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ごそごそと、自室の本棚から本を引っ張り出す。三冊そろったそれを袋におさめて、俺はドアの方を振り返った。
三島は玄関で待っている。さっさと行ったほうがいいだろう。
階段を下りて玄関に戻る。三島は所在なさげにぽつんと玄関に立っていた。上がっていけばいいのにと思ったが、夕飯を作るからと断られたのだ。
(夕飯、ね……)
三島がもし家族のぶんまで作っているのなら、帰らなければならないと言うのも頷ける。だが、三島の口からは家族と口をきいたという話すら出てこないのだ。
彼の家の中で、なにが起こっているのか。俺には類推すらできなかった。
「待たせた。ほい、これ」
胸元に本を押し付ける。三島は慌ててそれを受け取ると、あれ、という顔をした。
ちょい、と指先で中を見ろと指示する。三島は素直に袋を覗き込んで、ぱちぱちとまばたきをして俺を見上げた。子供みたいな仕草だった。
「おまけ。同じ作者の本、買ったから。ついでに付けとく」
「え。いいの?」
「いいの、いいの。お礼ってことで」
さらりと言うと、三島はなんのことかわからない、という顔をする。
量子力学はともかく、この作者の文章は面白かった。それは間違いなかったので、俺は素直に本を褒める。
途端、三島が目をきらめかせて前のめりになった。
「だ、だ、だろ!? 面白いんだよ、量子力学!」
ものすごい勢いだった。未分化の整った顔が紅潮して、宝石みたいな目がきらきら光った。硝子レンズ越しに、不思議な色合いが揺れる。きれいだなと思った。
(ほんと、普段からこれくらい喋ればいいのに)
そしたらきっと、こいつだってもっと友達とか、大切な人とか、できるかもしれないのに。
思わず笑ってしまい、三島があっ、という顔をする。
恥ずかしそうに肩をすくめる彼に向かって、違う、と手を振った。疑わしげな目が俺を見上げてくる。
「元気出たみたいでよかったな、と」
その言葉は、思ったよりずっと素直に口から出た。
三島はえ、と口を開いた。またその顔だ。無防備でいとけない、子供みたいな顔。
「……」
俺は少し黙って、なにかを考えようとした。でも、疲れ切った頭の中はちっともうまくまとまらなくて、喉の奥から勝手に言葉が漏れ出してくる。
「最近ずっとやってる、マウスの準備、あるだろ」
三島が表情を固くした。こくん、と頷く。それきり彼は下を向いてしまった。
やっぱり気にしてるんだな、と思う。
「あんなの、三島は絶対、良い気分しないってわかってたのに」
「それは……えっと」
「嘘つかなくてもいいよ」
半ば作為的な、わざと作った口調と言葉で、誠実を演出する。自動的に出てくる俺の〝完璧〟が、勝手に仕事をはじめる。
「なんだかんだ行っておまえ、小さい生き物にやさしいから」
「そんなこと、べつに……」
「うちの蝶のことだって気にかけてたろ」
本当は、気にかけてほしくなんてなかった。誰にも見せたくなかった。
俺の中身なんて気付かれたくはなかったのに。
どうして俺はよりによってこんな男を、あの部屋に入れたのだろう。
なんだかよくわからない、ぐちゃぐちゃした気分になった。
なにもかもを振り切るように、俺はごめん、と小さく吐き捨てる。ぼそりと言った。
「……嫌な思いさせたな。入部を許可した俺が悪かったよ」
「っ……」
三島はただ、黙って息を呑んでいる。俺は自分の言葉が本当なのか嘘なのかもわからずに、ただ手を握りしめていた。自動操縦の勝手な〝完璧〟の運用が、俺の本心をわからなくする。
じっとなにかを堪えていると、俯いた三島の顔から、ちがう、と小さな声がした。えっ、と思わず声が出る。
三島は下を向いたまま、ぎゅっと胸元を握りしめて、半ば裏返った声で小さく叫んだ。
「か、勝手なこと言ってんなよ。そんなん謝られても、俺、嬉しくない……!」
「……三島」
ぽつん、とした俺の呼びかけに、三島はますます下を向いて、言う。
「だ。だ、だって。俺、生研部に入って、……良かったと、思ってる」
なにを言うこともできなかった。
「ほ……ほんと言うと、生物より、物理の方が好きだった。今もそう。でも、あそこに来たおかげ俺、知らないこと、いっぱい知れたし」
三島はたどたどしい言葉で、必死だと明らかにわかる様子で、子供みたいに言葉を重ねた。
その手元が、緊張にか恐怖にか、小刻みに震えていた。
「おまえが持ってくる本とか論文、いつも、すごい面白かったし、それに、えっと、なんか、その……」
語尾がふらふらよろめいて、小さくなって消えていく。
三島はそのまま、肩を落として黙り込んでしまった。胸元がかすかに上下して、呼吸が浅く、早くなっている様子が見て取れた。
(……ああ、)
胸の奥でなにかが光った。確信があった。
三島はもう──俺に敵対心を抱かない。
むしろまったく逆の感情を持っている。それがわかった。
(俺の目的は、果たされたのか)
ずるくて卑怯で最低の、俺の天敵みたいな男。
弱みを握ろうと近付いてきた不穏分子を、逆にたらしこんで、取り込んでやろうという俺の魂胆。
目的は達せられた。三島はもう、二度と俺を敵視しないだろう。
そう思ったのに、安堵も達成感も、ひとつも湧いてこなかった。
目の前で息を浅くして、緊張やいたたまれなさに震えながら、それでも俺のために言葉を選んでいる男。
湧いてくるのはむしろ、彼に対する、よくわからない情みたいななにかだった。
この玄関で口にしたのはすべて、誠実さを装った、半ば作為的な言葉だった。でも。
──それが〝半ば〟というならば、残り半分はどうなんだ。
自然に浮かぶ問いかけに、どうしても上手に答えることができない俺がいた。わからない。俺はぐちゃぐちゃで、自動操縦が勝手に動いていて、もう本当に疲れていて、それでも最後まで抗いたくて、自分のことがなにもわからない。
それでも、目の前で震えているこの男のために、なにか言ってやるべきだと思った。
だから、じわじわと胸を満たすものに任せて、俺は笑った。
「……ありがとな、三島」
自分でも聞いたことのない声が出た。
それは母の前で出す声に少しだけ似ていて、でもどこかが決定的に違う、俺の知らない声音だった。
三島が顔を上げる。ぼうっとした瞳が俺を見た。呆けたような顔のまま、こっちこそ、と小さくつぶやく。
俺は吐息だけで笑うと、じっと三島を見つめた。
素直で、いとけない顔だな、と思った。湧いてくるのは間違いなく情みたいなものなのに、同時に俺の底では〝現象〟がずるずるとうごめいていて、この男を加害したい、その欲求が、日に日に強くなっているのを感じている。
不思議な感覚だった。胸のあたりがじわじわとにじむような感じがして、感情は快と不快が複雑に入り混じっていて、たぶん諦念にいちばん似ていた。
三島が、詰まったような声で帰る、と言う。イントネーションもめちゃくちゃで、ほとんど片言みたいなそれに思わず笑ってしまった。
「なんで片言」
「えっと……わ、わかんない」
そりゃそうか。わかってたら普通、ここまでぐずぐずにはならない。
俺は小さく吹き出して、手を持ち上げた。三島の髪を少し撫でて、頭を二度ほど叩いた。
「……気を付けて帰れよ」
「う……うん」
どこか気恥ずかしそうな顔で三島が頷く。素直な、いとけない、子供みたいな。今すぐにでも、捻り潰したくなるような。
俺の中で嫌悪と欲望が同時に湧いてきて、でも、じわじわした不明な情が、その全てを覆い隠している。
三島はドアに手をかけると、そのまま手を止めて。
「えっと……また生研部で」
まるで約束みたいな言葉を口にした。ああ、と返事をする。
「……よろしくな」
俺の言葉に、三島はこくりと頷くと、ドアを開けて出ていった。
音もなく閉じたドア、その鍵を静かに回して、俺は誰もいなくなった玄関ドアをぼんやりと見つめた。
三島のことを考えた。
何度も何度も懸命に告げられた、大丈夫、という震える声。
たったいま与えられた、誠実で真摯な、たどたどしくも拙い言葉。
間違いなく、じわじわとした感情で心が動くのに。こびりつくように脳裏にちらつくのは、マウスの悲鳴と蝶の色彩、そして三島のピアスだった。透明な海の底みたいな、青くて小さい、とてもきれいな。
息を吸って、吐いた。胸の内で小さく唱えた。
三島は──きっと悪い奴じゃない。
それはわかっている。でも。
思い浮かぶ三島の姿が、脳裏にちらつく加害を誘う存在が、さっきもらった真摯なものを塗りつぶそうとする。強制的にあちら側に引きずり降ろされる感覚と、この男のせいで破滅する、というたしかな予感。
(──三島だけは、だめだ)
確信に近いものを噛み締めて、思った。
三島はだめだ。あいつだけは、絶対にだめだ。
目的は果たされた、三島はもう俺を害さない。
それどころか、俺の味方になってくれるだろう。俺の行為はもう、なんの意味もない。
(だから──あの男に、深入りすべきじゃない)
それは警告を通り越した、いっそ悲痛な叫びだった。
関われば破滅する、それがはっきりわかる。それでも。
思い出されるのは震える声、たどたどしい、真摯な言葉。情と同時にやってくる加虐欲。ぐずぐずに混じり合った自己嫌悪。
「…………三島……」
俺は靴下のまま三和土に立ち尽くして、嘘っぽい明かりが照らし出す玄関の中、じっと黙っていた。
胸の中がよくわからないもので乱れて、うまい方法や正しい答えが、ひとつも思い浮かばなかった。




