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土曜日、俺はバスに揺られ、こっそり母に会いに行った。
母はもう俺を守らない、あの思い出だって覚えてはいない。
わかっていて、それでも母に会いたいのは、俺があまりに堪えていたからかもしれない。虫を殺して、マウスを殺して、猫を飛び越え、三島に手を出してしまいそうな自分に。
病院の廊下を歩きながら、今日は陰性症状が強いといいのに、と思った。ぼうっとしてなにもわからない母になら、思いの丈を吐露することができる。母の反応に怯えることなく、少しでも荷を下ろすことができる。
(……最低だ)
誰より大切な人の、症状の悪化を願うなんて、今まで一度も考えたことはなかったのに。
自己嫌悪でいっぱいになる。下を向いた。スニーカーの爪先が、大股で前へ前へと送られる。
早く病棟に行きたかった。もう、完璧な自分を維持するのもしんどかった。少しでいい、息継ぎのあいだだけでいい。一言でいいから、なにも考えずに、思ったことを話したい。
だが、下ばかり見て歩いていたせいだろう。どん、と誰かにぶつかってしまった。慌てて顔を上げる。倒れ込みそうになった相手の二の腕をとっさに掴んで、引っ張った。
助け起こして驚く。三島だった。
(また──病院で?)
あれからまだ、半月も経っていない。もしかして、どこか悪いのだろうか。
三島は俺を見留めると、ぽかんと口を半開きにした。何度も見た無防備な顔。
「おまえ、ほんっとすぐその顔するよな」
「む、む、宗像……どうして」
それはこっちの台詞だよ。思っても言うことはできなくて、俺は三島の落としたファイルを拾い上げる。胸元に押し付けると、彼は慌てたように抱き止めた。
おずおずとした瞳が俺を見上げて、なんで、と小さな声。だから、それを聞きたいのは俺の方だ。
ファイルを抱えているということは、三島は診察を受けたということだ。前回もおそらくそうだったのだろう。
(……こんな短期間で、二回も?)
思わず眉根が寄った。俺の視線に気付いたらしい、三島はぎこちない仕草でファイルを背後に隠した。ますます眉根が寄る。
「……体調、悪いの」
「す、少し。不摂生で、栄養不足だって」
それはそうだろう。初めて会ったときから思っていたが、三島はずいぶん痩せている。食事の用意は自分でしているらしいが、どうせろくなものを食べていないのだろう。
だからといって彼のためにできることなど思いつかなくて、俺はそう、とつぶやくしかできない。
三島は淡く笑うと、
「宗像は、お母さんのお見舞い?」
とても当たり前のように尋ねてきた。思わず苦い笑みが浮かんだ。
「お見舞い……お見舞い、ね」
そう呼んでしまうには、俺と母との邂逅はあまりにも一方的で、虚しくて、いびつだった。
三島がきょとんと首をかしげる。俺がなにを思っているのか、なぜ母に会いたいと切望しているのか、会ったところで絶望しか待っていないということ、そのすべてを、ひとかけらたりとも想像したことがない、という顔だった。
目元が歪む。俺は自分の口から、一緒に来るか、という言葉が勝手にこぼれ落ちるのを、嘘みたいだと思いながら聞いていた。
三島がためらいがちに俺を見上げる。いとけない、子供みたいな、不思議な色の瞳。俺の加害を誘う、天敵みたいな。いいのか、と尋ねるような目つき。
俺はなにかを諦めて「いいんだよ」と笑った。
絶対にやめるべきだと思うのに、口先ばかりが俺を裏切る。
いい加減やめにしたい、もう終わりたい、あっちに行きたい、戻ってきたくない。絶対に思ってはならない思考の数々が、俺の中をぐるぐる回る。警告表示の黄色と黒が、脳裏を何度も翻る。
その思考を振り切るように一度まばたきをすると、
「おまえ、会計するだろ。付き合うよ」
俺は完璧ににこやかな顔で言った。
その顔の下にあるどろどろは、作った笑みに押さえつけられて、ひとつも顕現することはなかった。




