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僕らの空は――虹色のレシピ――  作者: 音和さいる
24/38

7-2

 翌日は朝からクラスメートがよそよそしかった。どう考えても、その理由は昨日の一件しか考えられない。僕は休み時間を待って、いつもの調子でダリアに話しかけた。いつもと違うのは、後部窓際の自席に寄ってくるダリアを待つのではなく、自分から教室前方の彼女の席に向かったことだ。

「ダリア」

 ダリアの机の脇に立つと、僕は机に手を付いて彼女を覗きこむようにした。しかし、ダリアは目を合わさないように反対側を向いて立ち上がると、そのまま他の子に声をかけて教室を出て行ってしまった。あからさまに肩を落とした僕を見かねてか、他のクラスメートが声をかけてきた、というより周りをぐるりと囲まれてしまった。

「湶琉くん、昨日ダリアったら教室ですっごく泣いてたんだよ」

(え?)

「ホントなの?彼氏奪ったって。まさか、友達の彼氏を盗るなんてね」

まさか!!

「ちょっ、それ誤解だって。誰がそんなことを」

「写真見たもん」

「写メ撮った人がいたんだよ」

「湶琉くんが肩に手をかけて誘ってたって」

(って、ありえないからっ!!)

「誤解だって、僕は仲村なんか好きじゃないし」

「それならなんでそーゆーことしちゃうわけ?」

「だから、したんじゃないって」

「されたら、され放題ってこと?」

(お前らさぁ…人の話をちゃんと聞けって。)

「逃げればいいじゃない」

「無茶言うなよ。皆、僕が倒れたの知ってるだろ」

「わざとでしょ」

(は?)

「仲村くん、あの時即飛んできたじゃん。同じ校庭でも男子は別授業なのにぃ」

(あいつの都合まで知らねぇよっ!)

「ホントはさ~、ず~っと隠してたんでしょ」

(ヲイ。)

「そのくせ友達の振りしてさ」

(ヲイヲイ。)

「ずっる~い」

(ヲイヲイヲイ…。)

「おかしいと思ってたんだよね」

「だ~か~ら、何でそこまで勝手に誤解してんだよ」

 女子はお互いに顔を見合わせて頷きあった。

「だってさ、放課後仲村くんがダリアのとこ来てさぁ」

「別れようって」

「は?」

「『湶琉と付き合うから別れる』って」

「ウソだろ、おれ全然その気ないし」

「嘘ついてるのは誰よ。僕とかおれとか気分で使って、自分の本音を隠してるだけでしょ」

「仲村くんには『わたしぃ~』とか言ってるんじゃないの」

 意地の悪いクスクス笑いがあちこちから漏れ聞こえてくる。

「ちげーよっ、馬鹿にすんな!」

「ダリアかわいそ~」

「ほんっと」

「信じらんない」

「最っ低」

 僕は自分の弁護をしてくれる人がいないか、教室内を見回した。いつものように周りに人垣はできているが、その目はどれも冷ややかだった。遠巻きの男子連中も「俺は知らねぇぞ」と言いたげに、耳は興味津々でも顔では部外者を決め込んでいるようだ。

「…っくしょ」

 休み時間終了のチャイムが鳴り、やむを得ず席に戻った。僕が自分の席に戻るのを見計らったくらいのタイミングで、ダリアも自分の席に戻ってきた。

(こうなったら、手紙でも書くしかないかな。)

 僕は上の空のまま、三限の授業を受けた。



 手紙を上手くまとめられないまま、放課後になってしまった。何度書き直しても、彼女を傷つけないようにする文章になっているかどうかの確証がもてなかったんだ。書いてあることは真実だけれど、真実を伝えることは彼女を傷つけないかなとか、考え出すと思考は泥沼だった。

 そんな僕に、いつもは話しかけてくることも滅多にないクラス委員の野間さんがゆるゆると寄ってきた。

「湶琉くん、大丈夫?」

「あ、うん、ありがとう。心配してくれて」

「湶琉くんのせいじゃないよ。昨日ね、ホントにひどかったの。仲村くんも皆の前であんな宣言するし、それを聞いてダリアちゃんも泣いちゃうし。仲村くんってば、それこそ言い逃げみたいにして走っていっちゃって、その後は最悪」

「そっか」

(結構、人の多い時間にやらかしたんだな、あいつは。ホント、馬鹿。)

 そこにダリアに付き添った休み時間のクレーマー達が割り込んできた。

「ちょっとぉ」

「あんた何話してんのよ」

「そんな裏切り者と一緒にいたら、あんたもシカトよ」

「ご、ごめんっ。でも、これおかしいって…」

「五月蝿い」

「いい子ぶっちゃって」

「受験生なんだから、さっさと帰っていつもの塾でも行っちゃえば~」

「そうそう」

 風向きが怪しくなってきたのをひしひしと感じたので、僕は彼女をこの場から解放する言葉を探した。

「ありがとう、野間さん。僕のために無理なんかしないで」

「う、うん。さよなら」

 勝手に囃し立て続ける雑音はさておき、ありったけの勇気をかき集めて話しかけてくれたであろう彼女を帰すと、さて、どうしようかと僕は迷った。クレーマーと化した彼女達も昨日までは僕とダリア二人の取り巻きだったはずだ。

「どうしたら…わかってくれるのかな」

「あんたがそれを言う?」

「ダリア~、どうするの?」

 ダリアは口を噤んだまま、帰り支度を整えていた。全ての準備を終えたらしく、立ち上がると僕の方に向き直った。カバンを手にしたダリアの細い指先は震えているように見えた。

「許さない。一番信じていた人に裏切られる気持ちなんて、あんたなんかにわからないっ!!」

「ダリア…違う」

「違わないっ!一番好きだったのに!私のだったのにっ!!」

 それは僕のせいじゃない。勝手にヤツが僕を好きになってたってだけで、僕に責任はないはずだ。でも、彼女の一番を奪ったというのは…、彼女を傷つけたというのは紛れもない事実で。

「傷つけてごめん。でも僕はダリアのことが大切で…仲村のことなんか好きじゃない。これは本当だから」

「だから何?湶琉なんか、もう友達じゃない!」

「ダリ…」

「呼ばないで、見ないで!耳が腐る!さよならっ!」

 吐き捨てるように言うと、ダリアは教室を出て行った。くだんの少女達が彼女を追って、先を争うように目の前から消えていく。部外者の忍び笑いが廊下中に響いてリフレインで聞こえてきた。剣幕にやられて、さよならの挨拶すら返せなかったことを僕は悔やんだ。もし言ったとしても、それを受け取ってくれたかどうかは疑わしいけれど。

 ダリアにとっては、僕がどうこうという以前に仲村に別れを告げられたことが相当ショックだったのだろう。そしてその当たり所が僕に来てしまった、そういうことなのだと僕は解釈していた。でも、仲村のせいで今までの関係が壊れることになるなんて、僕は全く望んでやしない。

 しかし、ヤツのやり口は許せなかった。たとえ別れるにせよ、プライドの高いダリアに衆目の前で別れを告げるなんて、しかもその理由として僕の名前を挙げるなんて、やり方がまずすぎる。だからと言って、抗議のためにでも今更近付きたい相手じゃないし、クラスも違うことだし、できれば卒業まで顔を合わさずに過ごしたいところなんだけど。

(受験前に変なストレス抱えたくないのにな。)

 2学期早々厄介すぎる…と、誰もいなくなった教室で僕は一人ため息を付いた。

 帰りにいつもの道で(どこでどう聞きつけたのかは知らないが、よく待ち伏せている)胡散臭いスカウトに会ったが、いつもなら追い払い役をしてくれる彼女達が傍にいなかったせいで、逃げるのに手間取った。今まで金魚のフンのような彼女達を僕とダリアのオマケとしか考えたことはなかったんだけど、一緒に歩いてた彼女達って意外と役に立ってたんだな、と後になって気付いた。僕は最初のうちは不在に苛立ちこそすれ、感謝なんて思いつきもしなかったんだ。



 翌日も似たようなものだった。女子だけじゃなく、男子にも挨拶はスルーされ、僕は全くの孤立状態に追いやられた。化学の実験室でも、実験結果を見るための酸化銅の試験管は僕のところには回ってこなかった。

 そして事件は昼休みに起こった。どの島にも加わることなく、一番後ろの自分の席で一人お弁当を食べていた時のこと。ガラリと荒く教室のドアが開けられたが気にも留めず、僕はぼぉっとしたまま着色料過多の真っ赤なウインナーをつまんでいた。すると、僕の方に向かって何か大きなモノが投げ込まれたので、反射的に椅子を後ろに引いて避けた。

 飛んできたそれは直接机に当たってガガガッと音を立てると、勢いあまって机ごと前のめりに倒した。そのせいで、僕の席のすぐ前の島に加わっていた女子が思わず叫び声を上げて席を立った。幸い自分のお弁当は左手の上に乗せていたので無事だったが、机の中に入れていた教科書や筆記具がバラバラだ。

(いや、気にするべきはそこじゃないな。)

 投げ込まれたと思しきモノは「モノ」ではなく、制服の白シャツまでぼろぼろに汚れた仲村だった。実際、シャツの背にくっきりと上靴模様がスタンプされていたので、投げ込まれたのではなく蹴り入れられたというのが正解なのだろう。

「はっは~っ、おホモ達同士、仲良くすればぁ」

「そうそう。じゃな」

 言いがかりをつけてきた奴らがあえてずるずるに下げて履いていたボンタンは、正規の制服を好まない者達の象徴だった。顔はよく知らないけど、そう人がよさそうには見えない。にやにやと教室後ろのドアに手をかけながらこちらを覗き見ているのは、僕の席から見えて三人。でも、ブルドーザーの異名をとる仲村がここまでやられているのを見ると、姿を見せないだけで実は他にもっといたのかもしれない。違うクラスの面々なんていちいち全部は知らないが、上靴の色から同じ学年の人間だとはわかった。僕は平静を装って、玉子焼きを一つ口に放り込んだ。困ったことに、全く味がしやしない。

「いらねぇよ、持って帰れよ」

「うわ、冷たっ」

「ちょっとぉ、皆さん聞きましたぁ~?」

 買物かごを持った奥様風にシナを作って笑いを取りながら、奴らは僕を非難しにかかる。しかし、それだけやって満足したのか、野次馬も含めてそれぞれの教室に帰っていくようだ。

「おい、待てよっ!マジでコレどうすんだよ…ったく」

 立ち上がったが、追うことはしなかった。足元に転がっている人間を放っておくこともできなかったからだ。僕は食べかけの弁当箱を椅子の上に置き、身体をかばって丸くなったままの仲村の肩に手をかけた。ぱっと見は打ち身や擦り傷だけのようだが、どうにも呼吸が荒い。

「仲村。おい、大丈夫か。意識あるか」

「う…、ん…、すまん。こんなはず、じゃ、なかった、のに…」

「動けるか。保健室まで歩けるか」

「ワリぃ。ギリ…。肩、貸してもらえたら…、助かる」

 仲村は荒い息の間に脂汗を垂らしながら、無理矢理に言葉を押し出した。

「わかった」

 僕は仲村の傍に身体を寄せ、肩が外れていなさそうなのを確認すると、腕を取って身体を引き上げた。仲村は一瞬呻いたが、「たいしたことねぇ」と笑ってみせた。僕は見た目の通りに重量級な仲村に肩を貸し、それこそ担ぎ上げるようにして教室を後にした。仲村は空いている反対の手で自らのお腹を押さえながら足を進めていた。呼吸がしにくそうだったし、もしかしたら肋骨をやられているのかもしれない。部活を引退した後でよかったな、とりあえず。

 幼馴染のよしみでサポートをしてやることにしたものの、湶琉の胸中は複雑であった。この一部始終をダリアも含めたクラス中の面々に見られているのだ。それはわかっていたが、今の状況では他にどうすることもできなかった。廊下を歩いていても妙に視線が突き刺さってくる気がする。早く通り過ぎたくても、仲村の具合を考えるとスピードを上げることはできない。針の筵でのろのろと小突き回されるような痛みを感じながら、三階の教室から一階までを会話一つ交わすことなくむっつりと歩いた。その間に聞こえてくる言葉は、どういうものであれ全てシャットアウトした。

 仲村を保健室に預けると、もう昼休みはほんの少ししか残っていなかった。午後の授業が始まる前に、急げばお弁当の残りをかき込めるだろうと教室に戻ったところ、倒れたままになっていたはずの机がきちんと立てられ、椅子もセットされていた。

「ありがとう」

 僕は誰にともなくそう告げた。周りで小さく笑いが起こる。

(あれ?何かがおかしい。)

 机と椅子はあるんだ、確かに。でも、僕の私物、教科書やノートや筆記用具。はたまた食べかけの弁当箱なんかが一切見当たらない。始業間近の教室で、そんな一番後ろの様子を振り返る者はなく、それぞれに次の授業の準備を済ませてダベったり、予習をしたりしていた。

「俺の荷物、知らない?」

 僕は意を決して、隣の席の渡辺に声をかけた。彼は目を合わせず何も言わずに、立てた親指でくいっと窓を指差した。

「え?」

 僕は窓の外を見た。ここは三階だ。見慣れた住宅街が見えるだけで、他には何も…あった。窓に張り付くようにして見下ろすと、校庭との境になっている植え込みの周りに、花に紛れて散らばっている不自然な色があった。あれは多分僕のもの、そう気付くと一気に頭に血が上った。

「誰だよ、ガキみたいなことしやがって!」

「…時間ねぇぞ」

 ぼそっと渡辺が言う。彼に当たるいわれは無いのは重々承知だが、今は感情を抑えられるような状態じゃなかった。

「わかってるよっ!!」

 大声を上げた僕は、犯人探しは後だと一先ず教室を駆け出し、上がってきたばかりの階段を駆け下りた。階段をすれ違う生徒に訝しげな目を向けられながらも、ダッシュで下りている途中で五時間目のチャイムが鳴った。

 僕は一瞬立ち止まったが、もう一度走り出した。今更戻ったところで、道具が何もないんじゃ授業を受けてもついていけるはずがない。僕は荷物集めを優先させることにした。外靴に履き替えるのも手間だったので、僕は上靴のまま、できるだけ校舎沿いのコンクリの上を歩くようにして中庭から校庭側へと抜け出した。

「あ~あ」

 荷物は地面や植え込みや溝の中へと、それこそそこかしこに散らばっていた。落としたというより意図的に投げたものもあったのだろう。土足を覚悟しなければならないところまで飛ばされているものもある。校庭との境までは砂利が敷き詰めてあるからそう汚れることはないけれど、一つ一つ抜けがないように集めるのは骨だ。せめてもの救いは、晴天続きだったお陰で溝が乾いていたことぐらいだろうか。水に濡れた教科書なんてみっともなさ過ぎる。

 上を見ると、三階の窓からこちらを見下ろしているクラスメート達の顔が見えた。思わず睨みつけてやったが、そういった野次馬な視線が、二階からも、すぐ横の一階の一年の教室からも注がれているのに気付くと、僕は一瞬で気持ちが怯んだ。

「どうした?大里」

 一階の教室で教えていたのは、偶然にもうちの担任でゴツい髭面の吉野先生だった。吉野先生は窓から顔を出して、わざわざ僕に声をかけてきたのだ。正直「迷惑だ」と思った。こんな姿を晒すだけならともかく、今のでこの一年のクラスには僕の名前までバレてしまった。恥ずかしすぎることこの上ない!

「拾ったら教室に戻りますから、先生こそ授業に戻ってください」

 慇懃に返すと、僕は返事も聞かずに回収作業に戻った。こんなとこで誰かに弱みを見せるわけにはいかない。だって僕は「大里湶琉」なんだ。いつだってかっこよくて皆に慕われて人気のある僕じゃないといけないんだ。こんなとこでへしゃげるなんて、僕じゃない。

 少なくとも全部を見つけるのに五分はかかってしまった。これで多分モレはない、と思う。折角咲いた花壇の花が落下物のせいでつぶれたり、茎が少し折れていたのを見るとぐっと胸が締め付けられた。教科書の角なんて、普通に当たっても痛いのに。僕のせいじゃない、そう思いたかったけれど、やっぱり僕のせいだ。ごめんね、と涙が上がってきたけれど、寸前で出さずに押しとどめた。最後に拾い上げたのは、母さんが作ってくれたお弁当箱。中身はバラけてしまっていたので食べることはできなかったが、いつか蟻が運んでいってくれるだろうと期待する。

「さてと…」

 鞄に全て詰め込んだところで、気分を切り替えて教室に向かおうと歩きだしたのだが、全ての教室から死角になる校舎脇の通路まで戻ってきたところでがくがくと足から力が抜けた。

「…ふ…くぅっ…」

 僕の身体は勝手に膝から崩れ落ち、その場に座り込んでしまった。僕には「教室に戻ろう」という意思があるのにだ。崩れ落ちたのは感情も一緒で、塞き止めていたはずの涙が出したくもないかっこ悪い声を伴って溢れてきた。鞄を脇に置いて壁を背に膝を抱えるようにして座り込むと、僕は大きく一つ息をした。

「うぇっ…えっ……うっ…」

 窓が開いているせいだろう。吉野先生の授業中の大きな声がここまで聞こえてくる。どうか僕のこの声は誰にも届きませんように、そう願いながら、この感情が落ち着くのを待った。でも、吐きそうだ。お腹がすいているのに、どうして吐きそうなのかはわからない。そうだ、お腹がすいてるんだから売店に行こう。もしかして、食べたら少しは落ち着くかもしれない。

 僕は荷物を抱えて売店に向かうことにした。近道になる教室の廊下を通らずに、実験室や靴箱のある別棟を抜けて遠回りをした。途中の水道で顔を洗って、売店までは誰にも会わずにたどり着けた。

 売店は、校舎隅の武道場に繋がるコンクリートの通路にある。学校が給食だった数年前には無かったものなので、ホントにオマケのように文具の売店横にパンが並べてあるのだ。単なる通路だったところに折りたたみの台を広げて売っているので店構えは安っぽい。五時間目をだいぶ過ぎたところなので、売店のおばさんは店先の片付けをほぼ終えたところのようだった。

「すみません、まだ何かパン残ってますか」

 僕は慌しく立ち働いているおばさんに声をかけた。

「あらあら、三年生のアイドルさんじゃないの。今日は一人?珍しいわねぇ」

 にこにことそう言いながら、彼女は積み重ねながら直しかけていたパンの空箱の奥から袋入りのパンをいくつか取り出した。

「テーブルロールとアンパンくらいしかもう残ってないけど、どうする」

「じゃあアンパンを」

「はい、八十円ね」

 僕は百円玉を渡して、二十円のおつりを受け取った。おつりが生ぬるかったので、ちょっと気持ち悪くて引いた。その場でパンの袋を開けて噛り付いたところで、僕が鞄を持っていたせいだろう、目ざとく見つけたおばさんは尋ねてきた。

「あら、具合でも悪いの?おばさんの仕事はもう終わりだから、帰るなら車で送ってあげようか」

「いえ、この後…」

 教室に戻るので、と続けようと思っていたのに、口が動かなかった。僕はあんなやつらのいるところに帰りたくなんかない。でも、逃げたと思われるのはもっとイヤだ。そんなの悔しすぎる。

「くっ…」

 意に反して、急に下腹部が鈍痛に襲われて、背中を冷や汗が伝った。

「ほらほら、無理をしないの。ここの鍵を返したらすぐだからそこで待っててね」

 不本意だったが、今回は甘えることにした。もう何がどう転んでも、これ以上悪くなるなんて考えられなかったからだ。僕が戻らなければ、奴らも頭を冷やすかもしれない。吉野先生だって、あの状況を見ているのだから推測くらいはするだろうし。

「すみません、お願いします」

 僕は売店のおばさんの赤い軽自動車で家まで送ってもらった。おばさんは僕の容態を気遣ってか車内ではあまり話しかけて来なかったのだが、その代わりに流れていたAMのD.J.の声がやけに甲高くて耳障りだった。

 お礼を言って別れたのは、まだ二時を回ったところだった。この時間、家に帰ったところで誰もいない。一眠りしたら気分も落ち着くだろうと希望的観測を抱きつつ、僕は眠りについた。

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