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病室に入ると、部屋の薄暗さが目についた。
カーテンが引かれている。どうやら今日は、陰性症状が強い日ではないようだ。
予想通り、俺の気配を悟った母はベッドにぼんやり座ったまま、達也、と小さく俺を呼んだ。
「うん」
答えながら、ああいやだな、と思う。母の意識がまだはっきりしていることに、がっかりしている自分が、だ。最低だった。こんな風になりたくはなかったのに。
感情を押し殺して、俺は三島に椅子を勧める。焦ったように首を振られて、自分で椅子を使うことにした。ベッドの傍に座り込み、母の顔色を観察する。目元の様子が、前回よりずいぶんしっかりしていた。
「調子はどう」
呼びかけに、母の瞳はゆっくりと動く。黒に近い焦げ茶の瞳が三島を捉えて、こわばった表情のまま、母は硬い声を上げた。
「その人は? あいつらの仲間じゃないでしょうね」
「違うよ。俺の友達で、母さんのことを助けたいって」
そう言うしかない。俺や他の人間がなにを言ったところで、母の〝現実〟は決まっている。否定してもなだめても、母は不安と恐怖にさいなまれるだけだ。だったら、物語に乗ってやるしかない。
ちら、と三島のほうを見た。あからさまに驚き、戸惑っている表情。かといって余計なことを喋られても困る。俺は軽く首を振ると、くちびるに指を当てた。三島がうなずく。
俺は母に向き直ると、もう一度調子を尋ねた。たちまちこわばった表情が暗くなる。
「もうだめ。みんな幹人さんに取り込まれてる」
「父さんなら俺が見張ってるから大丈夫だよ」
嘘だ。見張られているのはいつだって俺の方で、作り上げた完璧な虚像を、一日中監視されている。でも、そんなこと誰にも伝えられない。母にさえも。
母は追い詰められた顔で、だめよ、と言った。それから一気に、自分がどんな風に監視されているかを吐き捨てる。
疲労感が押し寄せて、うんざりした。それから、そんな風に思ってしまう自分への、耐えがたい嫌悪感も。
我慢できず立ち上がり、逃げるように言った。
「少し光でも入れようか。暗いままだと、気分も落ち込む」
ほとんど俺自身に向けての発言だった。少しでも明るいものが欲しかった。でも、カーテンに手をかけた瞬間、やめて、と鋭い悲鳴が飛んでくる。
振り返ると、母は怯えきった表情で固まっていた。苦い感情がこみ上げる。
(……当たり前だ)
母にとっての現実では、大量の人間が四六時中自分を見張っているのだ。カーテンなんか、怖くて開けられるはずがない。
ごめん、と微笑む。俺は黙って椅子に戻った。身をこわばらせ、母がひたすら窮状を訴える。俺はそのすべてを、うんとか大丈夫とか、不誠実な言葉で乗り切った。
「俺は大丈夫だよ」
「でも。今だってきっとここ、盗撮されてるわ……!」
ため息が出た。こんなやりとりを、何度繰り返しただろう。
それでもいいと思っていた。どんなに母があちら側ばかりを眺めていたって、このひとの傍にいられさえすればと。でも。
俺は立ち上がって、三島の隣に歩み寄った。痩せた肩に手を置き、大丈夫だよ、と笑う。
「こいつ、連れてきたから。母さんがひどい目に合ってるって聞いて、俺たちのこと手伝ってくれるって」
「え、あ、えっと──」
たちまちうろたえる三島。だよな、と念押しのように言った。三島がはっとしたように頷く。母は疑うような目で、じっと三島を見つめた。
「達也のお友達?」
「は、は、はい……友達、です。三島です」
たどたどしい『友達』の声音に、嘘やごまかしは感じられない。本当に、俺の目的は果たされたのだと実感する。俺は母に向かって大丈夫だよと笑いかけると、三島をベッドの方に促した。
「こいつ、盗聴器とか、カメラとか、見つけるのうまいんだ。な?」
非常識極まりない紹介に、それでも三島はこくこくと頷く。
「俺たちで探してみるよ」
促して、三島とふたり、ありもしないカメラ探しのふりをした。三島は素直に這いつくばり、床をさすったり、ドアの隙間を覗いたりしていた。俺も同じような仕草を繰り返す。怯えたように母が身をすくめていた。
もういいかな、という頃合いで、俺はこっそりポケットから〝カメラ〟を取り出す。立ち上がり、あった、と見せつけた。母の目がやっぱり、という風に見開かれた。
ボロが出る前にそいつを踏み壊す。母の安堵の声を聞きながら、押しつぶしたパーツを拾い上げた。椅子に戻り、ほら、と見せつける。
「ちゃんと部屋中探したら、あったよ。きちんと壊したから」
「……よかった……」
顔を覆って絞り出された悲痛な声に、思った以上に冷静な自分がいて、うんざりした。
こんなものただのおもちゃだ。母の語るのは単なる物語だ、そこに現実なんてひとつもない。
母はもう俺を守らない、俺の現実なんて知りもしない。この人に会う、それだけのために、俺がどんな代償を支払っているのか。そのことを、ひとつも知らない。
なんだか無性に悲しくなって、でも、俺の口からは母を慰める言葉ばかりが、ずらずら勝手に並べられる。
母はほっとした顔で三島を見て、礼を言った。
「ありがとう。助かったわ。おかげで今夜は、少しは眠れそう」
「そ、そ、それは……よかった、です」
母はにこりと微笑む。その顔が昔の笑みととても良く似ていたことが、余計に俺の悲しみを増幅させた。耐えられなくなって、床の鞄を持ち上げる。逃げるように言った。
「俺ら、そろそろ帰るよ。父さんに見つかったらまずいから」
父の存在を出すだけで、母はたちまちこわばった顔をする。こわごわとした声が聞こえた。
「幹人さんには気を付けて。達也、ほんとうに一人で大丈夫?」
大丈夫なもんか。俺はもうとっくに契約済みで、悪魔に魂を売っていて、いつあちら側に落ちるかわからなくて、心底疲れ果てている。
それらすべてを押し隠して笑って、俺は母が三島に礼を言うのを、ただ聞いていた。
母は三島がなにも言えないのをいいことに、ずらずらと父にまつわる〝物語〟を語り続けている。いたたまれなくなって、そのへんでいいだろ、と止めに入った。
母はそうねと口をつぐむ。そして三島の目を見て、言った。
「三島くん。達也のこと、よろしくおねがいします」
はい、と三島がぎこちなく頷く。
なにがよろしくだ、と思った。この男は俺にとってもっとも危険な、天敵みたいな奴なのに。
母はなにも知らない、知ろうともしない、そうすることがもうできない。
胸の底がどんどん冷たくなっていって、それなのに俺は、今も完璧な顔を装っている。
「じゃあ、母さん。今日から数日間は大丈夫だから、その間だけでもゆっくり休んで」
「本当に、いつもありがとう。達也だけよ。わたしのことを信じてくれるのは」
「また来るよ。元気で」
「ええ。気を付けてね」
ああ、本当に──クソみたいなやりとりだ。
母の陰性症状が強ければよかった、なんて考えたくなかった。でも、やっぱり、そうだったらよかった。
この格子で囲まれた空間にすら、俺はいつもの〝完璧〟を持ち込んでいる。息が詰まって、とても苦しい。喉のあたりがぐっと押しつぶされる感じがした。
三島を連れて、病室を出て、エレベーターに向かった。無言のまま入った庫内で一階へのボタンを押して、つぶやく。
「……で。うちのは、こういう〝お見舞い〟なわけだ」
「う、……うん」
完全にこわばり、凍りついている三島の顔を見て、俺は薄く笑った。
(なあ、三島)
やっぱりおかしいか。
俺のいる場所は、やっていることは、こうして耐えていることは。
なんだかとても疲れていて、うまい判断も、上手な立ち回りも、なにもわからない。うんざりする。どろどろとしたものが、俺の内側を汚す感触。〝現象〟が動き出す気配。
電子音が鳴った。エレベーターが到着する。俺は振り返って、行くぞ、と三島に呼びかけた。
前みたいな西日を浴びて、あの不思議な色の瞳が、呆然としたように輝いていた。




