5-3
月が替わって七月になった。ぐずぐず引っ張っていた梅雨が明けた翌々日の土曜日、湶琉はお昼過ぎの暇になりそうな時間帯を見計らって、「むすび屋」に顔を出すことにした。
土曜日は休みの会社も多いせいか、客の入りは普段よりも少ない。仕事人よりも家族連れの比率が高いのは普段の主婦の労をねぎらってというところだろうか。ちょうど入れ違いに店を出ようとしていたいかにも屈強そうなツナギ姿の作業員二人組に一歩譲ると、湶琉は通い慣れた店に入った。
「こんにちは」
外に出たがっていた涼風が美味しそうな香りをまとって身体の周りを吹き抜ける。食欲をそそる匂いに、反射的に鼻で大きく息を吸ってしまった。
目に入るのは手前端のテーブル席に、口の周りを汚しながら腕を振り回して騒いでいる子供を両親があやしている姿くらいで、他には客もいない。午後二時を回っていれば、まぁそんなものだろう。
「あら、いらっしゃい」
湶琉はカウンター席に腰を下ろした。
「今日は…千夜さんだけなんですか」
「そうねぇ、さっきまではいたんだけど、一段落付いたから出かけて行ったわ」
「そうですか」
湶琉はホッとしたような、それでいて何故だか残念なような微妙な心持ちに捕らわれていた。
「何か食べる?」
「あ、じゃあえっと…」
壁にかけてある板に書かれたメニューをざっと見て、湶琉は日替わり定食を注文した。一旦セルフ利用の給茶機のところに立ち、説明書きを読む。大学の食堂にも似たようなものがあったが、あれは冷水だけだったかもしれない。学食では熱いお茶は各テーブルにランダムに置かれたやかんから注ぐ。使いまわしのお茶は正直薄くて飲めたものじゃなかったけれど。ここの給茶機の設定は右が熱い玄米茶で左が冷たい水になっている。クーラーのきいた店内はそう暑くもないので、湶琉はホットの玄米茶を選んだ。
千夜は手馴れた手つきでフライパンを動かし、鮮やかな音を立てながら今日の日替わりメニューの餃子を焼き上げている。最後の仕上げで水溶き片栗粉を流して天使の羽をつけることも忘れずに。
千切りキャベツの乗ったお皿に湯気を立てる餃子が綺麗に並べられ、三つ葉で飾られたお麩のお吸い物と雑穀米ご飯、漬物が一緒にトレーにセットされると出来上がり。
「お待たせしました」
手際よく目の前に置かれた定食はあくまでシンプルであったが、見ているだけで唾が溜まるような芳しい香りは食欲をそそった。
「いただきます」
軽く手を合わせて千夜の顔を覗き見る。千夜はにっこりと目を合わせると、手元の台拭きで使ったばかりのキッチンを拭き清めていた。
「今日は学校お休みなの?」
「はひ」
行儀が悪いのはわかっていたが、口の中に熱い餃子を頬張ったまま湶琉は頷いて返事をした。はふはふと池の鯉のように口をあけながら食べる様子に千夜も思わず目を細めた。
お勘定を終えた最後の親子連れも手を振って帰っていく。それを受けて、千夜もカウンターに肘を付きながらにこにこと手を振り返していた。
店にはもう二人きりだ。一通り平らげたところでお茶を飲むと、湶琉はようやく本題に入った。
「実は…この間の話、やっぱり無理だと思うんです」
「この間のって、湶琉さんが秀也とお友達になるっていうアレ?」
「…そうです。お互い最初からいい印象持ってないと思うし、何て言うか…無理なんです」
言いよどみながらも、しっかりと拒否をする。一見大人しそうでも、譲れないものは決して譲らない頑固さが湶琉にはあった。
「お互いって、秀也もそう言ったの?」
「いえ、それは…」
「じゃあ、却下」
「え…でも…」
湶琉は戸惑いを隠せずに目線をうろうろと泳がせる。
「あのね、湶琉さん。少しあなたに聞いてみたいことがあるんだけど、いいかしら」
「はい」
居住まいを正したが、視線は斜め下を向いている。
「湶琉さんは大学生でしょう。じゃあ、何のために大学に行っているの」
「えっと、勉強…するためです」
「勉強して、どうするの」
「え?」
「湶琉さんが大学で四年間勉強するとするでしょう。その後はどうするの」
「いや、まだ別に何も…」
思いもしなかった問いに湶琉は困惑していた。千夜はあくまでもいつもののんびりとした口調で問いかける。
「湶琉さん。あなたが大学に行くお金は誰が出してくれているの」
「それは親…です」
「じゃあ、あなたが毎日食べるご飯や暮らしている家は」
「……」
「人が一人生きていくのにはお金がかかるのよ。それを今あなたは親頼みにしている、そうでしょう」
「はい…」
「そのお金はね、沸いて出てくるものじゃないわ。ほら、お婆ちゃんだって毎日何人分ものご飯を作って、それこそお客様一人一人から何百円かをいただいているの」
カウンターの上のすっかり食べ終わったトレーに両手を伸ばして、片付けながら千夜は続けた。
「そのうちあなたも自分で働いて稼ぐようになるでしょう。そうじゃないと、生きていくこと自体できなくなるもの。そして働くということは、毎日色々な人に出会うということでもあるわ。好き嫌い関係なくね」
湶琉は言葉を失っていた。無意識のうちに、カウンターの下に隠した左手首を右手でぎゅっと握り締める。どこかでわかっていて蓋をしてきた見ないようにしてきたこと。それが容赦なくこじ開けられようとしている。
当たり前のように親の保護下で育ってきた自分は、まるでそれが無尽蔵に与えられるべきものであるかのように何の疑問も持たずに受け取ってばかりいた。
あまつさえ与えられないことに文句を言ったり、「産んでくれなんて頼んでない」というような言葉で傷つけこそすれ、自分が自力で生きることやましてそれを与え返すことなんて考えてもみなかった。いつまでも奪い取って吸い取って、自分で立つことなんて…。でも、それでは…。眉一つ動かない強張った表情は、それだけに雄弁だ。
「お茶を入れ替えましょうね」
千夜はそれから少し席をはずした。湶琉には一人で考える時間が必要だと踏んだからだ。当の湶琉本人は、千夜の不在など既に頭の片隅にもなく、ぐるぐると回る衝撃に心臓を潰されていた。
〈イヤダ〉
(生きていかなきゃいけない理由って、何?)
(僕は逃げてるの?)
〈イタイ〉
(僕は…生きていてもいいの?)
(無駄なのに)
〈コワイ〉
(あとどれだけ苦しむの)
〈壊シタイ…〉
そう思うと、自然に双眸からほどけ落ちるものがあった。ツ――と頬を伝うのは例えようのない無力感。肩を落とす後姿は華奢な身体を更に薄く見せた。
その時千夜は厨房の奥でお茶を啜っていた。そう広い店ではない。決して声をかけることはないが、その位置からしっかりと湶琉の様子を見守っていた。
祈りながら。
願いながら。
彼女はただ、小さな愛を送り続けていた。
その時ふと視界に入った厨房の下に置かれたバケツが、あることを思い出させる。千夜は奥の棚から据わりのいい長めの花瓶を出して軽く洗うと、バケツに浸かっていたそれを取り出した。水道水を出しっぱなしにしながら斜めに鋏を入れて水切りをする。鋏を入れた一瞬、それはいっそう強く香った。白く咲き誇ったそれは一本の茎からとても重そうなしっかりとした花を二つもつけていた。おまけに蕾も一つ。まだ虫に食われていないラッパのように大きく外に広がった透白の花。まだ小さく青々しい蕾も愛らしい。
湶琉は食堂にそぐわないその強くて濃厚な香りにふと顔を上げた。目の前には活けられたばかりの大輪のユリが一本、その首をこちらに擡げていた。
「綺麗でしょう。さっき『庭に咲いたから』ってご近所さんに頂いたの。慌しくて忘れるところだったわ」
湶琉はただその香りに浸っている。多少花弁に残っている飛沫がキラキラと輝いて見えた。
「この花粉を取っておかないと汚れちゃうのよね。服に付いたら落ちなくて大変なのよ」
そう言うと、千夜はリズミカルにオレンジ色の花粉をぽつぽつと取り外していく。
「あ…」
白の中心からアクセントカラーのオレンジが消えるのがもったいなくて、思わず声が出た。それでも甘い香りは変わらない。本質は何も変わらない。ただちょっと寂しそうに見えるだけだ。
「湶琉さんみたいね」
「え?」
「白くて真っ直ぐで、とても綺麗」
「僕は…綺麗なんかじゃないです」
褒められても受け取れない、そんな価値を自らに感じられずに湶琉は俯いてしまう。
「そうね、今は望む通りの自分じゃないのかもしれない。でも、湶琉さんの本質はこの花と同じよ。だからこれから、思う自分になればいいじゃない」
「思う…自分?」
「そう、自分がなりたいと思う『自分』。あなたはもっと自分のことを好きになっていい。それこそ自分に謝らなくちゃ」
「え???な、何で!?」
あまりの驚きに声も裏返る。
「自分のこと、いらないなんて思ったでしょ」
「――何で、それを…」
「何ででしょうねぇ。ほら、とにかく謝って」
カウンターの上に置かれたユリの横に千夜は身を乗り出して言う。
「でも、なんて…」
「そうねぇ、じゃあ湶琉さんが今一番苦しいなぁとか、痛みを感じている場所はどこかしら?」
「多分…胸…だと思います」
「じゃあ、ハートに手を当てて、そう。ゆっくり深呼吸をして」
湶琉は目を閉じて自分の両手を重ねて心臓に当てている。トク、トクと規則正しく打つ音を手のひらが感じ取る。胸が…熱い。手も…。
千夜はその様子を見守りながら、口元を緩めた。
「ごめんなさいって。自分を大切にしなくてごめんなさいって。本当はすごく大好きで大切なのに、その気持ちを忘れていてごめんなさいって」
「ごめんなさい…」
吐く息と共に一言呟いただけで、湶琉の意思以上の涙が堰を切ったように溢れ出した。それ以上は言葉を続けることもできなくて、嗚咽に全てが掻き消される。
「いい子ね」
カウンターから出てきた千夜は、いつの間にか湶琉の横でその背中をさすっていた。
「たくさんの感情を自分の中に溜め込んで、外に出すことを忘れていたのね。それが今ようやく湶琉さん自身にも気付いてもらえて、なんだか『心』が喜んでいるみたいよ」
「…うっ…えっ……」
「喋らなくていいから、今はその感情を十分に全身で味わって」
湶琉は下を向いたまま大きく頷いて細い肩を揺らし続けた。千夜はリズムを取りながら歌い、その背中をゆっくりと叩く。歌詞も何もないハミングだけの歌はただそう優しくて、湶琉の心の隙間にすうっと入り込んでは溶けていった。溶けたものが身体中に、それこそ手足の指の先にまでじんわりと流れ広がっていく。まるで今初めて呼吸を始めたばかりのように全身が熱を持った。
「湶琉さんはお婆ちゃんにとっては他でもない、たった一人の湶琉さんなのよ。ちゃんと自分の足で立って、しっかり力を蓄えて、そして…そうねぇ。もう少し余裕ができたら、誰かを大切にできる人になってくれたら、お婆ちゃんは嬉しいわ」
千夜の指が触れるたびにその体温が身体に流れ込んでくる。
暖かくて、懐かしい。
(僕は…これから僕を作る)
(僕という花を咲かせるために、肥料を与えて水を与えて、千夜さんはこの枯れた大地を耕そうとしてくれているのかもしれない)
湶琉はその温もりをまた一つ胸に記録した。
花瓶の中のユリがカタンと揺れて向きを変えた。