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父にメールを入れて、三島を泊めることを短く告げた。
数分もしないうちに、今夜は帰れないから父のぶんの夕食を振る舞うように、と返ってきた。
突っ立ったままの三島の横を通り過ぎ、ため息交じりにカーテンを閉めた。一気に部屋が夜になった。
手探りで電気をつけて、ようやく明るくなった部屋の、ダイニングに三島を座らせる。
「もうすぐ、夕飯届くから」
「うん」
静かな頷き。三島はまだ、髪を耳にかけたままだった。透明な色がちらちらと目の端で存在を主張して、俺はぞわつく自身を持て余す。
とりあえずと対面に座って、三島を見ないためだけにテレビを付けた。
夕方のニュースは淡々と今日の出来事を告げている。なんでも、今年の空梅雨っぷりは観測史上初らしい。農作物の生育が心配です、とキャスターが深刻そうに話していた。
おおむね悲劇ばかりを伝えるニュースを、肘をついて眺める。三島の方は見ない。
だが、三島のほうは俺をじっと見ているのがわかった。静かな視線が、頬のあたりを撫でていく。
観察されているような、もっと別の何かが向けられているような、よくわからないちりちりした皮膚感覚。ぞわぞわと落ち着かない。
ああ駄目になっている、と実感した。
俺の中で眠っている〝現象〟が、餌をしきりにちらつかされて、ともすれば動き出しそうになる気配。
目の前の男から放たれる、得体の知れない静かな視線。目を背けてそれに耐える。
母さんの笑顔をすり切れるほど思い浮かべて、頬杖をついた手を震わせて、俺はひたすら三島を無視した。デリが届くまでの三十分が、異様に長く感じられた。
ようやくチャイムが鳴ったとき、俺は心底ほっとした。
顔なじみの配達員から食事を受け取って、簡単な挨拶のあとダイニングに戻る。足取りが重くなるのを避けられなかった。
「……飯、来たけど」
「へえ。宅配なんだ。言ってくれたら作ったのに」
「うちの冷蔵庫、なんもねえよ」
「じゃあ無理か」
まるでいつも通りみたいなやりとり、だけどその視線ばかりが、いつもとまるで違っている。
俺は沈痛な面持ちで三島の視線から逃げてばかりいたし、三島は逆になにか問いかけるような眼差しで、ずっと俺を目で追っていた。
届いたばかりのデリを広げて、対面に座って一緒に食べた。あんなにひどい顔で、帰りたくない、と泣き言をこぼしていたはずの三島は、驚くほど淡々とした様子で箸を口に運んでいた。
ちら、と見上げた視線に気付いたのか、三島がそっと俺を見る。さっと逸らした俺に、三島はごく小さく笑った。
こんな状況でなんで笑えるんだ、と思うのに、それを問うことはできなかった。俺の中で動き出したなにかが、正体のわからない良くない予感が、俺の口をひたすら重くさせた。
交代で風呂に入って、夜が深くなったころ。
三島にベッドを使わせて、俺は隣に敷いた客用布団の上に横になった。断りもなく電気を消す。三島はなにも言わなかった。
見慣れない角度の天井を見上げて、目を閉じずに長い間ぼうっとしていた。呼吸や身じろぎの気配から、たぶん三島も、そうしていた。
いつもと違う様子の三島を、正直警戒していた。でも意外にも、彼はなにもしてこなかった。ベッドの上の気配は、動くことなくじっとしている。
(……よかった)
こみあげる安堵に嫌気が差す。
なにひとつ良くなどないのに、そう思う自分が嫌だった。
でも、もし今、三島がなにか仕掛けてきたら。
こんな状態で、現象に耐えられる自信がまるでなかった。どんな酷いことをしてしまうか、自分で自分がわからなかったのだ。
知識なんてもう何の意味もない。母はいなくなってしまった。
俺の傍にはもう誰もいない。なにも俺を守ってはくれない。
ぎりぎりの縁で、母のためだけに耐え続けてきたのに、なにもかもは壊されてしまった。
(母さん……)
失ったものを実感して、じわりと涙じみたものがこみ上げる。腕で目を覆って、苦しい息をそっと吐き出す。
その夜はいつまでも眠れなかった。たぶん三島も、そうだった。




