3.四月八日 午前十一時五十五分
【四月八日 午前十一時五十五分】
全校生徒で黙祷を捧げた始業式の後、午前中に学校を出た寧は、その足で山に向かった。道路に渡されたロープを跨ぎ、立ち入り禁止の札を無視して、土砂や倒木だらけの道を進む。青空の頂点に昇りつつある太陽が、地上に落ちる影を短くした。
こんな僻地のことが気になるのは今だけで、いずれは適当な高校や大学に進学して、寧はこの田舎を去るのだろう。それこそが理想とする普通の未来だ。
やがて木漏れ日が強くなり、山道の終わりに『ダム建設予定地』と書かれた看板と廃村が現れる。住人が立ち退いても工事の着工はまだなのか、建物の取り壊しは進んでいない。くすんだピンク色の煉瓦の舗道も、雑草に侵食されてはいなかった。美容院跡地と思しき建物の前で、寧は足を止めた。
低い煉瓦塀の花壇で、ツツジが赤い花を咲かせている。その後ろに佇む一本の桜の老木で、瑞々しい青葉が風にそよいだ。寧の腕に、鳥肌が立った。
明らかに、早すぎる。本来の桜は今が盛りで、ツツジの花期も先のはずだ。
三月二十四日に、寧はここで、死体を――否、瀕死の人間を見た。
あの出血では、助からない。結局は死体になっただろう。ただ、宮原苑華の訃報を聞いて、あの死体のことが気になった。そして、季節を先送りした花の他にも、さらに不審なものを見つけてしまった。
桜の木陰、死体が倒れていた地点に、しなびた桜の花びらに紛れて、偽物が落ちている。寧は、それを拾い上げた。
「答案用紙……?」
千切られた紙片には、数式と解が書かれていた。
なぜ、こんな物がここに。それに、この文字は――どこかへ繋がりかけた既視感は、背後から聞こえたソプラノの声に打ち消された。
「お待たせ。小鳩寧くん」
――心臓が、大きく弾んだ。寧は振り返り、絶句する。
溝畑桂衣が、そこにいた。制服のプリーツスカートを一幅の絵画のような美しさで翻し、無人の廃村を走ってくる。寧のもとまで来た桂衣は、友好的な笑みを振りまいた。
「クラスメイトなのに、話すのは初めてだよね。珍しい名前だから、入学した時から印象に残ってた。格好いいね」
「あ、ありがとう……」
そんな賛辞には慣れていた。風変わりな名前だけが、無個性という言葉を象徴した己を裏切っている。
それよりも、なぜ桂衣がここに。そう訊ねかけた時だった。
桂衣が、笑みの仮面を剥ぎ取って、冷たい声で言ったのは。
「こんな所に呼び出して、何の用?」
「え?」
唖然とした寧に、桂衣は詰め寄った。間近で見ると、可愛らしい顔立ちをしている。しかし眉は吊り上げられ、頬は怒気で染まっていた。
「愛の告白なら、もっとマシな場所を選ぶよね。人目が気になるような、後ろめたい話をしたいの? 例えば……」
桂衣が、低く言った。
「『宮原苑華の呪い』について、とか?」
「!」
寧の襟首を、桂衣が引っ掴んだ。弾みで腕からすり抜けた通学鞄が、桜の枝葉の下に落下する。木陰から押し出された二人の身体が、春の麗らかな日差しに晒された。
「ご、誤解だ! 俺は、溝畑さんを呼び出してない!」
「とぼけないで、自分の字でしょ!」
桂衣が、手紙を突き出した。水色の便箋に綴られた文字を読み、寧は目を剝く。
――『四月八日の午前十一時五十五分に、ダム建設予定地の美容院跡地に来てください。必ず一人で、時間厳守。小鳩寧』
紛れもなく、己の字だ。それに、この便箋は――寧が受け取った物と同じだ。呼び出しの日時と署名の有無しか、二通の手紙に相違点はない。
「信じてくれ、俺は書いてない!」
「言い訳しないで! 苑華ちゃんのお母さんに、自殺って決めつけた寄せ書きを渡したくせに! 苑華ちゃんは、自殺じゃない! あいつらが殺したんだ!」
「あいつら……?」
「山根たちのグループと、浅野春斗」
桂衣が、寧を睨みつけた。
「私が学校を休んだ三日間に、何があったのか。友達に聞いて調べたの。浅野が、学級委員の雑用を苑華ちゃんに手伝わせたのが始まりだった。優しい苑華ちゃんは、困ってる人を放っておけない。楽をしたい浅野に騙されて、一緒に放課後に残ってた。だから、顔だけはいいあいつの所為で、山根、川村、石塚たちの標的にされた」
寧は、今朝の浅野を思い出す。教室を出た桂衣が『殺人者』の存在を示唆した時、浅野は露骨に苛立っていた。
「苑華ちゃんは、自分から飛び降りたんじゃない。あいつらのリンチから逃げようとして落ちただけ! 唯一の目撃者も、突き止めてるんだから……」
最後の一言に、底知れぬ憎悪を感じた。身体に走った怖気から逃れるように、寧は目を逸らし――ぎょっとした。
さっき落とした通学鞄が、舗道から消えていたのだ。まるで、あの日の死体のように。
「私が風邪を引いてなかったら、こんな奴らの好きにはさせなかったのに」
桂衣が、涙ぐんだ。怒りと悲しみで揺れる瞳が、寧を捕えて離さない。
「苑華ちゃんが死ぬ前に、戻りたいよ……」
「あの……溝畑さん、俺の鞄が、消えて――」
寧が指摘すると、桂衣も視線を舗道に向けた。
――その瞬間を狙いすましたかのように、それは起こった。
ざあ、と風が吹き抜けて、枯れた花びらと答案用紙の切れ端を、車道の反対側の駐車場跡地にまで吹き飛ばす。舗道に目を戻した時には――通学鞄が戻っていた。
一瞬の消失と、出現。目撃者が寧一人きりなら、目の錯覚だと己に言い聞かせたかもしれない。だが、ここには二人いる。寧と桂衣は、顔を見合わせた。
「今、何が起こったの……?」