63
相変わらず空梅雨の、ぼんやりした天気。
うすっぺらい光が差し込む生物室で、淡々と電流ケージの準備を進めながら、俺は通常の顔を装った。
さらりとした顔を作ってはいるものの、そんなのは表向きだけだ。母のこと、三島のこと、俺のうちに眠る現象のこと。考えが頭のあちこちで散らばって、俺の思考を邪魔してくる。うまく考えられない。なんだかとても疲れていた。
「そろそろ、ちゃんとストレスかかってるか確かめないとな……」
ほとんど無意識に言葉が出ていた。
「確かめるって、どうやって」
少し離れたところから、恐る恐る、といった三島の声が聞こえる。俺は静かに、解剖して胃潰瘍の有無を調べる、と告げた。それきり、三島が黙り込む気配。
視線だけで三島を見た。三島は、凍りついたように顔をこわばらせていた。予想通りの反応。すぐさま、苦い感情がこみ上げる。
こんなことを言うべきじゃなかった。すまない、みたいな顔をして、でもそれが本当かどうかもわからない。自動的に反応する〝完璧〟が、俺の本心をわからなくする。
「大丈夫か」
問うてから、しまったと思った。案の定、大丈夫、と気丈な返事が返ってくる。胸元で握りしめた三島の両手は、白くなるほど力がこもっていた。それがこの『大丈夫』はただの、かつての発言への操立てでしかないと伝えてくる。
(本当は、大丈夫なんかじゃないくせに)
「……そうか」
普段なら出てくるはずの上手な気遣いの言葉が、どうしても思いつかなかった。うまく表現できない感情が胸を満たした。
三島には申し訳ないと思いつつ、実験を開始する。背後で、三島が平常マウスを飼育室に戻しに行く足音がした。
かち、かち、とボタンを押し込み続ける。マウスの反応は、だんだんと鈍くなってきていた。おそらくはストレスのせいで無気力に陥っているのだろう。
これは順調な兆候だ、わかっているのに、悲鳴の小ささに不満を覚える自分がいる。
ひとりでに舌打ち混じりの吐息が漏れて、
「……なんか反応悪いな」
──ガンッ、と思った以上に大きな音。一斉に上がるマウスの悲鳴。
気が付けば、ケージのすぐ脇を思いっきり殴っていた。
あ、と思って、ほんの少しだけ気持ちがすっとする。それでもこんなものは効力をほとんど失っていて、俺の内側にあるどろどろしたものは、わずかしか拭われることがない。
そのとき、
「宗像……?」
ぽつり、と三島の呼び声がした。ゆっくりと振り返る。
視線が、交わった。
三島は、怯えたような、それでいてなにかを待っているような、不思議な瞳で俺を見つめていた。
なにかを見透かされそうな、暴かれそうな感覚が一気にこみ上げる。
それに惹き込まれてしまいそうな自分がいて、ぞっとした。
(嫌だ──だめだ)
本能の警告が聞こえる。
三島はだめだ、深入りするな、この男は俺を破滅させる。
喉元を震わせる、根拠のわからない確信。俺は心の中で、何度も三島を罵倒した。
この男は最低だ。ずるくて、卑怯で、みっともない、俺を猫殺し呼ばわりした、最低の小物だ。
何度思っても心の中はちっとも落ち着かなくて、目の前では三島があの、名前のない宝石みたいな瞳で俺をじっと見つめている。警告表示を踏み越えて、ずっと抑えてきたものが暴かれそうになる気配。
逃げるように下を向いた。息を吸って、長く吐く。心音を数える。末端の感覚に注意を向ける。散ら
かった思考を追いかけるのを意識してやめて、俺はようやく、それらしい落ち着きを取り繕った。顔を上げ、謝る。
「……悪い。びっくりさせたな」
「あ……、うん……」
三島は呆然としている。その表情にはなぜか怯えや驚愕、不安などは見られなくて、よくわからない、なにかを惜しむような色が見て取れた。
眉をひそめる俺をよそに、三島はぼうっとしている。なんとなく、顔色が悪いように見えた。
そういえば、と思い出す。最近三島は、ずっと調子が悪そうだった。
血色も悪くて、どこか上の空のことも多かった。思わず顔を覗き込む。三島がはっ、と肩をびくつかせた。
「三島? 大丈夫か」
「え、えっと……うん、平気。本当に」
「ならいいけど。最近おまえ、ちょっと顔色悪いぞ」
三島はたちまち不思議そうな顔になり、気のせいだろとつぶやく。そのままぺたぺた頬を触りだしたので、思わず笑ってしまった。
「触ってわかるもんなのかよ」
「わ、わかんないよな……」
「そりゃそうだろ」
うーん、とばかりに首を傾げる三島。これは本当に、体調不良の自覚がないようだ。
俺は椅子から立ち上がると、三島の額に手を当てた。できるだけ耳元を見ないようにして、様子を観察する。
やっぱり、顔色が悪い。うっすらとほてった熱が、てのひらにじんわり伝わってきていた。眉をひそめる。
「ちょっと熱いか? いやでも誤差かな……」
もうちょっとはっきり発熱していたら、帰れとか安静にしろとか言えたのだが。体温計があればよかった。そうだ、保健室に──
そこまで考えたとき、視界の隅でなにかが動いた。
三島の手だった。
痩せた指先が持ち上がって、そっと髪をかきあげる。ゆっくりと、耳元の透明なものがあらわになる。
空梅雨の、淡い日差しを受けてなめらかに光る表面。それが目に飛び込んだ瞬間、
(──だめだ)
ぞくっ、とした衝動を、無理やり目を逸らすことで抑え込んだ。
「大丈夫そうだな。……じゃ、俺作業に戻るわ」
不自然な早口で身を翻す。
三島の目が、なにかを待つような眼差しが、俺をじっと追いかけている。
伺われる気配を感じながら、俺はケージに戻った。逃げるように椅子に座り、ボタンを押す。マウスが跳ねて、ケージをしきりに揺らした。
ちらちらと、さっき見えた透明がまぶたの裏をちらついて、やっぱりだめだ、と思った。
三島は俺の天敵だ。関わってはならない、俺の傍に置いてはいけない。
この男は立入禁止の警告表示を踏み越えて、俺の中身を引きずり出してくる。俺をあちら側に突き飛ばす。いくらもう俺に敵意を持っていないとしても、こいつが最低な男であることは変わらない。
近付くな、気を許すな、本心を見せるな。
あの男は卑怯でずるくてちっぽけで見苦しい、最低の人間なのだから。
言い聞かせているだけということはわかっていた。でも、そうする以外になかった。
俺はひたすらマウスに電流を与え続けて、どのマウスの腹を開こうかと考える。具体的な手順を想像する。そうしないと、人間に──三島に手を出してしまいそうで、怖かった。
腹を開かれたマウスを夢想して、あの〝現象〟をなだめようとする。それでも、現象はちっとも落ち着かない。それどころかどんどん重く、苦く、暗くなっていく気さえする。
ため息を押し殺した。ちら、と三島を振り返る。彼はあの不思議な色の瞳を伏せて、母にもらったというタブレットを、静かに見下ろしていた。
そしてこの日を最後に、期末考査前のため、生研部の活動は禁止となった。




