72
自宅前の角を曲がった瞬間、目を疑った。
見覚えのあるスーツが、玄関前で俺を待っていたからだ。
ひたひたと、嫌な予感が押し寄せる。くちびるを噛み締めて不安に耐えて、俺は気付けば止まっていた足を、ため息交じりに動かした。
玄関に向かって、数歩近付く。うろたえたように立ち止まった背後の三島に、ぐいと鞄を押し付ける。うわ、と小さな声は、ほとんど耳に入らなかった。
父の目が、鋭く俺を捉える。それをじっと睨み返して、俺は呆れ混じりの声を出した。
「あのさあ。だから嘘の予定を──」
「またやったんだな、達也」
「……」
相変わらず、前置きとか、段階とか、そういう情緒をまるで介さない父親だ。思わず舌打ちが漏れた。
心臓が、冷たく脈打っている。ほとんど確信じみた、嫌な予感に身が震えた。
昨日の夕方、三島の家から帰ってきて以来。あの〝現象〟はどうしても大人しくしてくれなかった。俺の内側でうずまくどろどろした感情を餌に、いつまでも大きくなり続けた。
朝になってもそれは悪化するばかりで、俺は耐えきれずに蝶を殺した。かなり念入りに埋めたはずだが、あの父のことだ、俺以上の執念で掘り当てた可能性は十分ある。
「やってない。ていうか、庭先をぼこすか掘り返すの、いい加減やめろよ」
ほとんど無意味な抵抗だとわかっていても、そう言うしかできなかった。
父がここまではっきり断言するのだ。おそらくは、限りなく証拠に近いものを握っているに違いない。
訪れるのはなにか冷え切った諦め、それよりもっと強烈な恐怖。震えそうになるのを必死で耐える。
父が糾弾じみた声を出した。
「おまえが言うのか、それを」
「だから、やってないって言って──」
けれど今回、父のターゲットは俺ではなかった。鋭い目が俺の隣を見て、手招きの仕草。三島がえっ、と口を半開きにして、疑うようにあたりを見回した。
「え、えっと……なんですか」
「三島くんだったか。君にも証人になってもらう」
「え……」
父は無言で、スーツの内側からスマホを取り出す。俺は顔をしかめ、震えながら、おそらくは確実に訪れるどうしようもないものを、どう受け止めたものかわからずにいた。
父が、すっとスマホをこちらにかざす。動画だ。映っているのはどう見てもうちの裏庭で、それで俺は、父がなにをしようとしているのか悟った。
さっ、と血の気が落ちる。ばっと三島の方を振り返って、動いた。
「ッ……やめろよ! 三島は関係ないだろ!」
どうしてかわからない。でも、こみ上げる、三島には見られたくない、という感情が、俺を衝動的に突き動かした。
父と三島の間に割って入って、やめろ、と食って掛かる。
父はどけ、と短く俺に命じた。反射的に命令を聞いてしまいそうになる自分に、うんざりした。
「おまえがしたことを、人様に見てもらうといい」
「それで問題になるのは俺だけじゃない、父さんもだ」
父は支配的な人間だ。他人を巻き込んで、ことを大きくして、人を従わせるのに長けている。でも。
それでも──三島だけには、見られたくない。理由はわからない。
父は嘲るような声で、脅しの質が悪いな、と言った。
「どきなさい」
「やめろ」
「どくんだ、達也」
「よせよ!」
ぐっ、と肩を掴まれて、それでも、どくことはできなかった。三島はおそらく、俺の行為を知っている。直接見てはいなくても、うすうす察しているだろう。それなのに、どうしてこんなに三島に見られたくないのか、わからない。それでも──引き下がるわけにはいかない。
ほとんど揉み合い、みたいな状況になって、俺はやめろと連呼する。状況は最悪で、俺の立っている道が絶望にしか続いていないことは明らかで、それでも、諦めたくなかった。
それなのに。
「いい加減にしろって! 三島も、……──」
せめてもう少し背後に下がってもらおうと振り返った、そのとき。
三島の目が、呆然と見開かれているのが、見えた。
その瞳ににじむのは、驚愕と、それからなにかの確信だった。
もしかして、と震える声が勝手に漏れる。すうっ、と血の気が引いていくのがわかった。
「──見えた、のか」
三島が、黙って頷いた。
よくわからない暗い感覚で、ひくっ、と喉が鳴る。もうだめだ、と思った。
俺はだらりと両腕を垂らし、ただ立ち尽くすしかできなかった。
父がはっ、と笑う気配が、どこか遠くで聞こえてくる。
「監視カメラをしかけておいて正解だった。静江の妄言も、たまには参考になる」
「……そういう言い方、するなよ……」
普段だったら怒るような言い回しに、この程度の抵抗しかできない自分が情けなかった。
怖くて、不安で、頼りなくて、これから待っているものが恐ろしい。
負の感情がいっぱいに俺の内側を満たして、震えてしまいそうになる。
父は心底軽蔑する、というような声で、言った。
「やはり狂人の息子は、狂人というわけか」
(っ──母さんは……)
あの春の光景が、ぶわっ、と一瞬で蘇った。
抱きしめられた感触、あたたかな温度、春先の西風、タンポポの色、うす青いきれいな空。
大切に落とされた、俺を守ってくれるはずだった言葉。
──あの美しいものを、否定しないでくれ。
「母さんは関係ない!!」
思い切り叫んだ。びりびりと鼓膜が震えて、それでも構わなかった。喉が裂けてもいいと思った。
だが父は動じた様子もなく、ため息をつく。またそれか、と呆れたような声。そして。
「おまえ、隠れて何度も静江に会ってるそうだな」
「……ッ!」
それは約束された絶望に向けて、また一歩、歩みを進める言葉だった。目隠しをされて、長い板の上を先端に向かって歩かされるような。
じわじわと、足元からせり上がる恐怖が、俺を混乱させていく。やめてくれと思う。それでももう結末は決まっていて、どうしようもない。
「……ちがう……」
「看護師を問い詰めたらすぐ話してくれた。なんだったら、証言書を書かせてもいい」
「そうやって、すぐ他人を巻き込むの、やめろよ……」
「おまえも同じやり方をしたばかりだろう。三島くんをだしに使って」
ちがう、と言おうとして、できなかった。三島が俺をかばったのは本当だ。それが俺の関知しない出来事であったとしても、どんな手を使っても俺を断罪したい父にとっては関係ない。
(もう──……)
とにかく、と父が話をまとめにかかる。怖い。やめてほしい。これ以上言わないでほしい。今すぐ時を止めてほしい。そんな願望、叶うはずがない。
「おまえには失望した。なにもかも完璧にこなすから、父さんの満足するような人間をやってみせるから、着替えの差し入れだけは許してほしい。そう言われたから、ここまで譲歩してやったんだ。それを……親の期待を裏切って」
どうしようもない出来損ないにかけるような、苦々しい、吐き捨てるような声だった。胸の底で震える小さな抵抗が、俺のくちびるをかろうじて動かす。
「父さんの期待なんか知らない。俺は、俺はただ、母さんに会いたくて──」
「だが、おまえは約束を破った。それも、二つも。だったら、わかっているな」
「……っ!」
とっくの以前に、言われることがわかっていた言葉だった。それでも、実際に耳にすると、その刃は容赦なく俺を刺した。
絶望的な気持ちで、そろそろと顔を上げる。父は忌々しいものを見る目で俺を見下して、断罪を宣告するみたいな口調で、言った。
「約束を破った以上。もう二度と、おまえが静江に会うことはない」
「な──っ」
表情が凍った。約束なんて言葉でも、あれはたしかに契約だった。破ればひどい罰がある、そんなこと、わかりきっていたのに。
待ってくれ、と自分のものじゃないみたいな声が出る。俺の懇願を無視して、父ははっ、と吐き捨てた。
「やっぱり、温情をかけたのが間違いだったか。何度も言っただろう、おまえのためを思ってのことだと言うのに──」
「……俺のため?」
心臓の奥、胸のいちばん底から、ふざけるな、という気持ちがこみ上げてきた。
いつもいつも俺のため、宗像家のため、そんなことばかり繰り返して、母の聡明を褒めそやしていたはずなのに、病気になった途端放り捨てて。俺のことだって、道具みたいにしか思ってないくせに。
「っ──なにが俺のためだ、俺の発育に悪影響、ってなんだよ!? 父さんは母さんの語る言葉が怖いだけだろ!? でも、病人が語る物語に本気で巻き込まれるほど、俺だってもう子供じゃない!」
「だったらあの蝶はなんだ! おまえも母親の仲間だろうが!」
「それは──」
(やめろ)
こんなことで、俺の汚い行いで、母の名前を出さないでくれ。
あの人はなにも悪くない。ただ病気なだけ、ずっと苦しんでいるだけだ。俺がおかしいのは母さんのせいじゃない。
(だったら、俺は、なんのせいで──)
わからない。どうしてこんなことばかり起こるのだろう。
多くを望んだ覚えなんか一度もない。
みんな健やかで、幸せで、平和だったらそれでよかった。悪いことなんてひとつも起こらなければよかった。
それだけのことが、どうして、叶わないんだろう。
言葉を失った俺に、父が勝ち誇ったように鼻を鳴らす。いいか、と低い声がした。
「あれは知らないところに転院させる」
「え──待っ、待ってくれ!」
今すぐに、という口調に、俺は慌ててすがりにかかる。だが父は侮蔑的な表情を浮かべるだけだった。
「今から私は病院に向かう。その足で手続きする。どこへ移すかは教えん。探し回っても無駄だ」
「な、そんな、待って、それだけは」
「なにを言ってももう聞かん。おまえの嘘も言い分も聞き飽きた」
「いやだ、頼む、なあ……だったらせめて、一度だけでも顔を」
「駄目だ。おまえは来るな。転院の書類を覗き見でもされたらたまらんからな」
「じゃあ、声だけでいい、頼むから……!」
「ったく……いい加減にしろ!」
「あ──っ」
取りすがった腕を激しく振りほどかれ、俺はふらりとたたらを踏む。
その横を、父が荒々しくすり抜けていく。
(いやだ、だめだ、お願いだから)
「待ってくれ……!!」
ほとんど涙じみた叫びに、父は振り返らなかった。スーツの背中が、吐き捨てるような言葉を投げつける。
「いいか、狂ったふるまいは二度とするなよ。おまえを監視しているからな!」
「待っ……──」
その背中は振り返らない。大股が遠ざかり、どんどん小さくなっていく。
絶望的な気持ちで目を見開いて、息がひとつもうまくできない。
去っていく父、その手前に、立ち尽くす三島がちらちら見えて、ああ、と思った。
心のなかで、どうして、と痛いほど叫ぶ。
なんでこんなことになった。なにがいけなかった。
たとえ避けられない終わりだったとしても、もっと、もう少しでも、なにか。
(……三島)
視界の端で立ち尽くす、痩せた男の影。
こいつのせいだ、と思った。
三島なんかを選んだせいでこんなことになった。
この男にほだされたりしたから、ここまでひどい終わりになった。
なんで俺はあの生物室で、母さんを選ばなかったんだ。三島のことを選んでしまったんだ。
もしあのとき母さんを取っていたら、せめて最後に、たったひと目だけでも会えたのに。
どろどろした感情がうずまいて、息が苦しくて、なにもできないまま。去っていく父の背中を、ただ、呆然と見つめていた。
無駄に仕立てのいいスーツ、それが角を曲がって消えていったとき、少し遅れて本当の実感がやってきた。もう二度と母と会えないという実感が。
「……っ、……」
指先が絶望に震えた。なにもかももう駄目だと思った。
俺を止めてくれるものも、抑えてくれるものも、すべて奪い去られてしまった。
俺の傍には誰もいない。もうなにも、なにひとつ、俺を守ってくれるものはない。
崩れ落ちるのを止めることができなかった。がくりと膝をつく。衝動のまま地面を殴りつけて、打ち付けた部分がひどく痛んだ。背を丸めて、勝手に嗚咽がこぼれだす。
「……くそ、くそ……ッ……!」
あんまりだと思った。
俺にはもうなにもない。誰も傍にいてくれない。守ってくれるものがない。
これから一生、ずっとひとりで戦っていくのか。
ぼたぼたと涙が地面の色を変えて、そのとき、ざっ、と静かな足音がした。三島だった。
ああ最低だ、と思って、それなのに、したたる水を止めることができない。
(嫌だ──嫌だ……ッ)
叫ぶように何度も繰り返す。
胸の内を、失意と絶望がしきりに打ちのめした。嫌だった。叫ぶように思った。
他の誰でも構わない、でも、こいつだけは嫌だ。
こんな最低の、卑怯で、ずるくて、ちっぽけで、見苦しい奴の前で泣きたくない。
ここまで最低の終わり方、その原因になった、こんな男の前なんかで。
ひどい嫌悪と情けなさとみじめさが入り混じって、ありとあらゆる感情が胸を乱した。ぐしゃぐしゃになった精神で、それでも体裁を保とうとする。見苦しい咳が何度か吐き出された。
俺はぐっと目元を拭って、立ち上がろうと腿に力を込めた。だが、それより先に、目の前に影が落ちた。三島だ。痩せた人影が、俺の前にひざまずいていた。
そっと手を伸ばされ、熱を帯びた指先が頬に触れる。訪れたのは間違いなく、この男への嫌悪と反発だった。それなのに、なにかが尽き果てた俺は、三島のことを払いのけることすらできなかった。
そっと顔を上げさせられ、生っ白い、思ったよりはきれいな顔が、静かに近寄る。
眼鏡ごし、薄いガラスを隔てて、あの名前のない宝石のような色の瞳が、俺をじっと見つめている。
それが薄く細まって、発声の直前の呼気の音、三島のくちびるが開かれて。
「なあ宗像、──俺にしなよ」
(……──なんだ、それ)
耳に流し込まれたのは、信じられない言葉。
俺は呆然と目を見開いて、三島が微笑んで言葉を続けるのを、ただ聞いている。
「蝶なんかじゃなくて、俺を、引きちぎればいい。好きにしていいんだ。なあ、宗像」
(なにを──言って……)
呆然と目を見開く。ほとんど絶望的な気持ちで息が詰まって、喉の奥が小さく音を立てた。
目の前の最低な男が、淡く目を細めて微笑んでいる。
今までに一度も見たことのない顔。悪魔みたいな誘惑の言葉、差し伸べられた熱っぽい手、うっとりと微笑む、天敵みたいな男。
(俺は、俺、いやだ、……──)
抵抗と諦念と嫌悪と情と、ありとあらゆるものが胸をかき乱して。
──俺の中のなにかが動き出す、どうしようもない音がした。
18歳未満のファウスト・中編
── 宗像達也の抵抗 ──
《了》




