4-2
上手く丸め込まれたのだろうか?
湶琉は後になって思った。
その日以降、千夜はそれとなく湶琉に「お願い」をするようになった。
まるで、子供に苦手な野菜を料理して出すみたいに、最初は小さく小さくすり下ろして入っていたものが、少しずつ形を現していくかのように。
「知らない人でも、ご近所さんには挨拶をしてみるといいわよ」とか。
「今日はどんな話題で盛り上がっているの」とか。
「朝ご飯は誰と食べた」とか。
普通の人にとってはごく日常の会話の要素でしかないものの一つ一つが、湶琉には徐々に重たくなる枷のように感じられたものだ。それでも何とかクリアしていけたのは、「千夜との関係で何かが広がる」と、胸のうちにおぼろげながらでも確信があったからだ。何より、それを実行することによって得られる何かは、仄かでも格別のぬくもりを心に灯した。千夜は湶琉がクリアできたことに対して、いつも身体いっぱいで喜んでみせる。それが意識的であれ、本来の性格による無意識のものであれ、湶琉にとっては光輝く勲章を受け取るかのような誇らしさを感じさせるものであった。
千夜からの質問の内の一つ。
「お母さんとはどんなお話をするの」
それが湶琉には一番堪えたものだった。何故なら相変わらず家では会話らしきものがなかったから。
困っていた湶琉に千夜はこうアドバイスした。
「朝はおはよう。昼は行ってきますとただいま。夜はお休み。まずはここから始めてみたらどうかしら」
それでも、近所の人への挨拶よりも躊躇いは大きかった。近くにいてもお互いにできるだけ関わらないようにしてきた関係。その何年か分の隔たりは、一朝一夕で埋まるものではない。何か切っ掛けでもあれば…、でも…。
その課題の日からしばらくは、湶琉の足も自然と「むすび屋」から遠のいた。梅雨に入って気持ちも浮かない。湶琉は再び薬に頼るようになった。
ただ、手首を切ることだけは辛うじて免れていた。嘘のような話だが、カッターを握ると何故か千夜の顔が思い浮かぶのだ。カチカチと出した刃を、声もなく見つめて、見つめて、見つめて…戻す。
そして泣いていた。
こうなるともう部屋から出ることもなく、ただ座り込んでうなだれて声を殺して泣いていた。
(もう嫌だ…)
(こんな弱っちいのは嫌なのに)
(何でこんな普通のことができないんだろう)
(ご飯を用意してくれて、学校に行かせてくれて、お小遣いをくれる)
(僕はまだ間違いなく親の庇護下にある)
(それなのに、僕は何もしていない)
(受け取ったものを返そうとも、もっと多くを与えようともしていない)
(僕はどこまでも子供で、ただ情けなくて)
(ほんの一瞬で済む挨拶すらできないんだ)
(何でこうなっちゃったんだろう)
(こんなで生きていく価値なんて僕にはないのに)
胸が締め付けられて重く、苦しくなる。自然と両手を胸に寄せ、手のひらで癒そうと重ね合わせた。
(僕は独りきりだ)
(誰も抱きしめてはくれない)
(苦しくて寂しくて痛くて)
(誰にも見つからず、僕はこのまま凍ってしまうんだ)
(外側から固まってがちがちになって、忘れた頃に内側からどろどろに腐って溶け出して…)
(って、もう腐ってるよ)
片頬を上げて小さく笑う。自分でもいやな癖だってわかっているのに、慣れてしまった自嘲癖。
(―――イヤダイヤダイヤダイヤダボクハボクヲヤメタイノニ!!)
背中が折れて身体が床に埋もれていく。自分がどんどん崩れて飲み込まれてしまう。
頭を抱え込んで、小さく小さく壊れていく自身をかき集めようと両の肩を抱きしめた。
足も腕も肩も指先も、また節々に痛みが走る。
―――――――――――――――――――――――――!!
声にならない叫びが体中を駆け巡った。
情けなくて悲しくて寒くて…もう六月なのにガタガタと震える。
口元が締まらない。涙も冷や汗も涎も流れ出るままになる。
好ましいことではないが、痙攣の発作には慣れていた。
きっと、もうしばらくしたら落ち着くだろう。
無理に動かなければいい。
こんな状態は人には見せられない。
勝手に心配されて、要らぬ世話を焼かれるのが落ちだから。
タオルなんか噛まされなくてもいい。ビニール袋も要らないし、過呼吸とも違う。
(もう…いい)
(一人でいい…)
(それより僕を殺してください)
息が詰まって死ぬのかもしれないと思ったこともある。
でも一度だって死ねたためしはない(だからまだこうしてここにいるのだ)。
(―――ドウシタラ死ナセテクレマスカ?)
いっそ手元にある薬をまとめて飲んでしまおうか、とも思う。
でも、全部集めても致死量にはならないだろう。
中途半端に脳味噌を破壊して馬鹿になったまま生きながらえるのもごめんだし…。否、いっそ馬鹿になれば何もわかんなくていっか、と考えたこともある。
(痙攣ってさ、見てる人が思うほど本人はきつくないんだぜ)
(ただ、身体が思うように動かせないだけで、ちゃんと見えてるし聞こえてる)
(あ、多分もうすぐ収まる)
―はぁ。
――はぁ。
―――はぁあ。
呼吸が整ってきた。
と、部屋のドアが開いた。
「湶琉!?」
母親が部屋に飛び込んできたのだ。
彼女に反応を返すでもなく、湶琉はまだぐったりとだるさに任せて身体を横たえていた。
目の焦点が合うのにももう少しかかりそうだ。
桜は慌てて湶琉の右手から何かを奪い取った。
湶琉は忘れかけていた記憶を引っ張り出した。
(あれ、なんだっけ?)
(そっか、さっき)
(カッター握ったままだった)
「湶琉。大丈夫、湶琉!」
湶琉の目の前には桜の膝頭がある。桜は視点の合わない湶琉の頬をぱちぱちと叩いて様子を見ている。
(そうか、朝だから起こしにきたんだ)
「おはよう、母さん」
湶琉は言った。千夜との約束を一つクリアしたのだと、心の中で喜んで。
本当は夕方だったのだが、それに湶琉が気付くのは翌日目が覚めてからだ。
しかし、その時桜もそれに応じた。
「おはよう、湶琉」
だから湶琉はそれだけで安心して、そのまま自分を手放した。
おはようの挨拶をして、眠りについたのだ。