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それからと言うもの、俺と三島の関係はさらにこじれていった。
もうキスのひとつだって油断できないと拒絶を続ける俺に、三島は手を変え品を変え、あらゆる方法で加害を迫った。
「っ……いい加減にしてくれ」
今もそうだった。
早めに終わった部活のあと、忘れ物をしたからと戻った教室で、俺は三島に引きずり倒されていた。
まだ夕暮れには早い教室内で、馬乗りになった三島が俺を見下ろす。あのときと同じアングル、あのときに付けた耳の傷を見上げた。赤黒いそこは、まだちっとも治りきっていない。表情が歪んだ。
「乗り気になれない?」
目の前にカッターナイフをちらつかせ、三島が笑う。「なるわけねえだろ」と吐き捨てた。
きっ、と彼を睨み上げる。この角度は、光景は、心臓に良くない。
押し倒された体勢から身をよじった。抵抗をはねのけて、起き上がろうとする。
だが、目の前でカッターの先端が、ぴたりと痩せた首筋に押し当てられた。びくっ、と身体が固まる。悪魔じみた笑い声。
「宗像が下手に動くと……刺さっちゃうかもな」
「っ……」
息を呑んで動きを止める。見上げた先、やわらかい皮膚に、少しだけ沈んだ刃物の先端。もう少し押し込んだら血が出てしまう。ぞくり、とした。慌てて欲望を振り払う。
目を逸らし、ゆっくりと身体の力を抜いていく。ぐたりと床に横たわると、嬉しそうに三島が笑った。「お利口」と満足げな呼びかけに、目元が歪む。
「我慢しなくていいのに」
楽しげに覆いかぶさられ、耳元にささやきが落ちてくる。
握っていた手を、やんわりと指の一本ずつ開かれた。無防備に開いたそこに、そっとカッターを掴まされる。
「……我慢なんかしてない」
「それは説得力なくない?」
「してない」
「嘘つき」
だってこんなに震えてる、と誘うような声がした。指先が、喉仏をつうっと撫でていく。思わず唾を飲み込んで動いたそこに、三島がうっすら目を細めた。「なあ」と甘ったるい呼びかけ。
「ほら、ちゃんと握って。ほんとは首がいいけど……腕とか胸でも我慢できるから」
ゆるゆると、カッターを握らされた手を、てのひらで包まれる。きゅっと握り込まれ、持ち上げられて、俺は嫌だと首を振った。
「嫌だ……俺は、おまえの望むようには」
「そんなの、とっくになってるくせに」
「それでも、嫌だ……っ」
ふうん、と意にも介さない声。かりかりかり、と神経質な音を立て、俺の親指を使って刃が送り出される。
長く伸びたカッターを、俺の手ごと見せつけて、ほら、と三島が俺を誘った。
「いいんだ。宗像になら、なにをされても許すよ。友達だろ、俺たち」
「っ……違う。俺たちは、友達じゃない」
最初から、今だって、俺とおまえは友達じゃない。そんな演技だけの関係を、嘘まみれの欺瞞を、免罪符になんかしたくない。俺はおまえと友達になんかなりたくない。でも。
ふ、と三島が息をついた。少しだけ冷めた目が俺を見下ろす。薄いくちびるが、無造作に開かれた。
「じゃあ──友達じゃないなら、なんなの」
しん、とした声だった。ぴく、と指先が震えた。
そろそろと、俺にまたがる三島を見上げる。彼はなにかを探るような、問いかけるような、深い眼差しで俺を見つめていた。くちびるが、かすかに動く。
「それ、は──」
友達じゃない。なら、俺たちはなんだ。
問いかけに、どうしてもうまく答えられない。なにもわからない、と思った。
三島の誘いに乗りたくない。人間でいたかった。落ちてしまいたくはなかった。
でも、その理由がどうしても、俺にはちゃんと答えられない。
俺を押し止めるものなんて、もうひとつも残っていない。失うものすら何もなくて、こうまでして落ちるのを耐える理由なんかどこにもない。
三島は俺を置いて、ひとり先にあちらに行ってしまった。そして悪魔みたいなささやきとキスで、同じ場所まで俺を引きずり落とした。
だけど本当は、俺はそこに行きたくはなかったのだ。
たとえ母がいなくなっても、守りたいものも守ってくれるものも、何ひとつなくなってしまっても。俺はどうしても、三島の思うようにはなりたくなかった。
(でも、なんのために? 誰のために?)
それだけがどうしても、わからない。
蝶を殺して、マウスを殺して、猫を飛び越え、三島に惹かれて、悪魔に魂を売るようなことばかりしてきた。三島の首に手をかけた。その肌に爪を立てた。刃物だって使った。罪ばかり重ねてきた。
(それでも)
俺は本当は、落ちたくなんてなかったんだ。
人間でいたかった。友達でもなんでもない三島と、一緒に。
どうしてと、何度も自分に問いかけた。答えはやっぱり、見つからない。ただ悲しみと後悔だけがじくじくと胸を満たして、俺は泣きたい気持ちになる。
必死に耐えて、それでも目元が熱くなることだけは堪えきれずに、ずっ、とかすかに鼻をすすった。三島のため息。
「……やっぱ、いくじなしだよ、おまえ」
呆れきったような、失望のような声が落ちた。ほぼ同時に、ぐっ、と両手首が押さえつけられる。
え、と口が半開きになった瞬間、
「ッ──!?」
俺に乗り上げた三島が、ガッ、と背後の机を蹴り飛ばした。
けたたましい音を立て、椅子を巻き込み、机がいくつも倒れていく。
「な──」
思わず上体を起こしかけたとき、三島の手で肘を引っ張られた。
かくん、とバランスが崩れる。ぐらついた上半身、「うわッ」と声を漏らす。ぐるっ、と視界が回った。
どっ、と咄嗟についた片手の横に、三島の顔と、床に散らばった髪が見えた。
体勢が入れ替わって、俺が三島を組み敷く形にされる。
「おまえ、なにし──」
言いかけた言葉が消えた。三島が、すうっ、と微笑んだからだ。
ぞっ、と嫌な予感がした。思わず飛び退こうとして、でも、三島の方が早かった。
「宗像」
ほとんど掠れ声、みたいなささやきと共に、ぱしっと手首を掴まれる。
宙に浮いたままの、カッターを握ったほうの手を。
「あ──っ」
しまった、と思っても遅かった。思い切り手首を引き下ろされ、抵抗が間に合わない。
ひ、と喉の奥で声が潰れるのと──俺の握った刃物が三島の頬を切り裂いていくのは、ほとんど同時だった。
「ッ……!」
ビッ、と血が飛んだ。床に点々と散らばる赤い点。
ざっくりと耳の横まで頬を切られて、すぐ傍に突き立ったカッターの刃先が、音を立ててぱきんと折れる。
くるくると回転しながら床を滑っていく刃を、自然と目で追って、そして──
閉めたはずのドアが開いていることに気が付いた。
一瞬で血の気が引いた。
そろそろと視線を持ち上げる。いくつもの靴、立ち尽くした男女複数の人影、完全に青ざめた表情が並んで、俺と三島を呆然と見つめている。
「あ……っ、ちが──」
けたたましい悲鳴が、俺の声をかき消した。「先生ッ!!」と叫びを上げ、女子が数人、走っていく。身を起こし、あ、とドアへと手を伸ばしたとき。
「……見られちゃったな」
どうしても笑みをこらえきれない、みたいな声で、三島がささやいた。明らかにわざとだと、嵌められたのだと、俺に思い知らせる声音だった。
かっ、となって三島を問い詰めようとする。だが俺がなにを言う間もなく、室内に駆け込んだ男子たちが俺を引き剥がした。
「待て、違う!!」と叫ぶのを、落ち着けと怒鳴られて封じられる。
「違う! そうじゃない、俺は──」
「三島、大丈夫か!?」
「……うん、俺は、平気……」
わざとらしい弱者の声。腕を掴まれ、助け起こされた三島が、かすかによろめいた。
渡されたハンカチで頬を抑え、痛々しく俯く。だが、眼鏡越しの視線がちらりと持ち上がって、笑うみたいに細くなるのを、俺は確かに見た。
「っ──三島、おまえ……ッ!」
「怖かった……」
「ッ……!!」
完全な大嘘だ。でも、それを疑う人間は誰もいない。
糾弾の目がいくつも向けられる。そうじゃない、どんなに首を振っても、信じてはもらえない。
「違う、俺は、そういうんじゃなくて、放せ……ッ!」
放してくれと叫びながら、羽交い締めにされて、ずるずる三島から引き離される。
数人がかりで押さえつけられ、本気で力を込めても振りほどけない。「いい加減に落ち着け!」と怒鳴られて、違う、という悲壮な叫びは、誰にも聞き届けられることはなかった。
三島は、俺から少し離れたところで、うつむいたままじっとしていた。俺の必死な呼びかけにも、燃えるような視線にも、ぴくりとも動かなかった。
そうこうするうちに、廊下からばたばたと高い足音が聞こえてくる。
「今、先生来たから!」
「こっちです、こっち……!」
ばたばたと大勢に踏み込まれ、一方的に踏み荒らされる。違うと叫んで身をよじって、羽交い締めにされた力がますます強くなる。
「三島くん、もう大丈夫だから、保健室行こ? 歩ける?」
「だ、大丈夫……歩けるから……あっ」
「大丈夫じゃねえじゃん! 掴まれって」
「ありがと……」
クラスメイトに連れられて、三島がドアに向かって歩いていく。
「待て……!!」と叫ぶ声はあっという間に腕力で制止された。
「待てよ三島……っ!」
「宗像も落ち着け!! 行かせろ早く!」
「ほら、行こう。ゆっくりな」
「うん……」
よろめきながら遠ざかる、痩せた体躯。全身に力を込めて暴れて、でも、それ以上の力でねじ伏せられる。
教師と女子に連れられて、三島が教室のドアをまたぐ。
三島が最後にちらりと投げた一瞥は、完全に〝罠にかかった獲物〟を見るそれだった。
かっ、と頭の後ろが熱くなる。
「っ……三島──ッ!!」
一瞬で脳に上った血、それが下がりはじめるより先に。
からりと動いた戸板が淡く笑う三島の横顔を隠していって、ぱたん、と閉じた。




