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僕らの空は――虹色のレシピ――  作者: 音和さいる
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1-2

(こんなはずじゃなかった…んだが…)

 そう思っている彼は淕上秀也。固まりかけたつくり笑顔で明後日のほうを向いて肘を突いている。

(今さっき、ハリネズミを一匹拾った…というか、ハリネズミだなんて反則だ!)

 などと、目の前に座ってぶすくれている人物に対して心の中で毒づきつつ、多少ならざる後悔に囚われていた。

 ごくありふれた日常の中に入り込んだのは、ほんの少しの同情心が生んだ災難だ。

 経緯は彼が祖母に頼まれた買い物を終えた帰り道、バイクで信号待ちをしていた時のこと。

 なにげに前を向いていると、向かいの信号を渡っている人影があった。

 それがどうもフラフラしているなと目を放せずにいると、その人物は横断歩道の途中でいきなり座り込んでしまった。そして、そのまま青信号が点滅していても動かないものだから、左折車にクラクションを激しく鳴らされていたのだ。

 秀也はそれをヤキモキしながら見ていたが、信号が変わる頃にはなんとかその人も歩道にたどり着いたようだった。

 ただ、どうしてもその後の様子が気になって、直進する予定だったバイクを、同じく信号待ちで止まっていた直進車をやり過ごしたところで無理矢理右折に変更し、歩道に沿うようにゆっくりと走らせた。スピードを落としたせいで多少バイクがぐらついたが、持ち直すのはそう難くはない。

 遠目では男か女かわからなかった細さだけが目立つ人物に並んだところで、秀也は声をかけてみることにした。

「おい」

「…」

「おいって」


 歩道を歩いていた人物は、ようやく自分が声をかけられていたのだと気付いた。

 ちょうど自分に併走しながら、一台のバイクがガナっていたのだ。

 ゴーグル付きのブラックラインのキャップメットに、排気ガス避けか花粉症なのか知らないけれど、顔を覆い隠すように大きなマスク。そこから唯一覗くのは、見知らぬ切れ長の瞳。

(僕、何もした覚えないし)

 湶琉は人違いだろうと、止めた足を再び動かす。すると程なく伸びてきた腕に右肩を掴まれた。細い肩に食い込んだ指先が容赦なく痛い。

「なんですかっ」

 いきなりの無作法者に返してやる笑顔なんて持ち合わせちゃいないと、睨みつけるように視線を返す。

「いや、だから…」

 一瞬怯んでしどろもどろになりながらもバイクの男は続けた。

「乗ってけよ」

「は!?」

 素直に驚きの声が出る。

「訳わかんねぇ。なんで知らねぇ奴の原チャに2ケツしなきゃなンねンだよ!?」

「いや…その…」

 思わぬ気迫に圧されたのか、秀也も一瞬怯んだ。しかし、

「お前…、死にそうな顔してるから」

 彼は真っ直ぐに湶琉の目を見据えていた。

(どういう意味…?)

 口をぱくぱくとするだけで、返す言葉を思い付かない。

「ほら、これ被れ」

 彼は自分が被っていたメットを湶琉の頭に載せると、シートの後部を叩いた。

 被せられたメットは、ぬるいし臭いしブカブカだし、正直言って投げ捨ててしまいたいような代物だった。

 それでもなんとなく抗いづらい流れで、湶琉は元々シート用ではない硬い後部に跨る。

(ノーヘルは違反じゃん)

 突っ込む間もなく走り出したのは、後ろのトラックからクラクションを鳴らされたからだ。反射的に辛うじて右腕が運転手の胴に巻きついたので、落ちることは無かったのだが。

 巻きついた…というのは腕を取られて掴めと言わんばかりに秀也の腹回りに固定されたせいだ。

 それで、湶琉はそのまま拉致られた(と、本人は意識している)。

 排気ガスに濁った風が、湶琉の投げ出した渇いた左腕にキリキリと噛み付いてきた。

「お前、どこに行きたいんだ?」

 秀也はバイクを走らせながら声を張り上げて何度か後ろに話しかけたが、全くもって答えはなかった。

 湶琉はただしっかりと回した右腕だけで掴まっていて、背中に頭をもたせ掛けて(揺れでメットが当たっていただけかもしれないが)いた。どんなにバランスが取りにくくとも、左手が前に回されることはなかった。

「仕方ねぇな」

 呟くと、秀也はそのまま自分が戻るべき「婆ちゃんち」を目指した。


 ほどなく着いたのは地元の小さな商店街の外れ。ここで秀也の祖母は食堂を営んでいる。

 祖父が生きていた時から二人でやっていた店で、今は一人で商っているのを秀也が手伝っている感じだ。年季の入った木造の店構えは、最近の古民家好きにはたまらないかもしれない。口の悪い人に言わせれば、単なるボロ家…否、秀也にとっては掛け替えのない大切な我が家だ。

 昔ながらのガラガラ音を立てる横引き戸を開け、暖簾の中に声をかける。

「婆ちゃん、ただいま。あ、朔さんいらっしゃい」

「おぅ、秀ちゃん」

 店には祖母の千夜と馴染みの客が一人。昼ご飯時はとっくに過ぎているので、間違いなく油を売っているだけだろう。

「お帰り。お使いありがとうね」

 彼女は手作業を続けたままこちらに目を向けると、いつもの笑顔の後に小首を傾げた。その視線は秀也の隣に注がれている。

 秀也にフードの首元を掴まれて誘導されてきた湶琉は、怒られたばかりの子供のように俯き加減で言われるままに付いてきていた。

「あ、ごめん。こいつに何か食わせてやって」

 秀也のあくまでも軽い一言にやれやれと顔を綻ばせると、千夜は厨房に戻った。

「また拾ってきたの」と言われなかったのは、今回は相手が人間だったからだろうか。

 それとももう慣れっこだからということかもしれない。

 縦長の店内は厨房を囲むようにL字型に配置されたテーブル席が四つに後はカウンター席しかない。秀也はその広くもない店の奥隅に陣取ると、スーパーの袋を奥に渡して慣れた手つきで二人分のお茶を運んだ。

 一応「店の人」なので、普通の行動である。いつものエプロンはまだ着けていないが。

 店の左奥の席についた湶琉は、店の中央に背を向ける形で力なく右半身を壁に預けていた。オーラとかそんなものが見えるのだとしたら、そこだけ思いっきり黒く澱んでるんじゃないだろうかと思うくらいの重さを伴っている。

(ホント、こいつどうしたんだ?)

 秀也は小さく縮こまった塊を見下ろしていた。なんというか、折りたためるものならどこまでも自分の存在を消してしまいたいかのような心もとない風情だ。

 そんな空気を読んだのか、前もってお勘定も終わっていたのだろう馴染み客は、「んじゃ、そろそろ」と帰っていった。気を遣ったのかもしれない。

「えっと…大丈夫か?」

 秀也は向かいの席に座りつつ、熱いお茶を勧めた。

 湶琉は動かない。勿論、返事一つない。

(さっきの勢いはハッタリかよ)

 秀也は訝しみつつも、何にせよ、ただ睨み合いをしているのもなんなので、ちょっと観察してみることにした。

 身なりは、そうおかしくない。地味なグレーの厚地パーカーにジーンズで、特に汚らしい感じはない。

 癖のない真っ直ぐなショートヘアは、視線を隠すかのように前髪だけやたらと長くて、そこだけが少しだけちぐはぐに見えた。

(…やっぱり顔色おかしくねぇか)

 顔に影を落とす髪の間から覗く肌は異様に白い。陶磁器のようにするっとした滑らかさの上に形のよい厚めの唇があって、(こないだ見たAVのフェラ女に似てる)と一瞬思い出してドキッとする。でも、ここにはあの誘うような色はない。すっきりした鼻梁の先がちょっぴり尖っているのは愛嬌がある…かもしれない。

 その時ふと、眼光が戻った。

「何見てんだ」

 湶琉は癖の強いハスキーな声で低音をかました。

(何?開口一番がそれ?)

(いや、見てたのは確かに認めるけど、他にも言うべきことはあんだろが!)

 そう思いつつも、一応事実は事実なので謝る。

「悪かったな」

 その答えに満足したのか否か、湶琉はフンと軽く鼻を鳴らすと再び目を閉じてぐったれた。

(どっちなんだよ、おい…)

 ここで冒頭の後悔に繋がっていたのである。

 秀也が未知との遭遇を持て余しかけたところで、厨房の千夜から声がかかった。

「秀也」

 カウンターにはトレーの上に簡単な定食メニューが並んでいた。

 湯気の上がる味噌汁に色鮮やかな野菜炒めを添えたしょうが焼き、小鉢で筍の煮付け。しょうゆの焼けた匂いだけでも食欲が出そうな代物だ。

「おむすび、すぐにできるから。これを先に持っていってちょうだい」

「ありがとな、婆ちゃん」

 彼女は握り飯を作りながらにっこりと笑い返した。

「ほら、好きなものだけでいいから、食っとけ」

 秀也は運んできたオレンジ色のプラスティックトレーごと、一式を湶琉の前に置いた。

 前に秀也の仲間が遊びに来た時には、「給食のトレーみたいだ」と言われたものだ。

 大量に仕入れるのならともかく、小規模の食堂なんかだと、どこもこういった規格品のトレーになってしまうのではないだろうかと秀也は認識している。

 湶琉はうっすらと目を開けて、でも身体は指一本動かすのもかったるそうだった。

「どうした?病院とか…行くか?」

「いい」

 切り捨てるように即答する。

「じゃあ、どうしたいか言ってみろよ。横になりたいとか、誰かを呼んでほしい、とかさ」

「男のお節介は……、ウザい」

 カチ~~~~~ン!!と、その時秀也の額の右上には反射的に起きたヒキツレがあった。

(いや、いかん。子供ごときに本気で煽られるなんて論外だ。冷静になれ!オレ)

 唾と一緒に咽喉の奥に何やらのもやもやを飲み込んで、秀也は言い返す。

「ほらほら、中坊のくせに意気がってんじゃね~よ。子供は甘えられる時は遠慮せずに甘えるもんだ」

 頭を撫でようと出された手を湶琉は音を立てて思いっきり払いのけると、再び眦を上げて睨み付けてきた。

「何だよ。ガキはガキだろ」

 追い討ちをかけた上で、秀也は余裕でこの場の勝ち名乗りを上げられる予定…だった。

「大学一年」

 ぼそっと返された湶琉の一言に、秀也のしたり顔も凍りつく。

(あ…失言?ちょっぴり冷ややかな視線をやや遠くからも投げかけられている気がするんですけど)


 天使の通る時間。

 五月だというのに、外はあんなに暖かかったのに、まるで全てが瞬間冷凍されてしまいそうな空気。

 またもや所在無く口ごもった秀也の、救いの神はやっぱり祖母で。

「お待たせ。おむすびは食べるかい」

 自ら運んできたおむすびを、いつもの笑顔とともに湶琉のトレーの隙間に置いた。

 楕円形の皿に二つ立てられた三角形のおむすびは、この店「むすび屋」の売りともいえる看板商品で、祖父が生きていた時から祖母しか握らない。ましてや昼時であっても作り置きをしない。店に入って来た人を見てから、そのつど祖母が握るのだ。

 外は寒かっただろうか、とか、この人は疲れているな、とか、その人の様子を見てから握る固さや米の種類(雑穀米か白米か、日によっては炊き込みご飯も)を決めるらしい。あまり多くを教えないので、詳細は孫の秀也にもよくわかっていない。

 千夜は「お前には教えなくてもわかる日が来る」とだけ言ったことがある。

 それに対して、「一子相伝かよ」と、秀也が突っ込み返したのも記憶に新しいところだ。

 見た目は、何の変哲もないおむすびに沢庵が二枚添えられているだけで、決して珍しいものではない。でも、それだけを「お持ち帰り」で注文に来る客もいるくらいなので、それなりに何かがあるのだろう。秀也には食べ慣れているものだから、そのありがたみはわかりようもなかった。

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