ACT.6 インディゴ・ワルツ 6-1
多分そうなるだろうという予想はしていたのだが、例によって湶琉は座り心地の悪いバイクの後ろに乗せられていた。
「こういう二人乗りって違反じゃないか」と尋ねたら、「一二五ccだから平気だ」と返された。どうやら違反にはならないらしい。バイクや車の免許と無縁な湶琉には、ぱっと見では原付との違いがよくわからなかった。
今日渡されたメットはぬるくはないが、相変わらずブカブカしている。まぁ、それに文句を言える立場でもないので、おとなしく被っていた。行き先は不明。「乗れ」と言われただけで何処に行くのかもわからない。秘密主義ではないようだが、そういうところは不親切だ、と湶琉は思った。
ただ、言えない秀也にも理由はあった。実のところ、彼自身が何処に行くのか決める前にバイクを走らせていたのだから。
(今更あいつらのところに連れて行くのもなんだし…。そうだな、いっそ)
それまでとろとろと走っていた秀也であったが、行き先が決まると一気に加速した。思いもよらないいきなりのGに焦るのは湶琉の方だ。
「うわっ!アブねっ。お前バカか!!」
身体が急に後ろに引っ張られたせいで伸びきった腕は、とっさの反射神経で不可抗力的に秀也の腰にしっかりとしがみつく形になった。しかも思いっきり意表を突かれたせいで心臓のバクバクは桁違いだ。
「ワリィな、しっかり掴まってろ!」
返答は形だけの謝罪で済ますと、秀也は再びアクセルを握り込む。
「くっそ!」
人の抗議を聞きもしないでと毒づきつつも、湶琉としては諸々の感情を飲み込んで従うほかなかった。
目がスピードに慣れていく。歩道を歩いている母子、追い越していく車、商品棚を並べ替えている店先…そんなものを流れるままに瞳に映しながら、もしかしたら天神あたりにでも行くのかな、などと想像していたりする。自分の思考の波の中に入った湶琉には、今自分が掴まっているものが何だとか、ごつごつと身体に伝わる振動がどうだとか、そういうことは何一つ意味を成さなくなる。何も考えていないわけではないが、意識が既に自分の身体から飛び出しているのだ。だからといって、どこにその飛んだ意識があるのかなんて本人にすらわかるものではない。
借り物のメットが暑苦しくて、髪の生え際や鼻の脇をじわりと汗が伝った。直に陽の当たる首筋も手でぬぐったら水滴を落とせるだろう。
「ここだ」
着いたのは天神ではなくその手前、もう少しで繁華街というところの親富孝通りだった。湶琉が一人でこの辺りに来ることはまずない。ゲームセンターやカラオケボックス、ネットカフェに飲み屋といった様々なお楽しみ処が立ち並ぶ、チープで薄汚れたイメージの歓楽街で、学生なら補導員に連れて行かれることを覚悟して足を踏み入れる、もしくはバトることを想定に入れてそのスリルを楽しむ、そういうエリアである。
ここは以前、文字通りの意味を込めて「親不孝通り」と呼ばれていたこともある。流石にイメージを考慮して、今の漢字に改めたらしい。ちなみにこの辺りから天神を挟んで橋を越えた先が大人のエリア、接待にはもってこいの夜の街中洲である。
「ここって…何?不良にでもなれっての」
秀也は面白いジョークでも聞いたかのように声を上げて笑った。対する湶琉は仏頂面だ。
「い~や、違う。オレのバイト先だ」
「ふぅん」
湶琉は口を尖らせたまま、かぶってきたヘルメットを手渡した。ようやく、むっとした閉塞感から開放されて、一つ大きく深呼吸をする。額ににじむ汗を手の甲で拭いながら、あたりをぐるりと見回した。なんとなく薄暗い通りには、びっしりと飲み屋が続いている。今はそうでもないが、夜になれば人通りも多くなるのだろう。
しかし、ここは暑い。暑くてしょうがない。部屋の中で涼めるのならば、どこでもいいから早くそうしたかった。
「待っていろ」と指示すると、秀也は奥の従業員駐車場にバイクを置きに行った。仕方がないので湶琉は一人、唯一日陰になっている店の前で待つことにした。夜になるとライトアップされるだろう「SEEDS」と書かれた飾り文字の看板がチェーンでぶら下がっていた。
「種か」
種、種子、根源、聖書では子孫。でもこれが「seedy」と語尾が「Y」に変わるだけで、見苦しいとか気分のすぐれないといった意味にもなる、と思い出したのは受験戦争で単語のメモリーがまだ新しい湶琉ならではの穿った見方であろう。
「湶琉」
奥に行った秀也が戻っては来ずにそこから声をかけてきた。
「こっち来いよ」
「待てっつったり来いっつったり、おれは犬じゃねんだよ」
湶琉も突っ立ったまま動かずに声だけを返した。
「ったく」
眉間に皺を寄せながらも、戻ってくるのは秀也である。
「はいはい、お子様はお迎えがないと動けないんだったな、すまんすまん」
改めて笑顔を作り直し、肩に手を回して連れて行こうとすると、その手は思いっきり掃われた。
「ざっけんな」
鋭い眼光は下からまっすぐに秀也を貫く。だが、その強さの奥に、あるはずの無い何とも言えない揺らぎを感じ、秀也は心臓をロックされた。以前読んだことのある物語が秀也の頭の中を過ぎる。
(まるで、メデューサだ)
そいつの目を見たら最後、見た者は石にされてしまうという髪の毛が蛇になった伝説の化け物。子供の頃は、化け物というのは根っから悪いやつで、やっつけていいもので、情状酌量の余地なんてなくて、と、そう思っていた。でも、もしかしたらそいつの瞳の内奥にも、今の湶琉のような揺らぐ炎がちらついていたんじゃないだろうか。それは、無意識の底から溢れ出す悲鳴のような危うさを孕んで、今にも…。
その瞬間の重みは、秀也の心に甘い痺れを伴う足枷を作った。視線を合わせるのも気恥ずかしいように、明後日の方を向いて頭を掻いている。
「…えっと、ワリィ。だがとりあえず、店の中ではおとなしくしてろよ。追い出されるからな」
「あぁ」
理由のわからない秀也の態度の豹変に湶琉は拍子抜けし、形だけの返事を返した。
「しっかし、お前ってマジで人によって態度変わるよな。どんだけかぶるネコ飼ってんだか」
「飼ってないし」
「って、言葉を額面通りに受け取んなよ」
「何だよ、うちは小さい頃からメダカ一匹飼ってくれなかったよ」
「はいはい」
微妙に会話が通じないのは仕方ないのかもしれないと、秀也も多少は理解し始めた。こいつはどれだけ周りとの接触を絶ってきたんだろうか、そう思い遣れる程度には。