76
それから、三日間の期末考査がはじまった。
初日と二日目、俺は話しかけてくるクラスメイトにいつもの笑顔でヤマを教え、軽口を叩きあい、この上なくひどい気分で答案を埋めた。
こんな状況なのに、もうなにも守るべきものなど残っていないのに。いまだに〝完璧〟を維持している自分がバカらしかった。
三島とは目も合わさなかった。テスト中に視界に入る雑に伸ばした黒髪を、見ないようにずっと目を伏せて過ごした。
幸いにして、三島も俺を見なかった。形ばかりの、薄っぺらい平穏がそこにはあった。
そうして、テスト最終日を迎えた。
朝の教室、俺はいつものように友人たちの最終追い込みに付き合っていた。
暗記項目を覚えているか、互いに出題しあう。俺は自分のくちびるが、勝手に〝適度なミス〟を口にするのを、バカみたいだと思いながら聞いていた。
俺は友人からの問いかけに答え終わると、スマホの単語アプリを起動した。出題者交代の予感に、友人が頭を抱える。
「あーもうやだ……やっと今日で終わりだよ。ほんっとつらかった」
「ははっ、もうちょっと頑張らねえと、追試で〝終わり〟が遠のくぞ」
「やめろ宗像、俺に現実を見せるな……!」
「嫌なら頑張る。ほら、もういっぺんやるぞ」
「ううう……早く部活やりてえ……」
「ぶつくさ言うな。はい第一問」
彼の言う通り、今日から部活動が再開する。テスト後の午後がまるまる部活に使えるから、生研部では今日はマウスの解剖をする予定だった。だが。
(……気が重い……)
正直なところ、あの日以来、俺は自分の感情の持っていきどころがわからないままだった。
生研部の活動なんて、まったく気が進まない。平常心で部活を行える自信がなかった。
三島への嫌悪や憤りは、この三日でじわじわと変化を見せていた。
憎しみがあることは変わらない。あのとき三島を選ばなければ、母とひと目会えていた。それは事実だ。
でも、あの日仮に、三島を選ばなかったとしても。俺の行為が撮られていた以上、破綻なんてすぐ目の前に見えていたのだ。
母を奪われたことと三島は関係ない。三島が関係しているのはただ一点、終わり方がどうだったか、それだけだ。
(本当に恨むべきは、……俺自身なのに)
それでも、憎しみも憤りも、まるで消えてくれない。
当たり前だった。狂人と罵られ、今後の監視を宣言され、誰より大切な母を奪われて。それで合理的かつ冷静でいられるほど、俺は大人なんかじゃない。
俺はただの未成年だ。世の中を泳いで渡る力のない人間だ。
十七歳の半年前、選挙権もない年齢。たった一人の大切な人を、守ることもできない未熟な子供だ。
それなのに、母はあちら側ばかり見て、まだ子供の俺を守ってはくれなかった。残してくれた言葉さえ、今となっては意味を失っている。
それでも傍にいられれば良かったのに、母は父の手によって、どことも知れぬ場所へ連れ去られてしまった。もう、俺を守るものはなにもない。
それもこれも全部三島のせいだ、という感情が、むらむらと勝手に湧いて出る。
三島のせいじゃない、三島が加担しているのはごく一部の要素でしかない、言い聞かせても感情は身勝手に俺の内側を荒らしていく。ため息を押し殺した。
酷い心の中を完璧に隠したまま、単語アプリを操作する。同じ場所ばかりで躓く友人に助言をして笑い合っていると、がらっ、と教室のドアが開く音がした。
しいん、と急に教室が静かになった。
(なんだ――?)
俺はスマホから顔を上げ、扉の方を見る。
開かれた場所から、痩せた男子がひとり、教室の中に一歩入ってきた。
三島だった。
その頬には、大きなガーゼが貼り付けてある。ガーゼの隙間から覗く頬は赤黒く腫れ上がっていて、口の端が切れて血が滲んでいた。
淡々とした無表情な顔が、怪我のせいで左右非対称に歪んでいる。目の周りもどことなく腫れぼったい。
明らかに――誰かに殴られたとしか思えない姿だった。
(み、三島……?)
どよめく周囲を気にもせず、三島は淡々と席についた。
鞄を机のサイドにかけて、ごそごそと中身を取り出している。最低限の筆記具だけ取り出して、彼は教科書も参考書も出すことなく鞄を閉じた。
俺はただ、呆然と三島を見るしかできなかった。
友人も、言葉を失ってぽかんと彼を見つめている。
三島を中心に、ひそひそと、さざめくような声が広がっていった。
気遣いと心配と好奇心が複雑に入り混じったそれを、三島はまったく気にした様子がない。
奇妙なざわめきで満ちた教室の中、三島は俺をちらりと振り返って――くす、と笑った。
三日ぶりに、三島の姿をちゃんと見た。
昨日まではそんなことなかったのに、サイドの髪がヘアピンで留めてある。そしてあらわになった耳元には、学校には絶対につけてこなかった、青いピアスが光っていた。
透明な海の底みたいな、深くてきれいな青色の。
「っ――!」
ぞくっ、とした。
安全だと思っていた教室内で、入ってはいけない心の奥に、一瞬で踏み込まれる気配。
腹の底、臓物の中身を直接、やわらかく撫でられるような感覚。
呆然と三島を見つめた。
うまい言葉なんて一つも思い浮かばない。バカみたいに見つめることしかできなかった。
絡むように視線が交わり、三島が淡い笑みを浮かべる。
切れてしまった口元が、ゆっくりと動いて、言葉の形を取る。
『またあとでな』
音にならない声、口の動きだけでそうささやくと、三島はとてもかすかに、笑った。
海の底の色が、耳元でちかりと光っていた。




