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ローテーブルに陣取って、俺は問題集を眺めてペンを走らせた。
正面には三島が座っていて、俺と同じように筆記具を操っている。
テスト勉強と称しての行為だった。正直なところ、テスト勉強なんてしてもしなくてもいい。でも三島だけを勉強させれば、彼の矜持が傷つくだろう。なので一応のポーズとして、俺も問題集を解いていた。
筆記具の音がさらさら響く。正面に座った三島の伏せたまつげの奥、不思議な色の瞳が何度かまばたきをする。
それをひそかに眺めながら、俺はまた三島を部屋に上げてしまった、と考えていた。
病院前のバス停で、俺は三島を置いて別のバスに乗ろうとした。家具屋に行くと告げると、無垢な顔で模様替えかと尋ねられる。ただ首を振ってそのままバスのステップに足をかけた。
これ以上喋ると、余計なことをこぼしてしまいそうで、怖かった。逃げるようにバスに乗った。けれど。
「じゃあ、また生研部で」
「ま──待って!」
俺の挨拶を遮ったのは、焦ったような叫びだった。
急に飛び出した三島が、転げるようにバスに乗り込んでくる。その背後で、空気の抜ける音を立ててドアが閉まった。
俺は呆然と「なにやってんだおまえ」とつぶやく。いきなり飛び乗ったせいか、三島は膝に手をついて息を整えていた。自分でもわけがわからない、という顔で「えっと、なんだろう」とか言っている。
おまえにわからないものが、俺にわかるはずないだろ。言いたいのをこらえて、俺は小さく息をついた。しょうがないので三島を席に誘って、ふたり並んでバスに揺られた。
その後の家具屋で、俺は〝カメラ〟の材料を買った。どういう目的で、どうやって使うのかを説明したとき、三島はなにも言わなかった。ただ半開きの口をつぐんで、下を向いて、手を握りしめて、それだけだった。そのことがなにより、助かった。
俺は少しだけ考えて、迷って。前に誘えなかったファストフード店に三島を誘った。安いバーガーやポテトなんかを口に入れた。
うちに勉強しに来るかと聞いた口の動きは、ほとんど無意識なものだった。三島はわずかに口をつぐみ、黙ったまま頷いた。そうしてまたバスに揺られて電車に乗って、今に至る。
「なあ、前の高校って、どこだったの」
俺が問題解説を終え、三島が答えや過程をノートに書き取ったとき、興味深げな質問が飛んできた。俺は少しためらって、笑って言う。
「たぶん、三島は知らないと思う」
「そうか? 俺、受験のとき、全国の高校洗い浚い調べさせられたから、わりと詳しいと思うけど」
不思議そうに首をかしげる仕草。その言葉ににじむのは明らかに、『わざわざ他府県から受験生が集まるような学校』を想定されていて、俺はなんとも言えない気持ちになる。
そう、とだけ小さく言って、俺は正直に高校名を告げた。三島は少し考える仕草をして、わからない、という顔をする。それはそうだろう。
「やっぱりな。知らないだろ」
「ご、ごめん……」
当たり前だ。あんなその辺にいくらでも転がってる、偏差値50以下の平凡な学校を、他県の三島がわざわざ調べるはずもない。
俺はかすかに息を詰めて、それを隠して、笑った。
「すげえ近所の、普通の高校でさ」
「そうなんだ」
「通学時間短いのが良くて、選んだんだ」
うっすらと本当のことを告げる。不思議そうにしている三島をよそに、話題は終わりとばかりにペンを取った。
三島がこそこそスマホを操作しているのが見える。おそらくは、俺の高校について調べているのだろう。わかりやすい男だ。
あまり深入りされたくなくて、連絡きたのか、なんて声をかける。三島は慌てたようにスマホを片付けた。
痩せた手がシャーペンを取るも、書き始める気配がない。三島はぼうっとした表情で、なにやら考え込んでいる。
俺はひらひらと彼の目の前で手を振った。はっ、と三島が顔を上げる。
「さっきから、ずっと手、止まってる」
「あ……ごめん」
「や、謝ることじゃないけど」
そこまで言って気付く。三島の顔色が良くない。食事でも取ったら少しは良くなるかと思ったのだが、そんなことはなかったらしい。
そういえばさっきのファストフード店で、三島はセットのポテトをほとんど食べなかった。食べずに捨てるのを惜しむ彼の代わりに、俺がほとんどのポテトを平らげたのを覚えている。
(……目の下、クマできてる)
病院で見かけた三島の姿を思い出す。半月も経たないのに、二回も見かけた。痩せた身体、目の下のクマ、顔色もどことなく悪い。
思わず「大丈夫か」と声をかけていた。三島がたちまちうろたえる。
「な、なにが」
「体調」
ぴくっ、と三島の肩が震えた。視線を逸らし、とても小さな声。
「大丈夫。ちょっと、栄養足りてないだけ……」
消え入りそうな声だった。じっと三島を観察する。
青白い顔色、痩せた身体、思春期の男子にしては細すぎる腕。
(……本気で握ったら、すぐ折れそう)
そんなこと、絶対にしたくなんてないのに。ああやりたいなと思う自分が、すぐ隣に座っている。自分が心底、嫌になる。
俺はぼそっと、三島がそう言うならいいけど、とつぶやいた。三島がそっと腕を隠す仕草。見抜かれたような気になって、俺はさっと目を逸らした。
痩せた指先がシャーペンを取り、ノートの上で軽くさまよう。俺はとんとん、と続きの場所を叩いてやった。三島は短く礼を言い、続きに取り掛かる。
そこからは、また静かな時間が過ぎていった。
する必要もないテスト対策じみたものを続けて、三島がときおり首を傾げたり、真剣な顔をしたりするのを、目の端でぼんやり眺めている。
そのまま一時間ほど経って、俺達はようやく休憩を入れることにした。客用のドリップアイスコーヒーを片手に、どうでもいい話に花を咲かせる。
クラスメイトを家に呼んで、勉強して、休憩時間にバカ話。まるで普通の高校生みたいだ、と思った。
そんなことを考えてしまう自分こそ、〝普通〟とはほど遠いところにいるのだと、嫌でも実感させられて、苦しかった。
俺は何気なく話題を振る。
「三島って、志望校決まってんの」
「え……えっと、いちおう……」
「ふうん」
三島が勢いよくグラスをかき混ぜる。からからと、耳にやかましい氷の音。俺の無言の促しに、三島は小さな声で言った。
「たぶん……U大……だと、思う」
予想通りの答えだった。あれだけ貪欲に、いっそ異常なまでに知識を取り入れているのだ。これでU大じゃなかったら逆にびっくりする。
「学部とか決めてんの。うちのクラスにいる以上、理系なのは確かだけど」
特に考えなしに放った言葉だった。だが三島はえっと、と言葉を詰まらせて、うろうろ視線をさまよわせる。
ゆっくりと落ちていく視線を見届けて、目を細めた。じっと返答を待っていると、三島はぼそぼそつぶやく。
「宗像は……どうなんだよ。学校とか、学部とか」
やっぱ生物学なの、と問われて、うっすら笑ってしまった。どうだろうな、と答えるしかできなかった。
これからのことなんて、なにもわからない。
こうだったらいいなとか、こうでありたいとか、いつだってそういう理由で進路を決めてきた。
でも、俺はいつまで続けられるのか。いつまで、耐えていられるのか。
「志望校は決まってるよ。S大」
さらっと言葉が出た。三島がえっ、と口を半開きにする。目も丸くなって、なんだか間抜けな顔だった。俺は笑う。
「偏差値だけが全てじゃないだろ。学校ごとの特色とか、いろいろあるし」
口に乗せたのは、染み付いた、いつも通りの嘘。選択肢がいくらでもある人間のふりをして、俺は笑う。
本当はなにもかも嘘っぱちだ。選択肢なんてひとつもない。
おそらく俺はU大を受験させられる。M高を受けさせられたのと同じように。
そうして合格通知を受け取ったあと、父に頭を下げるのだ。お願いですから近所の学校に通わせてください、下宿だけはしたくないんです、と。
きっと今度も同じことが起こる。確信していた。
父は事あるごとに、俺を家から出そうとしていた。県外に追いやって下宿させてしまえば、母とのつながりや愛着も切れると思ったのだろう。
俺は俺でそれに抗って、父さんの望むとおりの完璧な人間になるからと、ひたすら何度も懇願した。
(また、同じやり取りを繰り返すのか)
射抜くような目で俺を見下す父と、お願いしますと頭を下げ続ける俺と、そんなことは何も知らない母。
ぼうっと中空を見つめる。焦点が定まらない中で、空梅雨の、少しだけうっとうしい湿度が部屋を満たしている。
うんざり、していた。
俺はいつまで、戦っていればいいのだろう。今すぐなにも考えずに、蝶でもマウスでも三島でもいいから、好き勝手に傷付けて、ばらばらにしたかった。そんな自分がひどくおぞましく思えて、嫌だった。
「……知識は、俺を裏切らない」
ぽつりと声がこぼれる。グラスを持ったまま窓の外を見つめて、薄曇りのはっきりしない天気が、ガラス越しに淡い光を投げかける。
もうほとんど効力を失いかけている言葉、俺を守ってくれるはずだったすべて。それを口の端に乗せて、虚しさに耐える。
「身につけた知識は俺を裏切らない。誰に奪われることもない。俺の周りに誰ひとりいなくなっても、知識だけは俺のことを最後まで守ってくれる」
──わたしの、代わりに。
その声が痛切に思い浮かんで、いやだ、と思った。
俺はどうすればいい。いつまで耐えればいい。
母の笑顔とこの言葉だけをお守りに、いつまで、あの現象と戦っていればいい。
「それ……」
ぽそり、と三島の声がした。
俺は夢から覚めたような気持ちで、ゆっくりと顔を巡らせる。
三島の、あの不思議な色の瞳が、とても静かに俺を見つめていた。
「俺も、そう思う」
小さな、でもはっきりした声。
なんの飾り気もない、単純な肯定は、俺の心をひどく揺さぶった。
(──……っ)
顔が歪みそうになるのをこらえて、それでも眉が動くことだけは耐えられなくて、ただ頷く。
ずっと三島を見ているとなにかが溢れてしまいそうだったから、俺はまた窓の外を見た。
「……母さんが、そう言ってた」
口の中で、独り言みたいにささやく。
俺を守り続ける、たったひとつのこの言葉。あのときの、絶対に忘れられない思い出。
抱きしめられた感触、タンポポと春先の西風、うす青いきれいな空。
三島と比べたら、俺はまだ幸福だったと思う。
たった一度でも、与えられることを知ったのだから。でも。
(俺は、いつまで──……)
わからない。なにもわからなかった。
三島がそう、とささやく声が、とても小さく聞こえてくる。
そうなんだ、と言いたくて、言いたくなくて。俺は黙って、グラスを一気に傾けた。
氷が崩れる音がして、喉の奥がひどく冷たかった。




