世話になっておいて、昨日だって…」
桜が受け取った菓子包みを手に何やら言いかけたところで、もう一度ドアが乱暴にスライドされて、ガツッと音を立てた。窓が閉まっていたのに、淡いピンク色のカーテンがさらりと揺れた。
「おいっ!迷うだろっ!一人で先に行ってんじゃねぇよっ!」
「叫ぶな馬鹿、場所を考えろ」
抑えた声色で侵入者を嗜めるのは、先の眼鏡の男だ。
またもや知らない顔が勢いよく飛び込んできた。髪はワックスで器用にアレンジを決めていて、背は高くがっちりとした体育会系。先の一人はストレートヘアのすっきりと整った静かな美形という感じだったが、こちらは下がった目じりで愛嬌のある大型犬という感じだ。そんな二人の侵入者に身構えるでもなく、桜はにこにこと見守っている。
「お待たせ~!っと、こんちは、おばさん。お久しぶりっす!おっす!湶琉、久しぶり!!」
(え?母さんも知ってる人?……思い出せ…思い出せ、自分!これだけ賑やかな奴だ。記憶のどこかにかすってないか?)
湶琉は眉間に皺を寄せて左上に視線を向けて、懸命に思い出そうと試みた。
「く~!友達甲斐のない奴だな。仁だよ、仁。磯貝仁」
湶琉が答えを導き出す前に、仁は自ら白状した。まどろっこしいのは苦手なのだ。
名前を聞けば湶琉にもわかる。小学校の時に同じサッカークラブでプレイした仲だ。しかも、帰りはいつも湶琉の家を経由してくれていた。仁は同じ町内ではなく隣町からの参加だったが、湶琉とは一番気が合ったしレベルも同じくらいだった。二人だけ先に、上の学年のメンバーを差し置いて一緒にレギュラーに上がった時は、かなりやっかまれたのを覚えている。そのうち、同学年の仲村や亀谷も順繰りにレギュラーに上がってきたのだが、それまでは作戦上でも二人でペアを組んでプレイすることが多かった。ただ、このサッカークラブが小学生向けの育成スクールだったため、中学が別になった二人は取り立てて会うこともなく、なんとなく疎遠になり、いわゆる年賀状だけの間柄になった。しかし、それすらも中学二年までで途絶えていた。勿論、理由は湶琉の方にある。仁の方は三年の冬にもちゃんと年賀状を出していたのだから。
「え?マジで仁?やたらデカくなったな。すっげー久しぶり…って、なんで?」
「こいつがさ、湶琉見つけたって言うから」
眼鏡の闖入者を腕を振り回して指差しながら、顔中でにっこりとした。相変わらず全身を使って会話する奴だと思って、湶琉は少し嬉しくなった。いつの間にか当たり前のような顔でベッドの真横を陣取っているが、悪い気はしない。小学生当時の湶琉にとって、仁は紛れもなく大切な相棒だった。サッカーにおいてではあったが、それはその頃の湶琉にとっての全てであると言っても過言ではない。
「…てことは、もしかして……いっちゃん兄ちゃん?」
腕を組んで壁に寄りかかっている眼鏡の男を見上げながら、湶琉はそう声をかけてみた。
「その呼び方は、よせ」
「はは~っ!いっちゃんはいっちゃんじゃ~ん」
仁も調子に乗ってはやし立てる、と、頭に静かな一撃を食らう。
当時二人から呼ばれていた名でも、今更そう呼ばれると気恥ずかしいことこの上ない一だった。ちなみに現在弟からの呼ばれ方は「兄貴」がほとんどだったので、久々に耳にしたせいもある。
少年サッカーからの帰り道は、実のところ湶琉と仁の二人きりではなかった。ボールを蹴りながら右へ左へ歩道も車道も関係なしに走り回る落ち着きのない仁を心配した磯貝家の母が、中学生だった兄の一に毎回迎えを徹底させたのだ。勿論、お駄賃つきで。それ故、中学生にして彼は大人に混ざって二人の保護者役を務めていた。彼らが六年生になっても高校生に上がった一は時間になれば迎えに行った。飴とムチでできるだけ寄り道をさせずに効率よく二人を追い立てるのに一はいつも苦心していたが、多少面倒だと思うことがあっても、その仕事は彼にとってゲームのような面白さをも内包していたため、他の誰かにこの役を譲るなんてことは考えもしなかった。
「そっか…、いっちゃん兄ちゃんがあそこにいたのか」
「ん?」
「あの楽器屋」
「いや、楽器屋じゃないが…まぁいい」
「何々?まさか、湶琉も楽器やってんのっ!?」
「やってねぇよ」
「ちぇ~。やってんなら見に行ってやるのに。こう見えて兄貴さぁ、バンドやってるんだぜ。俺も入れろ~って前に言ったことあんだけど、一言『却下』だってよ。冷たいと思わねぇ?俺ってかなりイケテルと思うんだけどさ~」
「うちにチャラい奴は要らないんだ。それよりお前にはサッカーがあんだろが」
「ま~ね」
胸を張って鼻の下をこすった仁に、湶琉は眩しそうな視線を向けた。
「仁、続けてるんだ」
「あぁ!F大のサッカー部。大学生なのにさぁ、全然遊べねぇの。高校の部活とち~っとも変わんねぇ。それより湶琉さぁ、お前今どこ行ってんだよ?」
「S大」
「げ。うちよか偏差値タケーじゃん。ちぇっ」
「仁の方がすごいよ。ずっとサッカー続けてるんだし」
「まぁ、好きだからな」
「うん、羨ましい」
「おま、羨ましいとか言うなよっ!湶琉だって、好きなことやればいいじゃん。なんかやってね~の?」
「ん…」
「じゃあ、やりたいこととかは?今、好きな奴とかいんの?」
「……」
正直、今の湶琉にとって、仁は眩しすぎた。
好きなことを思う存分楽しんで、充実感に満ち満ちた生活。それがキラキラしている瞳や表情からも見て取れる。空虚で退廃的な毎日をただ恨みながら生きてきた自分とはあまりにも違いすぎて、俯いた湶琉の瞳から一筋の涙が零れた。
「おい~、泣くなよ~。ったく、調子狂うな。お前ホントに湶琉?だ~も~っ!こんな病院とかにいるから辛気臭くなんだぜ!まだ入院とかいんのか?いらねぇんなら、さっさとこっから出ようぜ!なっ」
「仁」
湶琉のタオルケットをぎゅっと両手で掴みながら力説する仁の耳を引っ張って、一が強くたしなめる。
「五月蝿いからお前は喋るな」
「まぁまぁ」
言い添える桜も苦笑いは隠せない。どんなに好意的な言葉でも、今の湶琉には強すぎる衝撃なのは否めないからだ。
「湶琉、とりあえず五月蝿いのは連れて帰るからお前は養生しろ。それとアレ。お前がもしやってみたいなら特別に参加を許可してやる。今日は俺が代表で来てるが、あいつらも心配してるからな」
「なんだよなんだよ、兄貴ばっかり訳知り顔でさ。なぁ湶琉、今度車でどっか行こうぜ。俺さ、免許取ったばっかだからガンガン乗りたいんだよね。ご近所さんにさ、中古の軽もらったんだ。車検代ばっかかかってしょうがないからお前にやるって言われてさ。だもんで俺専用だから、いつでもオッケー」
仁は身を乗り出して、更に間に入ってこようとする。それを見ていると湶琉はまた少し楽しくなってきた。負けず嫌いの仁。それに触発されていつも対抗心バリバリで走り回っていた湶琉。その関係がもう一度復活できるなら、それも悪くない。そうして口元が緩むのは仁のお陰も大きい。
「ありがとう。また、連絡するよ。仁にもいっちゃん兄ちゃんにも」
「あぁ!」
「だから、その呼び方はどうにかしろ」
笑顔の仁とこめかみに小さく引き攣れをこしらえている一ににっこりと笑顔を返しながら、連絡先を書いてもらうためのメモを母に依頼した。二人は同じ用紙にそれぞれの携帯番号を回し書きして桜に手渡した。
「おれは携帯持ってないから、何かあったら家にかけといて」
「マジで?湶琉持ってねぇの?買えよ~」
「だって、必要ないし」
「これから必要になるかもしれねぇだろ。な、おばさん、湶琉にも携帯~」
「人様の親にねだるな、馬鹿が」
兄のデカい手が弟の頭をはたく。
「って~!い~じゃん」
「…そうね、考えておくわ」
磯貝兄弟の掛け合い漫才のようなやり取りに笑いがこみ上げる口元を隠しながら、桜はそれだけ答えるのがやっとだった。何もかもが目まぐるしい台風のようで、今日湶琉が目覚めてから、桜にとっても驚きの連続なのだ。喋る湶琉。友達といる湶琉。笑う湶琉。何年も待ち望んだ変化が、たった一日で訪れた。何もしてこなかったわけではないけれど、何もできなくてただそこにいるだけだった自分にもようやく許しが訪れた、そんな晴れがましさが桜の胸の内をじんわりと暖かくしていた。
病院の出入口に向かうこつこつと靴音を響かせる石畳を歩きながら、一は左右に規則正しく整えられたトンガリ帽子の様相を呈した樹々を眺めていた。貝塚伊吹という名でわさわさと鱗片状の葉を茂らせる、ガーデナー次第で色々な表情に仕上げられる樹だ。その細い葉の集まりを揺らすように時折そよぐ風が、重たくまとわりついていたエタノール臭を一緒に振り払ってくれているような気にもさせる。病院の敷地から公道に出るなり、仁がぽつりと呟いた。
「俺さ、知ってんだ」
「なんだ、いきなり」
つかず離れずの距離で後ろから歩いてくる弟を見やりながら、一が呟きを拾う。
「ガッコ違うけどさ、湶琉はうちでも噂になる程度には有名人だったから…」
仁は一瞬口ごもった。らしくもなく言葉を選ぼうとして、後の句をなかなか続けられない。
「なんだ、仁」
「あいつ、中三の時にサッカー部の奴らにやられてガッコ来れなくなったとかって……噂だけど」
「やられた…って」
思わず足を止めて一は弟の顔を見る。
「知らねぇよ!俺に聞くなよ!」
「仁、切れるな。お前が振った話だろうが」
いきなり声を荒げた弟を低い声音でたしなめる。一としても冷静に聞ける話ではなかったが、相手に先に激られてはこちらが静めるしかない。
「同じガッコだったら、せめて俺が一緒にいてやれたのに。俺さ、高校行ってから一中にいた奴に話聞いて、マジでビックリして…だから、サッカーやめらんなくなった」
「は?」
どこでどう繋がるのか、仁が何を言いたいのか、一にはよくわからない。
「サッカーは好きだったさ、勿論。でも、俺がずっと続けてたのはそれだけが理由じゃなくて。高校に入ったら湶琉になんかやりやがった奴らが同じサッカー部に入って来たわけだろ。そしたら、仇とるっきゃないじゃん。同じ学年のそいつらよりも格段に上手くなって、一番先にレギュラー取って見返して、お前らは大したことねぇ、俺とタメ張れるのは湶琉しかいないんだって、あいつの分もまとめて勝ってやりたかったんだ」
「そっか」
俯いて手の甲に筋が浮くほどに拳を握り締めていた仁の髪をくしゃっとつかむと、一はそのまま先に歩き出した。仁も下向き加減のまま、その後に続く。
「それでよかったんじゃないか」
「うん…、でも、さっきあんなに細くて弱っちく笑ってる奴を見たら、やっぱショックだった」
足を止めた仁に再び一は振り返る。
「なぁ、仁。お前一つ忘れてないか」
「何を」
仁はようやく顔を上げた。
「湶琉、あれでも一応女だし、細くても当たり前だろ」
「兄貴。そういうこと言われんの、あいつ一番嫌いなんだぜ」
「小学生の論理を大人になっても引きずるか」
「湶琉は湶琉だ。それ以外の何でもねぇ。常識的な括りのせいで、あいつが誰よりキッツイ思いしてきたのを俺は知ってる。兄貴にはあいつの気持ちなんか絶対わかんねぇよ」
「まぁな」
一はそれきり口を閉じて、振り返らなかった。今、やたらなことを言うのは得策だとは思えなかったし、やはり湶琉の過去に何かがあったというのが引っかかっていたからだ。保護者代わりを務めていた一にとって、仁と湶琉はまとめて弟のようなもので、今更取り立てて女扱いをする気もない。湶琉は、人の好き嫌いの激しい一にとって、数少ない大切な存在。それだけだった。




