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とても小さく、食器に箸が当たる音。それから、カップをテーブルに戻すときのかすかな音も。
二人ぶんの生活音の中、言葉らしきものは一つも見当たらない。朝食の席はあまりにも静かだった。
ダイニングに差し込む光はうっすらとしていて、消え入りそうに淡い。それは季節のせいではなく、時間帯のせいだった。
夜から朝になるぎりぎり境界の、五時少し前。
早すぎる朝食が並ぶダイニングで、正面に座る三島は淡々とコーヒーを飲んでいる。俺はといえば、さっき口にした卵を最後に、完全に手が止まってしまっていた。
食欲なんて微塵もない。でも、それを言うこともできない。
どうしようもなく疲れていた。身体も、心も。
いっそ痛ましいほどの沈黙の中、三島がコーヒーを飲む。嚥下する喉仏のはっきりした動き。薄くとがったそれを見つめて、俺はわずかに目を細めた。ひどい気分が押し寄せるのに耐えた。
────【後編 / 02】 蛹室にて────
──俺の時間を止めてくれ。
あの言葉が、泥のように心の底にこびりついて、離れない。
昨夜は眠れなかった。
いつまでもてのひらに残る三島の感触が怖くて、背を丸めて逃げるみたいに目を閉じた。それでも、いつまで待っても眠りは訪れてくれなかった。
たまにうとうとするだけの夜を過ごして、耐えきれずに起きたのが午前四時。
七月ともなれば日の出は早い。ひとっ走りすればすぐ夜明けだと、ごそごそ着替えて外に出た。
夜の終わりかけの空は曇っていて、星も月もひとつも見えなかった。うっすらと湿った空気の中、スニーカーの紐を結び直して走り出した。
いつもよりずっと長距離を、ペース配分もなにもかもめちゃくちゃにして走った。なんでもいいから身体を動かして、ひどい気分を振り切りたかった。
結果として、気分転換はできなかった。
どんなに身体を追い込んでも、息が上がるほど無茶な走り方をしても、三島のあの、悪魔みたいなささやきが頭から離れなかったのだ。
うっすらと東の空が明るくなって、死にたくなるような夜明けの兆候が見えた。
もうどれだけ走っても無駄だと悟った俺は、汗を拭って家に戻った。
ダイニングには明かりがついていて、三島がいた。父は泊まりだったため、家の中は二人きりだった。
まだ夜が明けるか明けないか、という時間にも関わらず、テーブルには朝食の用意ができていた。普段三人で食べるのとは違う、そこそこきちんとしたものだった。
「……どうしたんだ、これ」
「勝手に台所触って悪いけど」
今ひとつ噛み合わないやりとりに眉を上げる。
「食材は」
「実はちょっとずつ買い足してた」
聞いてみると、毎晩デリを届けている業者の、宅配スーパーサービスに頼ったらしい。「お金なら自分で出したから」という三島にため息が出た。
「レシートよこせ」
「いいって」
「父さんがこういうのうるさいんだよ。体面に関わるって」
「……探しとく」
淡々と言うと、三島はいつもの席に座った。俺も彼の正面に座る。
卵焼きだの味噌汁だのが並ぶ食卓は、なんだか自分の家じゃないみたいだった。
ちらと顔を上げる。わざわざ食材を買い足したというくせに、三島の前に皿はひとつも並んでいなかった。コーヒーの入ったマグカップがひとつあるだけだ。
「おまえは」
「食欲ない」
「……」
眉根が寄る。ほんと、そろそろ強制的にでも食わせないとぶっ倒れるんじゃないだろうか。
そこまで思って、俺にそんなことをする義理はない、と思い直す。昨夜聞いた『宗像って、俺のことばっか気にしてるよな』の声が蘇った。そのあとの、母さんについて挑発された言葉まで、鮮明に。
ぐっ、と頬のあたりに力がこもる。三島がマグを持ち上げて、ちら、と俺を見た。食べないのかと促すような視線。俺は努力して三島から視線を逸らすと、いただきます、と告げて箸を取った。
正直なところ、食欲なんて微塵もなかった。それでも作ってもらったものを残すのは気が引けた。仕方なく口に運んだものの、胃袋はまったく刺激されず、結局手が止まってしまっている。
まだ朝がはじまりきっていない、うっすらした明るさの中で考える。
三島がなんのつもりで朝食なんて作ったのかはわからない。ただ、昨晩の出来事が関係しているのは明らかだった。
目を伏せてマグを持ち上げる三島の頬に、一筋の赤い傷跡。背後の壁は投げつけられたグラスのせいで、壁紙の一部が剥がれかけていた。
あんな安い挑発に、乗るつもりなんかなかった。
明らかに、俺に加害されたくてわざと放った言葉だった。今ならばそれがわかる。いくら母を持ち出されたからといって、物を投げつけてしまったのを後悔していた。
しいんとしたダイニングの隅っこで、三島がマグに口をつける。嚥下の動作、喉仏がはっきりと上下する。ひどい気分になった。
(……投げつけた、だけじゃない)
真っ暗な自室の中で、惹き寄せられるようにベッドに上がった。痩せた身体に馬乗りになって、細い首に手をかけた。
未成熟な、少し尖った喉仏に親指が触れた、あの感触。今でも鮮烈に思い出せる。
あの瞬間、俺はどこまで本気だったのだろう。
誘われて、時を止めてくれと頼まれて、組み敷いた身体には抵抗など一つも見られなくて。わけのわからない感情で、泣きながら首を絞めた。
腹の底で現象が動き回る気配があった。連れてこられた欲望が俺を凶暴にした。でも、同じくらい強く、まだ行きたくない、という痛切な感情が、かろうじて俺を押し留めた。
(もし、あのとき、戻れなかったら)
三島はきっと死んでいた。俺の手で。
ぞっとする。
止めていた箸を下ろして、震える息を長く吐いた。俺は、と口の中だけで唱える。
──俺は、おまえの思うようにはならない。絶対に。
それは強い決意のような、弱々しい抵抗のような、なんとも言えないつぶやきだった。
「宗像」
完全に箸を下ろしてしまった俺を見留めたのだろう。三島が静かに俺を呼んだ。
たった四文字の言葉の中に、三島の感情はひとつも見て取れない。なにもかも前と変わってしまったと思う。あんなに愚かで、単純で、わかりやすくて、誰よりも誠実だったのに。
「……っ」
ゆるゆるとうなだれる。これから三島は、ずっとこんな風に生きていくのだろうか。時間を止めて、終わりを望み、ひどい言葉で人を煽って、殺されるのを待つのだろうか。
最悪の気分だった。もう、自分の中のなにをどこに持っていけばいいのかもわからない。
どうしてこんなことになっているんだろう。俺も三島も、なにか悪いことをしたのだろうか。
ああでも、三島はともかく、俺のほうは、
(とっくの昔に、悪魔に、魂を──)
蝶を殺した。マウスを殺した。猫は殺さなかったけれど、俺の前には三島が現れた。耳元に深い青を光らせた、天敵みたいな、悪魔みたいな男。
これは罰なのだろうか。
悪いことなら死ぬほどしてきた。嘘ばかりついてきた。心など誰にも許さなかった。生き物をたくさん殺した。最低の所業ばかりだった。
だから今、こんなことになっているのだろうか。
うなだれたまま、自分を打ち据えるものにただ耐える。
ぼそりと、ひどく掠れた声が出た。
「…………おまえ、もう、帰れ」
つぶやきはあまりにも小さくて、かすかだった。
それでもダイニングはあまりにも静かだったから、その音を三島は正しく拾ったようだった。
小さく息を吐く音と、マグがテーブルに戻される、かたっ、というかすかな音。
がたりと椅子をずらし、三島が立ち上がる。目の前で人が動く気配。
「わかった」
言われることなどとっくに予想していたのだろう。とても静かな、淡々とした返事だった。
顔を上げると、三島はとっくに席を立って、ダイニングのドアへ向かっていた。空っぽのテーブルに、飲みかけのコーヒーだけが、次第に湯気をかすかにしていく。
ドアの向こうで、階段をのぼる音がした。しばらくして、荷物をまとめたと思われる三島が、玄関を出ていく音があった。鍵が回る音はしなかった。三島は合鍵を持っていない。
それきり、しいん、と静かになる。俺はじっと食卓に視線を落としたまま、感情に耐えていた。
不釣り合いに丁寧だった朝食が、食べられることのない料理たちが、視界の中で行儀よく並んでいる。
「……っ……」
なんでこんなもん作ったんだよ。
絞り出した問いかけに、答える声はもちろんなかった。
食欲などひとつもない。それでも、残すなんて選択肢は考えられなかった。歯を食いしばって箸を握った。
ひとりぼっちの家の中、少しずつ朝がはじまってくる。ゆっくりと部屋が明るくなる。空梅雨の、淡くて薄い陽光が、なにを思って作られたかわからない朝食を照らしている。
朝食を食べ終えるまで、三十分かかった。慣れない洗い物を不器用にこなして、シャワーを浴びてから一人で登校した。
教室の真ん中で、今さらなんの意味もないのに、いつもと同じ完璧な顔を作り続けた。
バカみたいな話で友人たちと笑い合っても、いつまで経っても、三島は教室に現れなかった。
先生が来て、ホームルームがはじまっても、三島の空席は変わらなかった。
昼休みになっても、午後の授業が終わっても。
その日三島は学校を欠席した。
連絡すらなかったと聞いたのは、放課後になってからだった。




