Ep.2『見知らぬ、少女』
全身を切り裂かれていた。
その事実を認識するのは、頭の弱くなった現在のコクシでも、そう時間を必要としなかった。
肉体を駆け巡る耐え難い痛みに対し、衝動的に絶叫を上げんとするが――
「――――――――――ッ!」
声帯や喉笛、喉にある器官があらかた真一文字に切られ、掠れた声すらも出せない。えぐられて剥き出しになった喉の血管、神経、それらが風に撫でられ、体の肉を満遍なく針で突き刺すかのような激痛がコクシを包み込む。それと同時に、血液が火山の噴火のように噴出する。
体を、動かそうとした。
不可能だった。コクシの身体の中を這い回る神経は、ずたずたに裂かれたことで、その機能を喪失していた。
何が起こっていてるのか、把握しようとした。
不可能だった。コクシの脳には、ただ、痛みだけがあった。視界が赤く染まり、思考が爆ぜる。痛みを拒絶しようとする。
もがくことすらできない。
もはや呼吸することさえ、コクシには許されない。
そして、芋虫のような姿勢となり、虫の息となったコクシに、さらなる悪夢が迫る。
それは、先刻からに纏わりつく赤光――それが、形を変化させ、コクシの内部へと進み、侵食する。
そして、それはコクシと溶け合う。精神的にだが。
自分の意識が溶け、自分以外の何かと混ざっていく感覚。
己が記憶が、精神が、自我が、魂が、まったく別のモノへと造り替えられていく。想像を絶する嫌悪感と人にとって根源的な恐怖を伴うそれは、簡単にコクシの薄れる意識を呼び覚ます。
なんだ、これ――否、これは「誰」だ?
コクシの視界に映し出されたものではなく、脳に映された「誰か」を認識することができた。
――それは、赤い光を、ヴェールのように纏い、儚げな雰囲気を持つ、珊瑚のよう美しいに女性だった。
女性は、ゆっくりとコクシへ手を伸ばし、優しく導き、助けようとしている。
見ず知らずの少年の命を拾い上げ、救おうとしてるのだ。
コクシを、異世界に迷い込んだ哀れな少年に、暖かい、太陽のようなの優しさを注いでいるのだ。
コクシを、心から理解し、無償の愛を注いでいるのだ。
まるで聖母のような慈悲――それは『慈愛』だった。
コクシは、その祝福のような素晴らしい慈愛を受け――
この身を焼き尽くすほどの、度し難い怒りを覚えた。
ふざけるな。それが、光の正体だとでもいうのか。だとしたら、とんだマッチポンプじゃないか。『光』がコクシを傷つけ、傷つけられたコクシを、その下手人たる『光』が救済しようとしてるのか。とんでもない話だ。癪でたまらないし、勝手に哀れだと思われている。
だから――
誰が、テメェなんかに助けてもらうかよ。
そう、差し伸べられた手を、思い切り払いのけてやった。
そして――
◇◆◇◆◇◆◇
寝ぼけた時の感覚は、実に不可思議なものだと起きるたびにコクシはそう感じる。
夢と現実が、重なってごちゃ混ぜになってしまい、コクシは起きた時どっちが夢でどっちが現実か判断ができなくなってしまう。
――だから今、体中あちこちが痛い自分がベットの上で寝かされていて、黒い服を着た凄まじく美しく優し気な少女が自分の手を握っている光景は、夢か現実か。どっちなんだろう。
コクシは、少女の美貌に心を奪われていた。
宝珠を嵌めたかのような美しさを持つ瞳。
雪化粧を思わせる白肌。
腰まで届いた絹のような白い頭髪。
纏っている黒衣は、世界で唯一少女に触れることを許された一品だ。
黒と白だけ最低限の二色で構成されている、見事な美しさ。
まるで――いや、この世に存在するものでは到底少女の美しさを表現することはできまい。
そして、全身から見る者すべてを魅了する美貌を放つ、優しそうな少女はコクシから手を放し――
「体をあまり動かすなよ、全身皮一枚のところでつながってたんだからな......正直さ、そんな傷負って生きてるとは思わなかったよ。よっぽど生に意地汚いんだな、君」
「エッ⁉あ、おぉ」
「なんだ? なにそんなアホ面してるんだよ。ただでさえ醜悪なのに、もっとひどくする気か。気持ち悪い......」
――その美しさからは想像もできないほどの悪意を、真向からコクシにぶつけたのだった。