77
「……どういうことだよ」
放課後の生物室で、俺はようやく三島を問い詰めた。
二人して鞄を置いて、落ち着く間もなく声をかける。俺の詰問を予想していたようで、三島はただ黙って小さく息を吐いた。
「なにが」
「なにがって……」
ぐっ、と言葉に詰まる。
目の前には痛々しいガーゼ。まだ新しい血の滲む口元。
あからさまな異常事態、それでも、どこまで問うていいのか。
三島が耳元に触れた。かすかにヘアピンを整える仕草。至近距離で光っている、なにも隠すもののない、青いピアス。
ぞくりとこみ上げるものを、かろうじて耐えた。
思わず目を逸らす。三島がくすりと笑った。
どこか諦念じみた眼差しが、静かに伏せられる。
「期末考査ぜんぶ白紙で出したら、夜中に学校から電話がかかってきてさ。母親が泣きわめいて大変だった」
笑み混じりの軽い口調が言った。
なんだそれ。信じられない気持ちで、もう一度、なんなんだそれは、と思った。
呆然とした声が漏れる。
「おまえ、……なに、やってんだ」
「うん。なんだろうね」
三島はただ静かに微笑んでいる。その目には、いつものおどおどした様子も、怯えやためらいといったものも、なにひとつ浮かんではいなかった。
ピアスひとつ付け替えただけで、目の前の男がまるで別人に見える。
明らかに――今までと様子が違っていた。
どうしたんだ、なにをされた、大丈夫なのか。そんな言葉を既のところで飲み込む。
こんな男にかかずらってやる義理はない。一方的な嫌悪と反発が、俺の心配を押し留めた。
だって三島は俺の天敵で、最低の男で、こんな奴を選んだせいで、俺は、母さんを。
「……っ」
ぎりっ、と手を握りしめる。黙って俯いた俺に、三島の吐息が小さく笑う。
それきり彼は淡々と、じゃあ部活をはじめようか、と言った。これ以上なにかを話すつもりもなさそうだった。
そうされてしまえば、俺の方だってもう話すべきことはない。頷くしかなかった。
状況は、まったくいつも通りではない。それでも俺たちは、いつものように電流ケージを用意した。
任された平常マウスの世話をしながら、三島がさらりと言う。
「今日は解剖もするんだよな」
今までの三島では考えられない、あっさりした口調だった。うまく答えられず、黙り込む。三島がまた笑った。
俺は逃げるように視線を逸らす。なんだこれは、と何度目になるかわからないことを思った。いつもとまるで立場が逆だ。翻弄されている。
ぐるぐるした思考をよそに、ほとんど現実逃避の自動行動、いつも通りの習慣を、俺の身体は勝手に実行する。
決まりきった手順で電流ケージを用意して、マウスを詰め込み、バッテリーの電源を入れる。ぶうん、と起動音。がたっ、と椅子に座り、いつものように脚を組む。
目の前では、ほとんど無気力になったマウスたちが、狭い空間にひしめきあっていた。
普段なら強制的に心臓が高鳴るはずなのに、まったくその気にならない。どろついたものが胸の内側を汚す、どうしようもない感触。
ボタンを押すのが怖かった。もし通電を行って、なにも感じなかったら。ひとつも高揚しなかったら、物足りなかったら。
俺はもう、マウスではどうしようもないところに来てしまった、ということだ。
虫は殺した。マウスは殺した。猫は殺さなった。でも、三島は。
ちらちらと脳裏をよぎるのは、今日一日、目に焼き付いて離れなかった青いピアスだ。
その端にちらりと見えるピアスホールのかさぶたを、誰がつけたのか、俺は良く知っている。あの〝現象〟が、どうしようもない衝動が、今はただ怖かった。
それでも、実験を中止するわけにはいかない。俺はためらいながらもボタンを押すと決め、ゆっくりと手を伸ばそうとした、そのとき。
すっ、と背後から影が落ちた。
痩せた腕が、俺の脇を通り過ぎていく。
え、と思う間もなかった。白い指先が、がちん、と躊躇なくボタンを押す。
(な――っ)
ケージが揺れて、引きつったマウスの悲鳴。
漏れ出したかすかな悪臭。見慣れた光景。
恐る恐る背後を振り向いた。
そこには、軽く身をかがめた三島が、とても静かに微笑んでいた。その指先はまだボタンに当てられていて、いつでも力を込められるようになっている。
「なに……してんだ」
呆然とした声が漏れた。三島は当たり前のように言う。
「実験。俺だって部員なんだから」
「それは……」
よくわからない表情で笑う三島。痩せた指先が、もう一度がちん、とボタンを押し込む。掠れきったマウスの悲鳴が上がる。
三島は動じない。まったく反応しない。信じられない思いで三島を見上げた。
「反応、あんま返ってこないな。順調ってこと?」
ごく当然みたいに問いかけられて、反射的に頷く。
三島は薄く口の端を持ち上げて、
「そう。じゃあ――たしかめないとな」
まるで飲み物を選ぶみたいな口調で、言った。
それがなにを意味しているのか、わからないはずもない。
バカみたいに見上げた視界の真ん中で、三島はただ静かに微笑んでいた。
見たことのない表情。なにか決定的なものが変わってしまったような。
「ほら、宗像」
三島が呼びかける。
まるで誘惑みたいな口調に、俺はなすすべもなく頷いていた。
かち、と音を立てて解剖道具を机に並べていく。
しょせん小さなマウスだ。器具の数など、さほど多くもなかった。あっという間に準備は終わってしまう。
テスト前、薬品の使用許可願を出したのは三島も知っている。今日が解剖の日というのは、周知の事実だった。でも。
(それにしたって――さっきのあれは、なんだ)
いつもの三島とまるで違う。豹変としか言いようがない。
わざとらしいヘアピン、青いピアス、とても静かな、あの微笑み。
よくわからない予感とうっすらした恐怖が、俺の背をかすかに震わせた。
最後に麻酔の準備を終えて、俺は小さく息を吐く。
「宗像」
「ッ……!」
思った以上に近くから呼びかけられて、びくりとした。
隣を見れば、息がかかりそうな距離に三島の顔がある。薄く目を細めて、硝子レンズ越し、なにか危うい色の目が、俺にそっと問いかけた。
「どうして解剖するんだっけ」
「え……い、胃潰瘍の有無を――」
「違うよな」
(な――ッ)
ほとんど被せるように放たれた言葉。あきらかに、確信を持った口調だった。
絶句した。完全に、見抜かれている。
強烈な予感に身の底が震えた。三島が笑う。
「なあ、どの子がいい?」
まるで買い物で迷ってるみたいな口調だ。
あまりにも三島らしからぬ声のトーンに、俺はうまく返事ができない。
三島は眼鏡の向こうで何度かまばたきをすると、くす、と目を細めた。
「じゃあ俺が選ぼうかな」
すっと身を離し、痩せた指先がマウスを順番に指差していく。神様の言う通り、と軽やかな歌声。続く文言は俺の知っているものとは違っていた。それがなんだか得体の知れない感じがして、怖かった。
楽しそうな声が消え、ぴっ、と指先が一匹のマウスを指し示した。
「じゃあこいつな」
にこりと言う三島。
初めてのはずなのに、三島は実に手慣れた様子で、手順通りにバッテリーの電源を落とした。なんで、と口走る俺に、当たり前の顔で言う。
「え? いや、いつもおまえがやってるの見てたから」
「そう、だけど……」
会話の最中も手を動かし、ぱちん、ゴム手袋を身につける。俺がいつもやっていたのと、良く似た仕草だった。
無造作にケージに手を突っ込んで、三島が無抵抗なマウスを掴み出す。ぴくぴくと手足を震わせるマウスを台の上に仰向けに転がして、彼は正面の椅子を俺に譲った。
「楽しみだよな。なあ、傍で見てていい」
「三島は――」
バカみたいな声の問いかけに、三島は楽しげに首を振った。
「取っちゃうのは、ちょっとな。ほら」
解剖バサミを渡されて、俺はただ三島を見る。
彼はどうぞ、という風に肩をすくめた。
「いや、まだ麻酔……」
「え、いる? それ」
ぐっ、と喉の奥が詰まった。こんな言葉が三島の口から出るなんて、信じられなかった。
なにを言ってるんだ、と言おうとして、くちびるがちっとも動かない。
三島の手がとん、と俺の肩に乗った。なあ、と誘惑みたいな声がする。
「どうせもう弱ってるし。いらないだろ、麻酔」
「いや、でも」
「それにおまえ――そっちの方が、いいんじゃないの」
ひくっ、と口元が震える。やっぱり、見抜かれている。
すぐ隣、天敵みたいな男が、俺の耳元に口を寄せる。ほら、と呼びかけられて、あからさまな餌につられ、腹の底で〝現象〟が動き出す気配。
(ちがう、いやだ、俺は――)
指先が欲望に震えた。ぐらぐらと縁の縁で揺れながら、母さん、と何度も唱えて、耐えようとする。
なぜ耐えようとするのかなんてわからない。母さんはもういないのに。この男のせいで、最低の別れ方になってしまったのに。
それでも耐えるのはたぶん、惰性とか慣性とかそういうものだ。今までの行動を、もはやなんの意味も残っていないのに、ずるずると続けているだけ。
いっそ流されてしまった方が楽かもしれない。誘惑が脳裏をよぎった。あちら側へ誘うその言葉は、思った以上に俺を惹きつけた。
「宗像」
やわらかい声が呼びかける。俺は迷って、ためらって、歯を食いしばって。
「……今日は、やめる」
震えながら、かろうじてそう答えた。握らされたハサミを置いた。
かすかな沈黙。
数秒ののち、三島は「そう」とつまらなさそうに言った。
かたん、と小さな音を立て、三島が椅子に腰掛ける。台の上に転がされたマウスが、力なく身をよじった。
俺はゴム手袋をつけると、そっとマウスをケージに戻す。他のストレスマウスも全部取り出して、通常のケージに戻す。今日ばかりは、筒に詰める気にもなれなかった。
久々の自由だというのに、マウスたちはただ無気力にじっとしている。急性ストレスによる精神病のマウスは、おそらく完成しているのだろう。そっと蓋を閉じた。
肘をついて、窓の外をぼんやり眺めている三島。用をなさなくなった解剖道具の前でじっと座る俺。
空梅雨の、なんとも言えない薄ぼんやりした光が生物室に差し込む。どこか白けたような沈黙が、室内に満ちていた。
もはや片付ける以外に意味のない解剖道具たちが、曇り越しの日差しでかすかに光る。規則的に並ぶ器具たちを見下ろしていると、ぽつり、と三島の声がした。
「……お願いがあるんだけど」
ゆるゆると顔を上げる。三島は俺のほうを見なかった。
「しばらく、宗像んちに泊めてくれる」
淡々とした静かな言葉に、俺はなんで、と尋ねる。三島が視線だけを動かして、そっと俺を見た。
横顔の頬に張り付いた大きなガーゼ。三島が口の端をちろりと舐める。そこにはまだ新しい、血の滲む傷があった。三島の家で、〝なにか〟あったのは明らかだった。
「……」
強烈な沈黙。泊めてくれというのはどういうことか、もし俺が泊めなかったら三島がどういう目に遭うのか。
だいたいの理由と事情を悟って、俺は静かに目を逸らす。三島が「そういうこと」と笑った。
ピントの合わない視界の中、銀色の解剖道具たちがぼやけて並んでいる。
すぐ傍で、三島が小さく息を吸う音がした。
「宗像が、駄目って言うなら、いいけど」
口調だけは笑み混じりのくせに。三島の語尾は、かすかに震えていた。
なにが三島を震えさせたのかはわからない。それでも、このまま帰せばどうなるか。うっすらとした予感が、俺に拒絶をためらわせた。
長い長い躊躇があった。
絶対にごめんだという反発、こんな男どうなろうと知るかという憎悪、それと同時に訪れる、三島が悪いわけじゃない、という冷静な思考。
このまま放り出してもっと酷いことになったらどうするんだという、常識的な考え。
この男にだけは関わってはならないという本能の警告。
俺はとても長いあいだ迷って、何度も口を開きかけては閉じて。
とうとう、
「……わかった」
そう呟いていた。
三島は、かすかに震える息を吐いて「ありがとう」とささやいた。




