2.四月八日 午前八時十五分
【四月八日 午前八時十五分】
過疎化が進む町の縮図のような学校は、生徒数が年々減っている。クラス替えを経験したのは、小学生の時が最後だった。
これから向かう教室も、顔ぶれは二年生の時と変わらない。今はまだ、変わらないのだと信じたい。教室の前に着いた寧を、異様なざわめきが出迎えた。
「酷い……」
「誰がこんなことを……」
女子生徒たちが囁き合い、教室の入り口に集まっている。引き戸を塞がれた寧は、思案した。どいてくれという一言が生む波風すら、できることなら立てたくない。すると、背後から軽薄な声が掛かった。
「寧、おはよう。みんな、これは何の騒ぎ?」
女子生徒たちが、皆一様に表情を明るくした。爽やかに笑った声の主は、三月まで学級委員を務めていた浅野春斗だ。髪の毛先をワックスで緩く遊ばせていて、田舎の風景に張り合うように整えられた身だしなみと、瞳に時々浮かぶ剃刀のような鋭さが、寧はあまり好きではない。そんな内なる評価などおくびにも出さずに、寧も「おはよう」と返して薄く笑った。
「大変なの。あれを見て」
女子生徒たちが道を開けて、寧は浅野と教室に入る。そして、彼女たちに引き戸を塞ぐつもりはなかったのだと理解した。
教室の誰もが、窓際や黒板前に立っていたのだ。中央の机を円形に避けて、遠巻きに見守っている。青い芳香が甘く漂い、寧は呻いた。
「これは……」
空席の机の一つに――花瓶が置かれ、大輪の百合が飾られていた。
しかも、花瓶が置かれた席は――。
「宮原苑華の席じゃない……」
強張った声は、隣から聞こえた。浅野春斗だ。笑みは削げ落ち、鬼気迫る表情で花を見ている。きっと寧も、浅野と同じ顔をしているのだろう。無個性な自分は、他者の感情に容易に染まる。そんな己が薄気味悪く、つい口走りかけた口癖を、冷静に呑み込む。寧はその独り言を、他者の前では絶対に口にしない。代わりに、違う台詞を告げた。
「あの席は……山根さんの」
山根は、最近になって一躍有名になった女子生徒の一人だ。派手な部類のグループに属していて、素行の悪さが目立っていた。あの事件が起きた、二月までは。
教室を見渡すと、山根と同じグループの女子たちは、真っ青な顔で花を見ている。当の山根は、姿が見えない。主のいない机の上に、俯く少女の横顔に似た百合から花粉が零れ落ち、橙色の血だまりを作る。
「山根さん、事故を起こしたらしいよ」
「自転車で坂道を下る時に、ガードレールに衝突して……」
「ブレーキが壊れてたって、本当?」
誰かの悪質な冗談なのか、山根の身に本当に何かがあったのか。飛び交う憶測に紛れて、誰かが禁断の一言を告げた時だった。
「宮原苑華の呪い、だったりして」
その疑惑を、凛と否定するように――女子生徒が一人、教室の中央に進み出た。
窓からの白い斜光が、ツインテールの少女を照らし出す。机の花瓶に手を掛けた少女は、喪に服するような黒いセーラー服が、この瞬間の誰よりも似合っていた。桜よりも濃い桃色のスカーフが、日差しを浴びて輝いて見える。少女の友人たちが慌てて「ケイちゃん、やめなよ」と叫んだが、少女は悠然と笑みを返した。
「苑華ちゃんは、誰かを呪ったりなんてしないよ」
溝畑桂衣だ。明るく屈託のない性格で、多くの友人を持つ少女であり――二月から入院している少女の、親友。
負の情念がこもった花は、陽光を生き血のように啜って照り輝き、毒々しい花を捧げ持って歩く桂衣の立ち姿は、対照的に清らかだった。
「呪いなんて、ない。他に何かがあるとすれば、それは……」
教室を出ていく桂衣と、引き戸の前にいた寧が、すれ違う。
花の香りが遠ざかる刹那、桂衣がこちらを見た。
浅野春斗が、顔を引き攣らせる。
「苑華ちゃんを見殺しにした、殺人者くらいだよね」
教室の数人が、息を呑んだ。山根のグループの少女たちだ。桂衣が去り、始業五分前の予鈴が鳴る。浅野春斗が動き出し、通学鞄を自分の席に叩きつけた。
やがて教室に来た教師は、二人の欠席者の名を告げた。
一人は、山根。足を骨折して入院するという。
もう一人の欠席者は、二度と来ない。寧は、前列に座った溝畑桂衣を盗み見た。
ツインテールの後ろ姿は、毅然と背筋を伸ばしていた。親友との別れをとうに知っていたかのようだった。
こうして、二月末に学校の屋上から転落し、生死の境を彷徨っていた宮原苑華が、四月四日に死んだことを、寧たちは知った。